プロローグ
何処かの本に書いてあったが、人間は本能的に自殺しないように出来ている。
友達を増やし、子孫を繁栄し、コミュニティを形成し、それを守る為に長生きするように、脳の奥底でインプットされているらしい。
若い頃はその危機感が無く、無駄に「長生きしたくない」などと口走るが、結局「では三十歳になったら自殺して下さい」といっても死なないように出来ているのが人間という種族のようだ。
しかし同時に、何かの拍子に「自殺したい」と思うように出来ているらしい。
苦しみから逃れる最終手段として、自殺が脳内の大部分を占めるのも、また人間の習性と言える。
恐らく、他に迷惑をかけるぐらいなら「さっさと自分だけ死んでくれ」という神様のメッセージなのだ。
「―――貴方が、蜘蛛なのね?」
しかしこの世の中、「自殺」という単語は良く耳にする。
それも借金を抱えた中年者のような人だけでなく、未来溢れる若者も多い。
不思議な話だ。
人間は自殺するように出来ていないというのに、自殺するように出来ているのだから。
「蜘蛛なんて言わないでよ、蝶々よ、蝶々」
笑えない話だ。
その不思議の真実を、私は知ってしまったのだから。
知ってしまった上に、その真実の原因を目の前にしているのだから。
「蝶々は、獲物を待ち構えるような巣を作らないわ」
なにより笑えないのは、私自身が笑っている事か。
黒以外の色が認識できないほど、真っ黒な服で身を包んだ女性……
いや、「蜘蛛」を目の前にしてこうも高揚するとは、我ながら笑えない。
「なら、その巣に自ら飛び込んでくる貴方は、何者なのかしらね?」
一方、蜘蛛も私と同じように微笑みながら、問いかけてきた。
満月の光で彩ったナイフを持ちながら、巣に飛び込んでくるお前は誰なのかと。
――知っている癖に。
そう言いたくなる気持ちをなんとか抑えこみ、代わりに大きく深呼吸をする。
これが返事なのだといわんばかりに、大きく、大きく深呼吸をする。
その行為が非常に挑発的だったのか、蜘蛛の笑顔は少しだけ陰りを見せる。
……否、思った以上に反応が面白くなかったのだろう。
「……なによ、もっと怒って、醜く泣き叫ぶかと思っていたのに」
こんな静かな山奥だ。
小さく呟いた独り言を聞き逃すほど、周囲に雑音は無い。
だからこそ、その声色が本心である事を、私はしっかりと認識した。
所詮相手からすれば、私はただの「玩具」にしか過ぎない事を。
「感謝しているわ。有難う」
だから私も本心で語る。
私はただの玩具で居続けるほど、弱い人間では無くなったのだと。
このナイフは決して、脅し程度の道具ではないのだと。
「私を殺してくれて、本当に有難う」
本心の言葉を受け、蜘蛛は完全に笑顔を崩した。
同時に少しずつ、「蜘蛛」の名に恥じぬ八本の足のような物が背中から生えてくる。
蜘蛛が望む玩具は、もういない。
いよいよこの時をもって、私は完全に「獲物」になった事を、彼女の顔色が示していた。
「そして何より、貴方が蜘蛛でいてくれて、有難う」
そう――お互いにとって「狩り時」というわけだ。
西暦二千十五年、七月十日。
この何もない山奥に死体が一つ転んでいるのが発見されるのは、もう少し後のことになる。




