或る黒い男との出会い
「こーんにーちわー!」
最近すっかり馴染んでしまった声に、優次は慌てて玄関に駆けていった。
「はい。あ、美幸さん」
そこには長い髪を頭の高い位置でふたつに括った、黄色い制服の少女が立っていた。
相変わらずぼろぼろの蝙蝠傘を手にしている美幸は、夏の向日葵を思わせるような明るい笑顔を浮かべた。
「桜井さま、居る?」
「いえ、ええと、あとで来られるそうなんですけど……」
「あ、そうなの」
少女は拍子抜けしたようにつぶやき、そうして手にしているハートの模様が散りばめられているピンク色の便箋に目を落とした。
「どうしよっかな。これ、今日の分のラブレターなんだけど。んーと、優次渡しといてくれる?」
今日の分のラブレター。
その言葉から汲み取れるように、この美幸という少女は1ヶ月の間、桜井正美という青年に猛烈アプローチを続けていた。
しかも、ほぼ毎日である。
桜井はこの家に住んでいるわけではない。
しかしそれでもほとんど毎日のようにこの家を訪れることを知った美幸は、この家の前で待ち伏せをしてはアプローチを繰り返していた。
「桜井様、付き合ってください!」
「いや、申し訳ないけど君の様な素敵な子、自分には勿体無いですよ」
1週間後。
「桜井様、付き合ってください!というか嫁にしてください!」
「いや、申し訳ないけど僕には好きな人がいますので……」
2週間後。
「桜井様、結婚してください!桜井様が望むなら、自分がロリっ子になることだって構いません!」
「大声でそういうことをいうのはやめてくれませんか」
3週間後。
「桜井様、結婚してください!あのう、あたしどんなプレイにも耐えられます!幼女のふりだってできます!幼女プレイ万歳!」
「帰れ。この馬鹿娘」
そうして4週間後。
すっかり猫を被ることをやめてしまった桜井にけちょんけちょんに振られながらも、美幸は果敢にもこの戦いに挑み続けている。
それはすでに、夕方になると桜井家の前で行われる恒例行事のようなものになってしまっていた。
しかしそれでも美幸には美幸なりのルールというものがあるようだった。
桜井には想い人が居る。
そうしてその人はこの屋敷に住んでいる。
それを知っているからこそ、この屋敷に足を踏み入れたことは今まで一度としてなかったのだ。
だから、こうして玄関まで美幸が来ることは珍しい。
優次は首を傾げた。
「すぐに桜井さんも来られると思います。あがって待ちますか?」
「あんたって馬鹿ね。ここにはツバキさんが居るんでしょ? その人にとってあたしは恋敵、つまりはライバルなのよ? あたしなんかが入ったらご迷惑に決まってるじゃない」
ううん、と優次は唸った。
むしろその逆だったのだ。
夕方に5分だけ行われる恒例行事を、まるで映画を見るように楽しみにしている観客がひとりだけ居た。
それがその「ライバル」である椿だったりするのである。
「それに用事もあるし」
「あ、そうなんですか?」
だとしたら仕方がない。そう思う優次の前で美幸は溌溂とした笑顔を見せた。
なんだかいっそう瞳が生き生きと輝いている。
「どこに行くと思う?」
突然ローカルな問題を出されても困る。
咄嗟に言葉が出てこずに首を振ると、目の前の少女は得意げに声をあげた。
「ふっふっふ。隣町にある得々スーパーよ!」
「へ……」
優次の目が点になった。
得々スーパー。それは隣町にある大型スーパーマーケットの名前である。
「なんとね、トイレットペーパー12ロール入りが138円なの! すごくない?」
「は、はい……」
あまりに嬉しそうに話す美幸の迫力に押されてかくかくと首を動かす。
そういえば美幸の家はあまり裕福ではないと聞いたことがあった。
身なりはきちんとしているのでとてもそうは見えないが、美幸なりに気をつけているのかもしれない。
「でもねえ、お一人様ひとつまでなのよ。目玉商品だから仕方がないんだけど」
美幸はそういいながら、そこで何かに気づいたようにはたと手を打った。
「そういえば優次って霊感が強いんだったわね」
「え……あ、は、はい……」
優次は俯く。この話題はいつになっても苦手だった。
しかし美幸はそんなこと気にもしていない様子で笑う。
そうして自分の背後に向かって手招きをして見せた。
「今日はね、トイレットペーパーを2つ買うために家の奴を連れてきたの。 役立たずだなんだからせめて頭数にぐらいはなると思ってね。ちょっと根倉、隠れてないでこっち来なさい」
優次は美幸が声をかけているほうに目を向けた。
そうしてぽかんと口を開ける。
「なにをもじもじしているのよ。男のくせに気持ち悪い」
美幸はすたすたと歩いていくと、門の影に隠れるようにして立っていた男の襟首をむんずと掴んだ。
そうして玄関まで引きずってくる。
男が弱々しく抗議の声をあげた。
「うわわ、やめてくださいよう、美幸さん…」
「優次、こいつがなんだかわかる?」
優次は目と口をОの字に開いたまま呆然としていた。
正体などわからない。だけどもその圧倒的な存在感は今まで感じたことの無いものだった。
「ん? どしたの優次?」
いきなり凍結してしまったかのように動かない優次を心配したのだろう。
美幸が目の前でひらひらと手を振る。
と、突然屋敷の奥で駆ける足音が聞こえてきた。
軽い、軽い足音。それがひとつ近づいてくる。
美幸は緊張した。
桜井正美が恋しているという女性が幼女であり、この屋敷に住んでいることは知っていた。
まさか彼女が出てくるのだろうか。
ひやりとしながら廊下を眺めていると、そこに現れたのは金色の髪をしたひとりの若い男だった。
青い瞳を瞠って、なにやら面白いものを見つけた猫のような表情を浮かべている。
「……あ、椿さん、六尾さん……」
目の前の優次が振り向いた。
呼んだ名前はふたつ。
しかし美幸には一人の姿しか見えなかった。
優次は現れた椿と六尾に目を向ける。
そうして驚いてしまった。
椿も六尾も、滅多に見せないような表情を浮かべていたのだ。
「これはこれは……」
「ほうほう、珍しいのう」
目線の先には美幸と、そうして美幸にその襟首を捉まえられている男の姿があった。
大正の映画に出てくるような黒い外套を羽織っている、陰気そうな表情の若い男。
首を回して見ると、男も優次の背後に現れた2人に目を向けているのが見えた。
しかしすぐに雷に怯える大型犬のようにぷるぷると身体を震わせはじめた。
そうして弱々しく声をあげる。
「あわわ、す、すみません、すみません! す、すぐに消えますから、許してください…っ!」
はー、と椿が息を吐く。
それは決して嫌なものではないように優次には思えた。
驚き。
嬉しさ。
それが均等に混じりあったかのような小さな吐息。
そうして椿は玄関にきれいに膝をついた。
六尾は立ったままだ。
しかしそれを咎めるようなことはせずに、その艶やかなおかっぱ頭を丁寧に下げた。
「ようこそおいで下さいました。……禍津日神」




