肆 夜がきて
「へ……?」
まきが息をひゅぅと吸い込んだとほぼ同じタイミングで、皇峩はまきの唇にかみついた。噛みつくように近づいた彼は、まきが気づかぬ間に背中へと手を回し、彼女が例え離れようともがいても、穏やかな笑みを崩さない。しばらくまきの柔らかい唇を弄んだと思えば、いったん休憩とばかりに皇峩は彼女を解放する。
「何、すん、の……っ!」
「昨日も同じようなことをしたじゃないか」
「昨日は……昨日よ!」
「いやだったら……」
皇峩の瞳に一瞬だけよぎった光に、まきは喉まで出かかった拒絶の言葉を飲み込んだ。やっぱり彼からは、逃げられないと心で悟った。
「嫌だったら、叫んでいいんだぞ」
「っ……」
「そうすれば俺はもう現れない。また平穏な、少し賑やかで、穏やかな日々に戻るだけで。俺は俺で、またただこの町で……」
しばしの空白。沈黙の中に何か得体のしれない不安を引き出され、まきは続きを促していた。
「この町、で?」
「……惰眠をむさぼるだけだな」
「……神様って言うわりにはあっきれた人ね」
まきは、先ほど一瞬見せた寂しげな表情を、一瞬のうちに消し去り飄々とすました男に、今度は自分から顔を寄せた。
彼は寂しい神なんだわ。家族に恵まれて、彼のいうように賑やかで穏やかな日々を過ごせている自分とは違う。まきはそう思うと急に、皇峩をいとおしく感じた。まだ昨日であったばかりで、彼のことなど何も知らないというのに。
「皇峩。神様って、孤独なんだね」
「……」
少し目を見開き沈黙した皇峩だったが、まきからの拒絶の色は見えない。据え膳食わぬは男の恥。皇峩は内心そう思いながら、まきのすらりと伸びた健康的な四肢に手を伸ばした。
また今夜も、スプリングが悲鳴をあげる。
「……つかれた」
「色気が微塵も感じられない感想だな」
まきは、仕方ないじゃない、と頬を膨らませる。そして肩を抱く皇峩の腕を振り払い、とりあえずと上に薄手のカーディガンを羽織った。
「だって昨日は何もわからずおろおろしてただけだもん。昨日今日とで少しずつ事情が分かってくると……」
恥ずかしい。まきの顔が赤らみ、その様子を見ていた皇峩は面白そうに歯を見せ笑い始めた。
「昨日より啼いてたがな」
「う、うるさい! ……っていうか、横の部屋に聞こえてたかも……」
布団の中、横で長めの前髪をかき上げて笑う皇峩を横目に、まきは今更その「音」という問題に気が付いた。昨日は少し遠慮していたが、今日は昨日以上に皇峩は「楽しんでいた」。
篠原邸は決して広いわけではない、一般的な建売一軒家である。まきの部屋の横には、小さな納戸代わりの部屋があるが、その部屋を挟んだむこうには、思春期真っ盛りの妹、まなみの部屋がある。
「ま、まなみに聞こえてたらどうしよう……」
幸運か不運か、基本的に双子の弟は一階の奥にある両親の部屋続きの小部屋に寝ている。寝つきの良い彼らは一度寝たらほぼ起きないし、心配はいらないのだ。不安はただ一つ。
「聞こえてたら」
「そんなもんいいだろう。お前も姉であり、一人の女ということだ」
「元の原因はあんたでしょうが!」
「俺を誘ったお前のせいだ」
「……」
「……」
しばし皇峩とまきはにらみ合う。
一秒、二秒、三秒、四秒……
「「ぷっ」」
五秒目、二人は耐えきれなくなり笑う。
「くだらないことだったなぁ」
「些細な問題だな」
「皇峩、今日はありがとう」
お礼を言うのはこちらの方だ、という言葉は飲み込み、皇峩は彼女の栗色の髪の毛をそっと撫でた。髪をなでられている内に彼女は強い睡魔に襲われ……
「お遊びは、2度まで。3度目の正直は、ない……な」
皇峩は無防備に眠りについた彼女に寝着を着せ、その頬に最後とばかりに唇を寄せた。最後なのだと、名残り惜しそうに。そして彼女の額の上で何やらつぶやくと、昨晩のように忽然と闇夜に姿を消していった。
その日は、まきはぐっすりと深い眠りにつくことができた。
そして翌朝になると、すっかり皇峩のことも、この不思議な二夜の情事のことも忘れていた。
ご無沙汰になってしまいました。
久々の更新ながらお読みいただきありがとうございました。
やはり三人称で、彼らを面白おかしく語るのは難しそうです、短編のストーリー内容は10話までで、それ以降は一人称に代わり、ほっこり笑えるギャグストーリーに仕上げます。