6話【禁忌】
「――――……ふわぁぁぁ」
他人に見られたら笑われてしまいそうな大きな欠伸を噛み殺し、俺は瞼を擦りつつ辺りを窺った。
暖かいベッドではなく、硬い板の上で寝転がっていたため身体のあちこちに痺れるような感覚が残っているが、軽い屈伸運動で身体の細部まで血が通ってくる。
さて、様々な物が床へと散らばっているこの部屋は、味満ぽんぽこ亭の客室ではない。
「お腹減ったな……」
さらにいえば、昨晩は食事さえ満足にとっていないのだった。
「む……にゃ……」
その原因は、俺の隣で床に敷いた布切れへと横たわり寝息をたてている老人――ウォム爺さんである。
結局あれからウォム爺さんの懇願を断りきれず、決して悪用しないこと、個人で使用するのみに留めるという条件で、俺は徹夜に近い魔法の特訓に付き合わされる羽目になったのだ。
《光学迷彩》のコツを一度掴んでからのウォム爺さんは上達が異常に速く、俺が数日かけてイメージを固めた魔法を一晩で習得してしまったのは、経験の差というものだろうか。
見事に透明な姿となったウォム爺さんは、そのまま魔法の使用による疲労で床へと倒れ込んで眠ってしまったのだった。
属性魔法は大気中のマナを変換することでイメージを現象へと昇華させるものだが、変換器となる術者の身体に負担がかからないわけではない。
本業の研究が一切進んでいないように思えるが、果たしてこれで良かったのだろうか?
それにしても……ウォム爺さんは研究室で寝泊りすることに慣れているのか、実に安らかな寝顔をしている。
物が散乱して寝場所を確保するのにも苦労するこの部屋は、あまり寝心地の良い環境だとは思えないのだが。
「ふお……イリ……ィちゃ……」
寝言……か。
本当にブレないな。この人。
――いつまでも老人の寝顔を眺めている趣味は持ち合わせていないため、俺は宿屋に戻って腹を満たそうと思いつつ部屋の扉に手を伸ばそうとして……ウォム爺さんへと振り返った。
「……あぶないあぶない。忘れるところだった」
寝転がっている老人へと歩み寄り、探るようにして身体へと触れていく。
この現場を目撃されれば勘違いされそうだが、老人を撫で回す趣味だって俺は持っていない。
ただ、今回の交換条件だった報酬を受け取ろうとしているだけである。
魔法の道具袋――見た目の容量以上に多くの物を詰め込める必須アイテム。
魔物から剥ぎ取った素材なんかで手持ちが一杯になる冒険者にとって、これほど嬉しいアイテムはない。
限界量がどの程度なのか試してみたくもあるが、万が一破れてしまったりすると怖いので追々調べていくことにしよう。
「……あった。けど……」
ローブの下で握り締められている道具袋を発見したが、掌を開かせようとしても一向に緩まる気配がない。
逆にこちらの手を握り返そうとしてきた腕を機敏に躱し、俺は足にかかる体重をスムーズに移動させてウォム爺さんから距離を取った。
「ふう……」
寝ぼけないでいただきたい。
……俺はイリィさんじゃないぞ。全く。
ふたたびウォム爺さんに近づく勇気が湧いてこないため、とりあえず道具袋は後回しにするとしよう。
そう考えた俺は、眠っているウォームさんに転がっていた毛布をかけてやり、魔法研究所を後にしたのだった。
――研究所の外に繋いであったルークを忘れて放ったらかしにしていた俺は、不機嫌な騎獣の背に揺られながら、なんとか冒険者ギルド経由で味満ぽんぽこ亭へと帰り着いた。
途中、お腹が減ったと言ってルークが俺の身体を凝視してきたのは軽い冗談だろうが、早く何か食べさせてあげたいものだ。
……肉を見るような目つきでこちらを見ないでほしい。
ギルドに寄った理由は、依頼達成報告と報酬の受け取り、森で遭遇したギーグヴォルグの皮を売却するためである。
依頼報酬が五〇〇〇ダラに……皮の売却額も同じく五〇〇〇ダラ――合計で一万ダラだ。
つまり――金貨一枚が昨日の儲けといえる。
俺も稼げるようになってきたものだ。
しばらくは装備を新調する必要性も感じられないから、いざという時のために貯金しておきたい。
マリータの護衛依頼で得た報酬も合わせると……残金は十万ダラと少しといった感じか。
この宿ならば宿泊費が六〇〇ダラのため、半年ぐらいは何もせずに暮らせるほどの金額だ。
「――あっ、昨日は戻って来なかったので、心配してたんですよ。大丈夫でしたか?」
宿へ入ると、相変わらず笑顔が眩しい看板娘――ステラさんが心配そうに尋ねてきた。
宿泊費は数日分を前払いしているため、帰ってくると思っていたのだろう。
危険と隣り合わせの冒険者にとって、死が一般人よりも身近なものというのは共通認識である。
心配していただけるのは素直に嬉しい。
だが冒険者は身近にある死を恐れるのではなく、寄り添って歩くものなのだ。
ふっ……男は辛いぜ。
「いえ。昨晩はもう街に戻ってきてはいたんですが、ちょっと用事がありまして」
「あ、そうなんですか。何かお疲れのようにも見えますけど……いったい何を……?」
ステラさんが首を傾げると、薄桃色の髪がふわりと揺れる。
疑問の表情を浮かべながら俺の様子を窺っていたところへ、厨房から別の声が響いてきた。
「おい、ステラっ。お客様の行動をあまり深く詮索するなよ。セイジさんはあんな立派な騎獣を持ってるんだ。優れた冒険者が深夜の街を歩いてたって何も危険なことはないだろう。それに……」
ウランさんの言葉を遮るようにして、ステラさんは一歩前に出る。
「そりゃあ、お客様にあれこれ尋ねるのはよくないけど……セイジさんはまだお若いし……万が一危険な事件に巻き込まれでもしたら――」
今度は、逆にウランさんがステラさんの発言をストップさせる。
「あのなぁ、ちゃんと宿泊記録を見たのか? セイジさんはもう十八歳なんだぞ。俺が言いたいのはだな……セイジさんも男なんだから、その……もしかすると夜にそういったアレに行っている可能性も考慮して……だな」
え……ちょっ、待て。
どういうことだってばよ。
俺が何をしたって?
ステラさんは俺の年齢に驚きの感情を顕わにしたが、そこは看板娘である。
すぐさま笑顔に戻ったものの……ウランさんの言葉の意味を理解するのには数秒を要したようだ。
ゆっくりと頬を桃色に染めていき、最終的に髪の色よりも真っ赤となった頬を隠すようにして、俺へと深く頭を下げてくる。
「す、すみませんっ。わたしの考え足らずで失礼な質問をしてしまって」
…………
違うからっ!
それ、むしろ考え過ぎだからっ!!
ウランさんも何を言い出すかと思えば……っ。
俺が昨晩訪れていたのは魔法研究所で、決してそんな如何わしいお店ではない。
相手にしていたのだって綺麗なお姉さんとは程遠い。
――まさかのお爺ちゃんである。
スーパー賢者タイムにも程があるというものだ。
あのような爺さんと一晩を過ごせば、お疲れのご様子だと心配もされるさ。
まあ……イリィさんは綺麗なお姉さんという言葉では不足なほどの美人であったが。
「違いますってっ。昨晩は依頼の延長というか……アフターサービスみたいなもので、そんな場所になんか行ったこともありませんよ!?」
焦ってやや声を荒げてしまった俺に、ステラさんがふたたび謝罪の言葉を述べる。
「すみません。わたしったら……」
「と、とりあえず、お腹が減ってるので朝飯を用意してもらえると嬉しいかな、と。あと騎獣にも何かご飯をお願いできますか?」
「あ、はい。すぐに用意しますね。ウラン、お願い――って……ちょっと待って」
厨房へと駆けて行ったステラさんが、笑顔をそのままの形で凍りつかせたような表情でウランさんへと詰め寄る。
「――さっきみたいな思考に至るってことは……ウランはそういったお店に行ったことがあるってこと?」
「ばっ……馬鹿なこと言うな。朝晩の食事を毎日作ってるおれに、そんな暇があるわけないだろう。仕込みにだって時間を結構取られるし、わずかに空いた時間は釣りに行ってるんだ。行きたくても行けないさ。それぐらいわかるだろ」
……ウランさん、最後の一言はいらなかったと思います。
「……へえ、行きたいんだ? まあ、こんな強面のお客さんが来たら店側もびっくりするかもしれないわね。試しに行ってきたら?」
あくまで笑顔のまま、ステラさんが切り返す。
「お前な……そっちだってお客様によく飲みに誘われたりしてるだろう。試しに行ってみたらどうなんだ? 愛想が良いのは結構だけど、いつもハッキリしない答え方をするから何人も声を掛けてくるんじゃないのか?」
――あぁ、空気がピリッときたね。これは。
もうね、敢えて言わせていただこう。
さっさとくっついてしまえ、と。
続けて言うならば、俺はとても腹が減っている。
早く飯を食わせてくれ。
今すぐにだ。
「――あんたたちっ! 何をグチャグチャ言ってんだい!! 明日っから暇人になりたくなけりゃ勤務時間はしっかり働きなっ」
俺の心の代弁をしてくれたのは、味満ぽんぽこ亭の女将――マグダレーナさんである。
階下にやって来た女将が年季の入った声で一喝すると、二人は瞬時に仕事に戻るべく機敏に動き出した。
――無事に朝食にありつけた俺は満腹感とともに部屋へと戻り、剣と鎧を外して一息つく。
「ふぅ……結局あんまり寝れてないから……二度寝でもしようかな」
空が白むまで訓練を続けていたため、ちょっと床で寝たぐらいでは疲れが取れていないのだ。
どうせウォム爺さんが起きるのも昼過ぎか……夕方くらいだろう。
道具袋は起きてから貰いに行くとしよう。
綺麗にベッドメイキングされた寝床へと身体を沈みこませると、お日様の匂いというべき独特な落ち着く香りが鼻腔を刺激し、それが睡魔を呼び寄せたのだった。
――目覚めの時刻は夕刻前。
自分で思う以上に疲れていたのか、かなり深い眠りに落ちてしまっていたようだ。
これだけ時間が経てば、ウォム爺さんのほうも復活しているだろう。
俺はもそもそと着替えを済ませ、機嫌を直したルークとともに王立魔法研究所へと向かう。
今日はさすがに依頼を受ける気にならないので、冒険者ギルドへの寄り道はなしだ。
到着後、ルークから降りると『今度放ったらかしにしたら実家に帰らせていただく』という旨をオブラートに包んだ鳴き声で伝えられた。
短くも可愛い鳴き声に含まれた意思は、わりと本気かもしれない。
手短に用事を済ますべく建物に足を踏み入れた俺は、中庭に面する渡り廊下を歩いてウォム爺さんの研究室へと向かう。
途中、俺は向かい側から歩いて来る人物を目に留めて立ち止まった。
ウォム爺さんであればここで止まらずに全力ダッシュに移行するのだろうが、生憎と俺はそこまで本能に忠実にはなれない。
「……また、会いましたね。ここが気に入ったのですか?」
「いえ、今日はちょっとした用事で来ただけですよ。そちらは……また研究協力ですか?」
俺は目の前にいらっしゃるエルフの麗人――イリィさんへと挨拶をしつつ、尋ね返す。
「そうですね。いえ……今日のはちょっと違いますが」
どこか歯切れの悪い口調のイリィさんだが、エルフというのは街でもほとんど見かけることのない種族。
ましてや……
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名前:イリィ・フロース
種族:エルフ
年齢:24
職業:宮廷魔術師
特殊:精霊の輪
スキル
・精霊魔法Lv2(38/50)
・弓術Lv2(18/50)
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――イリィさんは精霊魔法を扱えるエルフなのだ。貴重な人材ということで何かと研究協力を求められるのもわかる気がする。
ふむ……勇気を振り絞ってイリィさんのステータスを覗いてみたのだが……レア物を見つけてしまった。
《精霊の輪》――使役する精霊の数が多いほど、精霊の能力が強化される。
スキルではないが、魅力的な特殊をお持ちのようだ。
エルフ専用の精霊魔法と組み合わさると効果が発揮される感じ……か。
「なんだか妙な視線を感じますが……セイジさん、あまり女性を舐め回すように見つめるのはよろしくないと思いますよ」
ふぁ!?
「な、ななな何を言ってるんですか!? お、俺は別にそんなっ」
「ならいいのですが。不思議ですね……何故かセイジさんに身体の奥を覗かれたような錯覚を覚えてしまいました」
馬鹿な……一瞬だけイリィさんの顔に意識を集中させただけなのに。
この人、鋭すぎるだろ。
「と、ところでイリィさんは精霊魔法を使えるんですよね? どんな感じなのか見せてもらえれば嬉しいなぁ……なんて」
精霊魔法スキルを所持している事実を確認できたのはたった今だが、昨日のイリィさんとウォム爺さんとの会話からも、彼女が精霊を操れるのは明白である。
別に俺がこういった発言をするのも不自然ではないはずだ。
「興味があるのならご覧にいれましょうか? ただし……あまり刺激はしないでくださいね。今はちょっと……みんな興奮気味ですから」
言うが早いか、イリィさんは口元をわずかに動かし……小さく何かを呟く。
途端――閃光のような眩い光が辺りを照らしたかと思うと、今度はその光が収束するようにゆっくりと縮まり始め、最後には光る球状の塊となった。
その塊は意思があるように小刻みに動き回り、球の真ん中には表情のようなものが見てとれる。
「これが……精霊……」
「ええ、これは光の精霊――ルーチェです。他にも様々な精霊達と契約をしていますが、全員を一度に出すと危ないので、今はこの子だけにしておきますね」
「……契約?」
「とはいっても、精霊と仲良くなって力を貸してもらう約束をするような認識で問題ありません」
なるほど。
精霊魔法は文字通り精霊を呼び出して力となってもらうようだ。スキルLvが上昇すれば、より高位の精霊とも仲良くなれるといった具合だろうか。
同じ光の精霊でも、大精霊みたいな存在がどこかにいるなら会ってみたいものだ。
俺は反射的にルーチェに意識を集中させてみたものの、ステータスは表示されなかった。もしかすると生命体やアイテムという分類に当てはまらないのかもしれない。
「自分のイメージを具現化する属性魔法とはちょっと毛色が異なりますが、とても心強い味方ですよ。気まぐれな面もありますけど、危険などを察知して教えてくれたりも……します」
何故か顔を少し曇らせたイリィさんは、またもや小声で精霊の名前を呟く。
ルーチェと呼ばれた精霊は球状の身体を小さくしていき、最後には原形を失って空気に溶けていった。
「あの……どうかしたんですか?」
「いえ、少し……やり過ぎたかもしれないと反省しておりまして」
どういう……意味だろうか?
「――ああ、そういえばセイジさんは用事があると言っていましたね。私はそろそろ失礼します」
「ありがとうございます。精霊なんて見るのは初めてだったので、ちょっと感動しました」
俺の感想に笑顔で返してくれたイリィさんは、そのまま廊下の向こうへとゆっくりと消えていった。
うーむ。
精霊魔法……か。
面白そうだけど、ヒューマンの俺には扱えないのだから仕方がない。
今はそれよりも道具袋を優先すべきだ。
あまり遅くなると、騎獣を繋いである紐が外にポツンと残されているような未来が待っているかもしれないのだ。
そうなれば実家に謝りに行かねばならなくなる。
……ってか、実家どこだよ。
などと自分にツッコミを入れながらウォム爺さんの研究室前までやって来た俺は、扉をノックしてから押し開けた。
――相変わらず室内には物が散乱しているが、心なしかさらに散らかってるように感じるのは気のせいだろうか。
「……セイ坊、か」
部屋の端に蹲っていた影がゆらりと立ち上がると、それがウォム爺さんなのだと知れる。
ちなみにセイ坊とは夜通しの訓練を行ない、奇妙な友情関係から生まれた俺の愛称である。
しかし、どうしたのだろう?
身体が震えてる。無理をして風邪でも引いたのだろうか。
「あの、約束してた道具袋を……」
「そうじゃったな。確かに……約束通り、これはセイ坊に渡しておくぞい」
ウォム爺さんはローブの中に手を差し入れ、ネズミ色をした魔法の道具袋を取り出した。
それを受け取る際、もう一度だけ……しつこいようだが注意を促しておく。
「本当に、悪用だけはしないでくださいよ」
もしこれが守られなかった場合、俺は盗賊の神技を発動させてこの人から光魔法スキルを奪い盗ることも考えている。
「……もちろん、じゃよ」
そう答えたウォム爺さんは、昨日と異なり、不思議と何かに怯えたような瞳をしていたのだった。
――こうして用事を済ませた後、俺はウォム爺さんへと別れを告げて王立魔法研究所からの帰路についた。
周囲が夕闇に染まる時刻。
視界の端では幻想的な光を宿す街灯が辺りを照らすべく可動していく。
暖かな光を見つめていると、なんだか胸がキュッとなってしまった。
……今頃、皆はどうしているだろう。
――リムは無事にスーヴェン帝国に着いたのだろうか……
味満ぽんぽこ亭前へ直通の水路内を泳ぐルークに騎乗しながら、俺は空を見上げてふとそんなことを思い浮かべていた。