壱 朝がきて
「ん……朝?」
スマートフォンから流れるアラーム音で彼女は覚醒した。時刻は五時三十分、一般的な高校生にとっては早起きの部類に入るのだが、彼女にとっては寝坊である。額に浮かんでいた汗を左腕で拭うと、カーテンが開きっぱなしの窓から見える朝焼けに目を細めた。
「んーなんか身体だるい……」
名残惜しくも寝床を後にした彼女は、動きやすい格好に着替え、必要なものを素早く手にとって、部屋を後にする。
「将馬、相馬、起きなさい」
母親のように優しく、そして厳しい。それがこの篠原家の長女、篠原まきの性格である。寝ぼけ眼で足元がおぼつかない双子の弟たちをそっと抱きあげ、居間に連れていくのも彼女の仕事。
「まなみ、あんた今日早めに学校行くって言ってたじゃない、起きて」
その途中で中学三年の妹の部屋の扉を叩き、起床を促すのも忘れない。
まだ半覚醒状態の弟たちを食卓の椅子に座らせると、今度は冷蔵庫の中身を確認し、ふむふむ、と顎に手をあてつつ朝食と弁当作成に励むのも彼女の仕事だ。
「お姉おはよう」
「まなみ、居間のテーブルに三者面談の紙が置いてあるから確認しておいて。お母さんが行けるのはこの日程だけらしいけど、よかった?」
「ん、ありがとう」
元々寡黙で、朝は低血圧なのかほとんど口を開くことはない妹を横目で確認し、すぐに視線は手元に戻る。居間のソファに身体を沈め、テレビを見つめる妹のまなみとは対照的に、まきは弁当の具の荒熱を取る間に、食卓に朝ご飯を並べ、弟たちに食べさせる。まなみが完全に覚醒し食卓に着くころには、既に彼女は弟たちを保育園に連れていく準備を終えていた。
「ふぅ、なんとか今日も終わったー」
「お姉さすが」
「ありがとう」
妹のまなみは、そんな主婦の鑑としか言い表せない完璧主義の姉をねぎらいつつ、朝ごはんの食パンを齧る。まきもその妹の横でお気に入りのジャムを塗りたくった食パンに齧り付いて微笑んだ。日頃から家になかなか帰ってくることのできない両親の代わりに家事をこなし、妹弟の面倒を見る彼女ではあるが、それでもまだ十六歳の女子高生。
その年齢相応の微笑みを浮かべて頬張る食パンは今日もおいしいのだった。
「さすが柳さん家のパンだったわ! 今度もまた頼んでおかないと」
「うまかった~」
「柳さんうめぇ~」
「もう、うまかった、じゃなくておいしいって言いなさい!」
「「は~い」」
「まなみも準備できた?」
「うん」
妹弟を連れだって家を出るまきは、そんなことを言いながら今日も満面の笑み。まなみはそんな姉を見て目を眩しそうに細める。尊敬してやまない、憧れの彼女は今日も眩しく見えたのだった。
しかし。
しかしだ。
それでも彼女には、今日、どうしても姉に伝えておかなければならないことがある。
「……」
ごくり、唾を飲む。ようやく覚悟を決めたまなみは、弟たちを送迎バスの中に見送った後、自身の着替えをしそのまま学校に向かわんとする姉の耳元で囁く。
「あのね、お姉」
「ん、何よ」
「たぶん、そのまま高校に行くと大変だから……」
「ん?」
まなみはこれ以上言えない、と手鏡を姉に渡し、走り去って行った。既に引退して受験勉強に励んでいるとはいえ、元陸上部員の彼女。小柄な背中は一瞬にして視界から消えていく。スカートがその速度に間に合わずにひらり黒のスパッツが見えてしまったのは御愛嬌。
「全く何よ……」
朝から寡黙とはいえ、いつも以上に黙り込んでいた妹の姿に違和感はあったまきだったが、まさかそれが自分の容姿のせいだったなど、思いつくはずもない。彼女は自身の身だしなみには無頓着で、朝も髪の毛を乱雑に溶いて髪の毛を一つにくくるだけで、化粧っけもない。無論……鏡をのぞくようなこともないのだから。
そしてようやく、今日初めて鏡を見た。
「……」
手鏡に映る、小さな自分の姿。そしてその一つに纏められた髪の毛と、露わになっている、首元の……
痣。
否、痣ではない。たとえ恋愛事情に疎く、異性と話す機会も少ない彼女といえども、理解できる……痣。
「ひ……」
ひぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇx!????
ゆでダコのように顔を真っ赤に染め上げ、ただ絶句して地面に座り込んでしまった初心な彼女が。
その後八時四十五分の朝礼に遅刻したことは、ある意味、理解できた。
朝が来ました、まきは遅刻しました。
ただそれだけの話。
今日もお読みいただきありがとうございました。