或る夏の幻
あたしは今日もそこに立っていた。そうしてそれを眺めていた。
目の前には横断歩道。
そのほんの南側には大きな十字路。
夏の陽射しに光るアスファルトからは、ゆらりと蜃気楼が昇っている。
「蜃気楼がのぼるって表現はおかしいような気がします……」
おずおずとした声は後ろの木立から聞こえてきた。
突っ立ったままのあたしは振り返る。
そうすると張り出した大きな枝が創る影の中に居る男の子の姿が目に入ってきた。
年の頃は10かそこら。やわらかそうな髪に大きな瞳。
女の子のように優しそうな顔つきをしているけれど、服装はまぎれもなく男の子だった。
「そうかしら」
あたしはできるだけあっさりと答えた。
答えることで「確認」した。
「少し文学的でいいと思ったんだけど」
それを聞いて男の子は小さく笑った。
まっすぐにあたしを見て、間違いなくあたしに向かって笑った。
だからあたしは「確信」した。
この子はあたしと同じ世界に居ることを。
男の子は毎日そこに居た。
あたしの姿を認めると嬉しそうに笑う。
そうして何かお話をしましょうと誘ってくる。
あたしもどうせ暇な身だった。
だから頷いて話をする。
男の子は決して饒舌な方ではなかった。
たどたどしく自分のことや周囲のことの話をするものの、なにせ話に起承転結がない。
話自体は正直面白くなかったが、それでも男の子が一生懸命に話をする様子を見るのは可愛いし、楽しかった。
9日。
10日。
11日目にはあたしはすっかりその子に親しみを持っていた。
少し変わっているけどいい子だ。
夏の日差しは強い。
今日は麦藁帽子を深くかぶっていつもの影の中に入っている。
暑いのだろう。
柔らかそうな頬に汗が伝い、ぽたぽたと襟足に吸い込まれていた。
アイスでも奢ってあげたいが、いかんせんあたしにはお金がない。
ごめんねというと男の子は慌てたように首を振った。
そうしてどうしてか嬉しそうに笑う。
ありがとうと言葉を添えて。
お姉さんのお話が聞きたいです。
男の子が言い出したのは14日目のことだった。
なんとなく哀しそうに思えたのは気のせいではないだろう。
あたしはなんだか可哀想になってしまった。
この子は気持ちの優しい子なのだろう。
だからこそ、ここに縛り付けられている。
あたしの話。
あたしのこと。
あたしはいつもの横断歩道に目を向ける。目を凝らす。
くらり、と眩暈がした。
そうして次の瞬間。
あたしの頬から、生ぬるい液体が滴り落ちた。
ぱたぱた。
ぱたぱた。
それを見た男の子の顔色がさっと変わった。
ごめんなさい。もういいです。
無理に話してくれなくていいんです。痛いのなら、思い出さなくてもいいんです。
ううん。
あたしは首を横に振る。
その拍子に赤い液体がさらに零れ落ちた。
ぱたぱた。
ぱたぱた。
あたしは思い出す。
きれぎれだった記憶の断片が戻ってくる。
ぱたぱた。
ぱたぱた。
「お姉さん……」
男の子の声が背後から聞こえた。
今のあたしの状態はおそらく酷い。おそらくは最後の記憶のまま、思い出した記憶のままの姿になっているはずだから。
振り向くのは可哀想だったけど、それでもあたしは一言言っておきたかった。
そう。
あれはあまりにも突然で。
あまりにも突然すぎて。
だから気持ちがついていかなかった。
いや、これは魂が、というべきか。
「君はわかっていたのね」
こくりと男の子が頷く。
まるで泣きそうな表情をしていた。
「ごめんなさい……」
「どうして君が謝るの?」
そう言うと男の子は瞳を潤ませる。そうして小さな手の甲で瞼をこすった。
「無理に思い出させてしまったから……」
「違うわ」
あたしのきっぱりと答えた。
潤んだ瞳をあたしに向ける男の子に向かってあたしは笑って見せる。
「君は『思い出させて』くれたんでしょう?」
おそらくだが、記憶は魂に直結している。
だから今のあたしの身体はぼろぼろだった。
思い出せる、最後の記憶どおりに。
会社に遅刻しそうになって慌てていた。
だから赤信号の横断歩道を横断しようとした。
その瞬間に勢いよく左折してきた大型のトラック。
そして、そして、あたしは……。
記憶がないあたしは、ただこの場所で無為に毎日を過ごしているしかなかった。
どうして自分がここにいるのか。
どうしてここから動けないのか。
そんなことも考えず、ぼうっと横断歩道と、それを横切る車を眺めて過ごす無為な毎日。
夏のアスファルトに立ちのぼる蜃気楼。
そこにゆらりと佇み続けているあたしは夏の幻にすぎなかったのだ。
「じゃあ、行くね」
あたしの言葉に男の子はひたむきな目であたしを見上げた。
あたしはそれに笑ってみせる。
顔の半分がひきつれて上手く笑えなかったけど、それでも。
「優次くん」
はじめてその名前を呼ぶ。
はじめて出会ったときに教えてもらった名前。
あのときのあたしは名乗り返さなかった。
何も……そう、あのときのあたしは自分の名前さえ覚えていなかったから。
だけど、今は違う。
「大丈夫。たぶん、今なら行けるから」
優次くんは瞳を潤ませたまま笑い返してくれた。
子供にとって貴重な夏休みの2週間。
それを全部、見知らぬあたしの為に使ってくれた。
それだけでも十分に嬉しい。
そう。
だからこそあたしは、素直に「行く」ことができるのだ。
あたしはなんとか動かすことのできる左手を振る。
「こころ」の恩人に向かって。
「本当に、ありがとね」