参 夜がくる
狐坂。
それはこの町の東のはずれにある、傾度十五度の急斜面の通称である。
「全く、妙ったら、人の話も信じない上にからかって……」
本来この坂は、小森町狐森地区四丁目交差点へと続く、名もなきただの急坂なのだ。しかし、かつて教科書に登場するような有名な俳人がこの坂を通りかかった際、狐に関する一句を詠んだことから、狐の坂、「狐坂」と呼ばれるようになったらしい。
「だってあの後本当私疲れてて、意識なくなっちゃったんだもん……」
その坂を四丁目交差点からゆっくりと登ってくる人影がある。その人影は小さな袋を左手に、学生鞄を右手にそれぞれ抱えていたが、坂の上に到着すると、抱えていた荷物を地面に置いて空を見上げた。小森町唯一の公立高校の制服を身にまとった彼女は、今日も坂の西側に広がる小さな空き地に足を進める。
「ふぅ」
まきは、本当にあれは現実だったのかと悩みながらも、昨日と同じ丘の上、あの狐のような男に出会った空き地の中で息を吐いた。あの神秘的な瞳に、熱に侵されたかのような感覚。男性経験など全くなかったはずの自分が、思わず「帰ってほしくない」と思ってしまうほどの、人を惹きつける何かが、彼には存在した。今朝になれば忽然と姿を消している割には、まるで証拠のごとく首元に痣を残して消えた。
あれは本当に現実だったのだろうか。痣も自分が誤解しているだけで、単にベッドの端かどこかでぶつけただけだったのかもしれない。そうだ、そうじゃなきゃあんな綺麗な男なんて……
「いいや、残念ながら現実だな」
「はへっ!?」
心地よい風に目を閉じて思いを巡らせていたのもつかの間、まきが目を開けば目の前に、あの男が立っている。挑発するような瞳には、昨日血まみれで倒れていた人物とは思えないほどの生命力が宿っていた。
「わ、わわわわ!」
「何を驚く。今お前は俺のことを考えていたじゃないか」
「へっ!?」
金色の髪がふわり揺れる。まきは金髪が視界の横をよぎったことを認識はしたが、自分がそんな金髪の男の胸の中に抱え込まれたことに気が付くには数秒を要した。なぜこの男は自分を抱きしめているのか、と論理的な思考回路をもってまきが検討し始めるが、彼が彼女の首元に顔を寄せて息を大きく吸い込んだ瞬間……
「へ、へ、へん……」
「ん?」
「へっ、んたい!」
穏やかな夕暮れ時の小森町、狐の伝承が多く伝わる狐森地区の丘の上で、まきが名すらもまだ知らない男の頬を盛大に張る音が響き渡った。
*
その日の夜は、珍しく篠原家の夕食は1品おかずが少ない献立だった。
「姉ちゃん俺マカロニサラダが食べたい」
「食べたいー」
「また明日ね」
「……お姉……洗い物くらいは今日私がしておくから、あの予定済ませたら?」
まきの心の中の小さな焦りに気が付いたのだろう、マカロニサラダを要求する双子の弟、将馬・相馬の面倒を引き受けただけでなく、妹のまなみは洗い物まで買って出てくれたのだった。彼女は内心そんな空気が読める妹に感謝しつつ、そそくさと、いつもなら最後まで自分がいるはずの居間を後にした。
居間の扉を閉め、薄暗い廊下を歩くこと18歩。廊下の奥にある私室の扉を開けると、ふわり、草原にいるかのようなにおいが立ち込めていた。
「あの」
「ん?」
「草原くさいんだけど」
「……失礼な」
彼は人間のものではない「狐の耳」をぴくりと震わせ、少々機嫌を損ねた様子でまきをにらみつけている。そう、まきはあの後、親友の言いつけ通り「男と再会して、今後について話し合う」という行動を実行に移そうとしていたのだ。狐の男を強引に家に連れ帰り、妹や弟たちの幼稚園の送迎バスが来る前に彼を私室に押し込んだ。そして何事もなかったかのように掃除洗濯料理を済ませ、今にいたる。
「この俺を待たせるとは本当おもしろい娘だ」
「何様よ」
「神様だ」
「……は?」
「昨日お前は意識がもうろうとしていたようだから再度言い直そう。俺はこのあたりの地域を守る、守り神の……1人のようなものだ」
「ただの化け狐じゃ、なくて?」
「化け狐のような低位な生き物と同列にされては堪らん」
「で、名前は」
「俺の名前は皇峩だ。そしてお前は篠原……」
まき。
狐の神だと自称する男、皇峩は余裕の笑みを浮かべ、彼女の腕をとったかと思うと引き倒した。
「今日は、慰めてはくれないのか。俺を寂しいと言ったのは、お前だろう」
お読みいただきありがとうございます。
次話、再びやんわり性的描写ありですので閲覧要注意になります。
皇峩という名前がやっと出せた……(第6話まで更新しましたら一度1話から改稿予定です)




