患者と妹
「というわけで、今後は集団精神疾患という方向で調査を進めていくつもりです。
この分野はいささか我々の手に余るところがあるので、ぜひ先生方に協力を仰ごうと」云々。
久坂部刑事はそんな口上を述べて去っていった。
エントランスホールまで形式上の見送りをすませた七星は、そのままの足で館内を見回り始めた。
一般の病院とは違い、ここでは医師に話しかけてくるような患者はいない。患者に繋がれた生命維持装置を管理する看護師たちが行き来するだけだ。
ここはかつて、肺病患者のサナトリウムだったらしい。一階から七階まで、計八十四室。南北に長い鉄筋コンクリート製の建物だった。ここだけで、二百人もの患者が眠っている。
下から順番に、ひとつひとつの部屋を見送っていく。
407号室にはいつも通りに、十六歳の少年患者に付き添うセーラー服姿の少女がいた。
「カノちゃん、今日も来てたの」
心配そうに兄を見つめる横顔に声をかけると、少女はハッと顔を上げた。
「先生、こんにちは。いつも兄がお世話になってます」
少年は去年の冬から昏睡状態が続いていた。よって、この春に中学生になった妹の制服姿を、兄はまだ見ていない。
「お兄ちゃんの心配ばかりしてないで、自分ことも心配しないとだめよ? もうすぐ初めての中間テストでしょう?」
毎日のように兄を見舞いに来るこの少女とは、すっかり顔なじみになっていた。少女も少女で、若い女医は他のオジサン医師よりも親しみやすいのだろう。よく話を聞かせてくれる。
「うん、そうだけど……ねえ、先生。
この前言ったこと、考えてくれた……?」
「『異世界』の話?」
「そう。お兄ちゃんは、いつも私に異世界のお話を聞かせてくれたの。それがどんなマンガよりも面白かったの。
お兄ちゃんは、きっと、あの世界に行っちゃったのよ……」
少女の目には涙が溜まっていた。きっと親に話しても友達に話しても、誰も本気になってはくれなかったのだろう。兄を思う必死さが痛々しい。
「そのことなんだけどね。もう少し詳しいこと、聞かせてもらえるかな」
少女は驚くほど正確に、その兄が語り聞かせた世界のことを記憶していた。
どこかで聞いたことあるようなファンタジーな世界観で、兄は勇者として、妹は運命の巫女として、仲間と共に旅をし、世界の果てにいるドラゴンを倒そうとする物語だったらしい。
「私、お兄ちゃんに詠唱の呪文も教えてもらったのよ。
『生命の輝きは瑠璃色の天馬となり、天駆け母なる大地を照らせ、この手に光――』」
そのとき、薄く乾いた少年の唇の間から空気が漏れるのを、二人は見逃さなかった。
(――ヒカリ、アレ)
「お兄ちゃん?」
少女が飛びついても、少年は静かに寝息だけを立てつづけるだけだった。