レグルスの星
レグルスの星
賑やかな都会から遠く離れた、くりの木がある山が見える田舎の町に、小さな動物園がありました。
動物園には、ライオン、ハクチョウ、ワシ、クマの親子などがいましたが、病気などで、ほとんどの動物たちは死んでしまい、今ではオスのライオンのレグルス一頭だけになってしまいました。
しかし、そのレグルスもこの動物園にやって来て、もう随分とたつので足腰も立たないほどヨボヨボになって、あれほど立派だったたてがみも、透きとおるほど真っ白になっていました。
そこで、飼育係の人たちは顔をしかめながら、これからどうしたものかと、それはたいそう真剣に話し合いました。
『あのレグルスも、もうそれほど長くないようじゃの』
『じゃが、レグルスがおらんようになると、ライオンの檻までが空っぽになるでの』
『そうじゃ。もし、そんなことにでもなったら、この動物園に来るもんがおらんようになるでぇ』
ほとほと困り果てた飼育係たちの顔は、目鼻の区別が付かないほど、シワクチャにしかめられていくのでした。
時が過ぎ、山のくりの木が綺麗な花を咲かせる頃になりました。まばゆいお日様に照らされた雲がみるみる大きくなって、薄みどりに染められたかのような田舎じゅうの田んぼに、その闇のような黒い影を落とすのでした。
そんなある日のこと、アフリカの大平原から一頭の若くたくましいオスのライオンが、おんぼろトラックにゴトゴト揺られながら、この片田舎の小さな動物園に送られてきました。その若いライオンは、年老いたレグルスの向かい側の小さな檻に入れられると、大地をも揺るがさんばかりの大声で怒鳴りました。
『なんだこれは。俺さまを誰だと思ってやがる。百獣の王ライオン様だぞ。その俺さまをこんな狭いとこに閉じ込めるとは。いまにみていろ。すぐにでも、ここから逃げ出して、あいつら人間どもをめちゃくちゃに引き裂いて食いころしてくれるわ』
その怒り狂った若いライオンの雄叫びを聞いていたレグルスは、なだめすかすように、そっと優しい穏やかな声で言いました。
『おいおい、そんなに大声で怒鳴るのはからだに良くないぞ。たしかに、アフリカの大平原では、お前は百獣の王だ。ほかのやつらはお前がひと声吠えるだけでブルブル震えあがり、命乞いをしてひれ伏すだろう。でもな、ここではお前も一頭の動物でしかないのだぞ。逃げ出すなんて馬鹿なことは考えるな。人間たちに鉄砲で撃ちころされるだけだからな』
すると素早く、
『じいさん。あんたはライオンの誇りを捨てたのか。大体いつまでもこんなとこに居るから、そんな不抜けたことを言うんだ。まったく情けないもんだな』
と、若いライオンが投げつけるように言い返しました。
『そうかも知れんな。お前の言うとおり、俺はここに少し長く居過ぎたのかも知れん』
レグルスはどことなく悲しげに呟くと、俄かに黙りこくってしまいました。
それから暫くして、空っぽの檻が並ぶ薄暗い奥のほうから、なにかがゆっくり足音をたてて、だんだん近づいて来ます。その足音は、若いライオンの檻の前まで来ると、俄かにぱたっとやみました。
『ほほう、お前が今度やって来たやつか。さすがにアフリカの大自然で鍛えられただけあって、なかなかにいいからだつきをしとるの』
ねずみ色の作業服に、膝のあたりまであるゴムの黒い長靴を履いた飼育係は、何だか嬉しそうにしながら弾むように言うのでした。
けれども、あんまり若いライオンが怖い顔をして睨むもので、さすがに飼育係も思わずおののいてしまいました。
『おい、そんなに怖い顔で睨むなよ。今日から俺がお前の世話係なんだからさ、もっと仲良くしようじゃないか。ほら、これが今日のぶんの餌だぞ』
そう言うと、飼育係は今にも血が滴り落ちそうな真っ赤な肉の塊を檻の隙間から、ぽいっと投げ込みました。
すると、何か大切なことを俄かに思い出したかのように、飼育係は慌てて言いました。
『あっ、そうそう。レグルス、お前にもやらんとな。すまんな、何もお前のことを忘れてた訳じゃないんだが、ちょっとな』
飼育係は如何にも申し訳なさげに、ちょっと小さめの肉の塊を、レグルスの檻の中にもぽいっと投げ込みました。
そしてまた、ぽこんぽこんと音をたてて、飼育係は薄暗い奥の方へと帰って行きました。
暫くして、やっと落ち着いた若いライオンが深いため息をついたその時、お腹の中を何かが音をたててぶるぶると揺さぶりました。そして、目の前に投げ込まれたご馳走を無我夢中でがぶりとかぶり付いていました。
美味しそうに食べる若いライオンの姿をじっと見つめていたレグルスは、何かあついものがからだの奥深くからこみ上げてくるのを、胸いっぱいに感じていました。
また時が過ぎて、山のくりの木に堅いいがを着飾った実が、枝いっぱいになる季節になった、ある日の夜のこと。 レグルスは、まるで優しく語り合ってでもいるかのように、きらきら光り輝く星の夜空を、小さな窓からじっと見上げていました。
『さっきからどうしたんだい、じいさん。何だか楽しそうだけど、何か面白いものでも見えるのかい』
若いライオンが身を乗り出して尋ねますと、レグルスはにっこり微笑み、まるで独り言を呟くように、そっと言いました。
『そう、よく見える。今日はことのほかよく見える。ほら、ワシのアルタイルがふざけ過ぎて、川で溺れそうにしとる。それを見て、ハクチョウのデネブが笑っとるわい。どうじゃ、お前にも見えるじゃろ』
でも若いライオンには、レグルスの言うようなものは何ひとつ見えませんでした。
『どうしたんだ、お前たち』
レグルスたちの話し声がするので、飼育係が見回りに来たのです。
そして、いつの間にか酷くしょげかえっているレグルスの様子を見て驚いた飼育係は、
『どうした、レグルス。からだの具合でも悪いのか』
と、かたく閉じられた鉄格子の扉を、ついうっかりと開けてしまいました。
するとその時、レグルスのからだの中を何か稲妻のようなものが走り抜けたかと思うと、まるで宝石箱をひっくり返してばら蒔いたという風に、目の前がぱっと明るくなりました。気が付くと、ついさっきまでじっと眺めていた星空の下をレグルスは力いっぱいに走っていました。
すると後ろから鋭い光りがさして、夜の暗闇の中からレグルスの姿をくっきりと浮かびあがらせました。
『レグルス、戻れ。戻るんだ。お前を撃ちころしたくないんだ。頼む、レグルス。大人しく戻ってくれ』
けれども、レグルスにはもう誰の言うことも耳に入りませんでした。
「バン、バーン」
その悲しい音は、田舎じゅうの山々に響きわたり、あらゆるものたちの一粒の涙となって、そっと頬を冷たく伝い落ちるのでした。
『どうしてなんだ。どうして逃げるなんて馬鹿なことをしたんだ。俺には逃げるなと言ったのは、じいさんじゃないか。そのじいさんが逃げ出すなんて。どうしてなんだよ』
時が光のごとく過ぎて、レグルスのことも忘れ去られた、ある日のこと。
『ねえ、お爺ちゃん。見て、見て。あのライオンのたてがみ、真っ白だよ』
『じゃが、あんまり元気なさそうじゃの』
あの若くたくましかったライオンも、今では足腰も立たないほどヨボヨボになって、あれほど立派だったたてがみも、透きとおるほど真っ白になっていました。
そして、きらきら光り輝く星をじっと見上げていました。
その雲ひとつない澄み渡った秋の夜空に、ぽつんと一つだけ、しきりに燃えさかる青白い星が見えました。
それは、きらきら光り輝くレグルスの星のようでした。