或る存在の証明
桜井正美がその男の存在に気づいたのは、或る晴れた春の日だった。
彼がこの世で一番大切にしている場所。
その奥座敷の縁側で、着流しを着た男がごろりと横になって高鼾をかいていたのだ。
そのあまりにも「この状況は当たり前なんだよ」といわんばかりの雰囲気に、思わずその状況を許容しそうになってしまった。
もちろん、一瞬だけであったが。
桜井はその男の襟首を無造作に捕まえる。そうしてそのまま縁側の下にずるりと引きずり落とした。
「ぎゃあ」
なにやら悲鳴とともに鈍い音が聞こえたような気がしたが、桜井はそんなもの聞こえないことにした。
何故なら彼にとってこの神聖なる場所に堂々と寝ている「男」の存在は、道端に落ちている吸殻にも劣るものなのである。
そんなわけで表情ひとつ変えぬままそのまま座敷に戻り、花束を手にする。
いつものようにこの座敷の主にプロポーズをするべく姿勢を正していると、部屋の入り口で呆然としていた少年が慌てたように縁側へかけていくのが目に入ってきた。
「うわ、わ、だ、誰だか存知ませんが、大丈夫ですか?」
「優次、気にするな。そんな男のことよりさっさと椿さんの通訳を頼む」
「きっ気にしますよ……」
少年の声とともに縁側の下からにゅうっと手が伸びてきた。
次いで現れた金髪の男は実に恨めしそうな瞳で桜井をみやっている。
「今回の当主はなんという乱暴ものだ」
「だだだ、大丈夫ですか?」
「いや痛い。見てみい。そこの石で頭をしたたか打ったようでな。ほれ、たんこぶができておる」
男はそう言って金色の頭の右側を示して見せた。
すると桜井が実に冷たい声音で口を開いた。
「何の用かは知らないがここから出て行け。どうせ金目当ての泥棒だろう」
「ど、泥棒?」
桜井の言葉に優次はじりりと後ずさる。そうして桜井の側まで来るとあわあわと手を動かした。
「そ、それならあの、余計に危ないんじゃ…」
「問題ない」
桜井の声はひたすら冷たい。
「この家の中で俺を傷つけることの出来る者はいない。俺は椿さんの守る『桜井家』の現当主だからな」
恐ろしいほど自信満々な発言である。
「それより出て行け。俺はこの座敷に俺以外の男が居ることの方が気に食わん」
なおかつ自己中心的な発言である。
優次はちらりと「僕も男なんだけどなあ」と思ったが、それは口にはしなかった。
すると突然、闊達な笑い声が響き渡った。
見ると縁側の下に居る男が大笑いしている。
優次は目を丸くしたが、桜井は反対に瞳を細めた。
「何がおかしい」
「いや、すまんのう。噂どおりの面白い男だと思っての」
男は笑いをこらえながら、座敷の奥のほうに瞳を向けた。
「童子、おぬしは本当に好かれているようだのう」
その言葉に、桜井の動きがぴたりと止まった。
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「わしは六尾という。童子の古い知り合いだの。まあ、腐れ縁というやつか」
六尾と名乗った男は桜井の前にあぐらをかいて座っていた。
その顔にはまったく緊張というものが見られない。
まるで自分の家でくつろいでいるかのように能天気な表情を浮かべている。
その顔に向かって桜井は口を開いた。
「お前は何者だ。俺にも見えるということは人間なんだろう?霊能力者か」
桜井の問いかけに、男は綺麗な顔の上ににやりとした笑みを浮かべる。
そうして隣に座っている優次に目を向けた。
「坊はわかるかの?」
突然話を振られた優次は目を白黒させる。
しかし桜井の目線に促されるようにええと、と口を開いた。
「今は人間に見えます……。でも、それだけじゃないような……。金色、かな。金色の光が後ろに見えるような……ううん、しっぽかなあ……それがたくさん見えるような……」
「ほう」
男は嬉しそうにぱちぱちと手を叩いた。
「これは凄い。坊はなかなかの力の持ち主だの。そう、しっぽだ。そこから考えられることは?」
桜井は目の前の男に目を移す。そうして優次の言葉通り、その背後に目を凝らした。
しかし彼の目には、単なる着流しを着た日本人の男にしか見えなかった。
確かに金色の髪に青い瞳は珍しいかもしれない。
しかし、染色やカラーコンタクトが当然のように使われだしている今となっては大して驚くほどのことでもなかった。
「優次、わかるか?」
隣の少年に尋ねると、優次はううんと頭を捻った。
「き、きつね……さん、ですか?」
「いやいや。わしはあやつらのように義理硬くはない。誰かにずうっと仕えるなんぞ面倒くさくてできるものか」
男はあっさりと首を振る。
そうして桜井には何もないように視える空間に目を走らせると、さらに笑った。
「まあそういうな、童子」
「へえ、そうなんですか……」
優次は感心したように頷いているが、桜井には何が起こっているのはわからなかった。
優次と男が目を向けている空間にはひとつの座布団が置いてある。
二人はそこに人が居るかのように話を進めていた。
「桜井さん?」
ふと気がつくと優次が心配そうに自分を見上げている。
どうやら知らない間に話は進んでいたらしい。
桜井は瞬き、そうして男と優次、そうして座布団の上に居るであろう椿へと視線を向けた。
「ああ、すまない。結局その男の正体はわかったのか?」
「それが……」
優次は困ったように首を傾げた。どうやらまだ教えてもらっていないらしい。
桜井は男の飄々とした顔を見る。
そうして学生時代に随分と調べた事柄を思い浮かべた。
「人に化けることの出来る、尾を持つ妖。単純に考えると狐か狸。鳥は……尾はないか。西洋の伝承ならそれこそごまんといる。まあ、本当にそいつが人間でないならの話だが」
最後の言葉には棘が含まれている。
それに気づいたのだろう。金髪の男はからかうような口調で尋ねてきた。
「ふむ。桜井の小僧。おぬしはわしがただの人間であって欲しいのかの?」
桜井は黙り込む。感情を読まれているかのようで実に不快な気分だった。
「証拠を見せてくれたらすぐにでも信じるが」
「面白いのう。童子の存在は信じたいのに、人間の理が邪魔をしておるのだな。人間というものはほんに複雑な生き物だな」
くつくつと男は笑った。そうして言う。
「証拠など見せんよ。わしは別に人間にわしのことを信じて欲しいなどと思っておらん。毎日がのんきに過ごせればよい。おぬしがわしを人間だと思うならそれでも良かろうよ」
桜井は眉をひそめた。
それは彼の求めていた答えではない。そうして目の前の男は、桜井がその答えを求めていることを察した上で、わざとはぐらかしたのであろうことが理解できた。
ぐらりと天秤が傾いたような気がした。
優次の出現で彼の望む方に傾いていた天秤が、反対側に大きく揺れる。
ふいに声が聞こえた。
わずかに幼い、しかし紛れもない自分の声。
この部屋で何度もつぶやいた、それは答えのない問いかけだった。
―椿さん。
―貴女は居る。僕はそれを信じている。だけど……。
―おかしいのは僕のほうなんでしょうか。
―僕が狂っていて、貴女という存在を頭の中で作り出していただけなんでしょうか。
―ねえ椿さん、お願いです。
―声だけでもいい。貴女が居る証拠が欲しい。でないと、俺は…。
何度も何度も。
何千回も、何万回も。
繰り返し問いかけた言葉に返答はなく、そうしていつしか問いかけることを諦めてしまった。
その記憶が蘇る。
諦めて、彼女の存在を否定した。
否定して忘れようとした。すべては悪い夢だったのだと。そう思い込もうとした。
その狭間。
迷いに迷いぬいたその記憶。
その中でひたすら足掻いていた5年もの記憶。
「あいた」
そのとき突然、目の前の男の身体が右に傾いだ。
「つ、椿さん、乱暴はいけないですよ……」
隣に居た優次が慌てたように立ち上がる。そうして男の前に『いつの間にか落ちていた』布の塊を拾い上げた。
桜井は目を見開く。
「何が起こった?」
問うと、優次は困ったような表情で手の中の塊を示して見せた。
「椿さんが六尾さんにお手玉を投げつけたんです」
「椿さんが?」
桜井はぽつねんとおかれた座布団を見る。やはりそこに座るひとのすがたは見ることは出来ない。
するとその前で、金色の髪の男が頭を押さえたままぐるぐると呻いた。
「まったく童子は乱暴者だのう。……ん?」
そうしてふいに立ち上がる。
一瞬だけ青い瞳を細め、風の中に何かを探すような表情を浮かべた。
「おお、『小さいの』の匂いがする。どうやら学校から帰ってきたようだの。ではわしも帰るとするか」
「小さいの?」
「今の家族だ」
優次がきょとんと聞き返すと、六尾は嬉しそうにそう答えた。
そうしてそのまま庭にひょいと飛び降りる。
桜井は慌ててその後姿に声をかけた。
「おい」
「じゃあな」
しかし六尾は振り返ることもなく、実にあっさりと庭の裏門を開けて出て行ってしまった。
声をかける暇もない。その様子に思わず唖然とする。
しかしその気ままで自由奔放な様子にはどことなく覚えがあった。
そう。
街のあちこちで寝転がっている、ふわふわの動物の習性によく似ている。
「あ……」
優次もそれに思い当たったのだろう。
小さく声をあげ、嬉しそうに桜井を見上げてきた。
「桜井さん。僕、六尾さんの正体がわかったかもしれません。今度会えたら、聞いてみますね」
「そうか……」
桜井は頷いた。
奴が人間かそうでないのか。今の桜井にはわからない。
すると優次はいっそう嬉しそうに笑い、そうして手の中のお手玉を桜井に差し出してきた。
「?」
「桜井さん、さっきですね、どうして椿さんが六尾さんにお手玉を投げたのかわかりますか?」
「いや。何故だ」
桜井はお手玉を受け取る。
小さめの赤いそれは、ちいさなてのひらの椿が使いやすいようにと桜井自身が買ってきたものだった。
「椿さん、あまり正美をいじめるでないーって、かんかんだったんですよ」
「……」
「桜井さん。椿さんをお嫁さんにできるように頑張ってくださいね。僕も、精一杯のお手伝いはしますから」
桜井は優次の笑顔と、手の中のお手玉をみつめた。
愛しい人の声も姿も、桜井には感じ取ることが出来ない。
しかし今の桜井には協力者がいた。
迷いに迷いぬいた末の覚悟もある。
桜井はお手玉を握り締める。
彼女が触れていた。
しかも自分の為に怒ってくれていたという。
それは存在を確定する為には少なすぎる事柄だった。
しかし桜井はこの少年の言葉を信じようと決めていた。
自分の、ただひとつの望みを叶える為に。
だから彼は、その決意を口にした。
「ああ。まかせておけ」