21話【楔、断つ】
リシェイル王国やスーヴェン帝国が存在するアーシャ大陸の南には魔族が生息している。これはアーシャ大陸に住む者ならばほとんどが知っていることである。魔族の形態は多種多様であり、魔物にも似た姿形の者もいれば、ヒューマンとさほど外見が変わらぬ者もいる。
だが魔族は総じて深紅の瞳を有しており、見分けることは容易とされていた。
そういった魔族や強力な魔物が生息するリシェイル王国南部は未開拓地域と称され、国が発展するとともに少しずつ開拓を進めてきたという歴史を持っている。現在も未開拓地域との境目には複数の砦が存在しており、魔物の群れや魔族の侵入を防いでいるが、過去においては今よりも手前に境目が存在していたことになる。
開拓が進むにつれて役目を終えた砦はそこを拠点に新たな街へ発展していく場合が多いが、中には捨て置かれる建造物も存在していた。
街道を外れ、流通から取り残された建物は時間を経て次第に朽ちていくのだ。
通常であれば人が来ることはない――そんな場所で二人の男が見張りに立っていた。黒づくめの服装に、顔を隠している風体である。
空が茜色に染まっていく光景に目を細めた男が、遠くに何かの影を見つけた。
男達はすぐさま武器を構えて警戒する態勢を取り、近づくにつれて露わになってくる相手の姿を見据え続ける。
夕陽の赤に照らされて、鱗竜の緑がかった黒鱗がところどころ赤みを照り返す。それに騎乗している人物が男達からやや離れた位置で騎獣から降りた。
男達のことなど気にした風も無く、鱗竜の喉を撫でるようにして褒めてあげている。
「あなたの乗り心地、なかなか快適だったわ。さあ……もう危ないから下がってなさい」
「クォ」
「……何者だっ!?」
「……ふ、ははは」
男の問いにその人物は口元を歪めて不敵な笑みを漏らし、ゆらりと振り返った。
――浅黒い肌に、腰まで届こうかという銀の髪、何かの魔物の革を用いたレザー製防具を身に纏い、手に持っているのは竜骨より削り出されし竜槍。背には大型の弓も見受けられる。
女性として美しいと評されるであろう容姿であるのだが、その人物と目が合った瞬間――男達は驚愕の声を上げた。
その女性の瞳――双眸は、茜色に染まる周囲の色よりもずっとずっと濃い……深紅の光を灯していたからである。
「――これで……満足か?」
「ま……、魔族!? な……んでこんなところに……おい、隊長に伝えろっ!」
「だ、だが……相手は一人だぞ? 俺達二人で一気にかかればこんな女の魔族ぐらい――」
「なん……だと?」
魔族――アルバは自分を侮辱する相手の言葉で怒りに身を任せそうになり、思い留まった。
「できるだけ殺さずに……だったか? 全く、厄介な注文をしてくれる」と眼前の者達に聞こえぬ程度の小声で呟く。
「うおぉっ」
それぞれ武器を手に、男達は攻勢をかけた。一人はアルバと同じく槍を手に持って薙ぎ払いを繰り出す。
対するアルバもそれを槍で受け止め、ギリギリと槍同士が軋みを上げた。
「っは! 魔族とはいえ女の細腕で……あ……ぐぎ、ぎ……」
「……どうした、その程度か?」
男が槍を押し込もうとしてもピクリとも動かない。アルバがそのまま足を一歩踏み込もうとしたところで――
「――っ!」
もう一人の男が投擲した特殊な形状の斧がアルバの鼻先を掠めていった。咄嗟に顔を引かなければ頭部に命中していただろう。一拍置かずに斧の男はもう一振りの大型の斧で仰け反ったアルバへと斬りかかった。
交差していた槍を振り払い、アルバは斧の一撃を難なく受け止める。が、同時に後方から襲いかかってきたのはさっきの投擲斧だった。その一撃はわずかだがアルバの肩を掠って男の手元に舞い戻る。
「ほぅ……種類の異なる斧を同時に使いこなすか……面白い。だが――」
そう言ってアルバが後方へ跳躍してやや距離を取った。追撃するように男二人は同時に攻撃を仕掛ける――槍が突き出されると同時に、ふたたび斧も投擲された。
「――同じ手が二度通じると思うなっ!」
アルバが手を翳すと空中を飛来する斧がピタリと動きを止め、凄まじい突風とともに逆方向へと飛んで行く。男は目を見開き、舞い戻ってきた自らの武器に薄肉を抉られながらもなんとか躱した。投擲斧はそのまま後方の石壁に突き刺さって動きを止める。
「な――」
斧の男の声はそこで途切れた。アルバが槍の男の横をすり抜け、回避して体勢を崩した男の懐まで距離を詰めていたからだ。大型斧を振るうことは許されず、真正面から男の腹に中段蹴りが見舞われた。
大の男の身体がふわりと宙に浮かび、数m先まで転がって壁に叩きつけられる。
「ぐ……ぁ、ばら……」
「そ……んな、なんだよ、この魔族……半端な強さじゃないぞ」
槍を携えた男が茫然と佇みながら、そんな言葉を漏らした。
「もう終わりか? 仲間がいるなら助けでも呼んだらどうだ?」
「が……は、隊長に、知らせ……」
「わ、分かったっ」
頷いた槍の男は建物の内部へと駆けて行く。アルバはその様子を黙って見つめていた。
「そうだ。伝えるといい……魔族が襲撃してきたとな――――?!」
アルバをふたたび投擲斧が襲う。壁に刺さった投擲斧を掴み取り、まだ呼吸もままならない男が息も絶え絶えで投げつけたのだ。
それも危なげなく回避したアルバだったが、髪を二、三本断ち切られてしまった。
「思ったより歯応えがあるじゃないか――が……調子に乗るなっ」
竜槍が振り上げられ、雷光のごとく勢いで振り下ろされる。壁にもたれかかっていた男の腹部を大きく穿ち、石壁もろとも易々と突き破った。アルバが「あ……」と声を上げる頃には既に相手は絶命しており、ズギュルッと槍を引き抜くと血溜まりが形成されていく。
「できるだけ――だったな。次からは気をつけよう。ん? ふ、あははは……それにしても随分とあいつに従順じゃないか……私は。自分でも少し驚いてしまいそうだ」
アルバはそんな言葉とともに、ゆっくりと建物の内部へと足を踏み入れたのだった。
――セルディオは部下の報告を受けて動揺を隠しきれずにいた。何故魔族がこのような場所を襲ってきたのか。ここより南にある砦をすり抜けて来る魔族や魔物が稀にいたとしても、別段驚くには値しない。
だが、何故に今――この時――この場所を――魔族が単騎で襲撃してくるのか!?
ふとセルディオの脳裏にある可能性がよぎったが、すぐさま頭を切り替えた。魔族が人間に従うことなどは考えられないからだ。
スーヴェン帝国においても魔族は変わらず脅威であり、セルディオもそれを良く理解している。
となれば、取れる選択は二つ。
戦うか……マリータを連れて逃げるか、だ。
セルディオとその部下達は戦闘訓練を受けている人間である。一般的な兵士どころか、優秀な冒険者や傭兵にも劣らぬ腕を持っていると彼らは自負している。
たとえ魔族が相手でも数人がかりならば倒せるはず……だが、それは並みの魔族であればの話だ。知らせに来た部下の言葉から、襲撃してきた魔族が極めて個体能力に優れていると判断したセルディオは考える。
(この場所に居るのは自分と部下を合わせて十人ほど……さすがに負けるとは思えないが、相手の強さは未知数だ。ここは――)
故にセルディオは後者の選択を選んだ。優先すべきは魔族の駆除などではないのだ。
部下に魔族の足止め――可能ならば駆除するように指示した後、セルディオはすぐさまマリータを監禁している部屋へと向かうため、階上へと駆ける。
「――あれ、隊長……どうしたんですか?」
「何か問題でも?」
「ああ、お前達は俺と一緒に来い」
セルディオは見張りを担当していたレンとレイを目に留め、すぐに場所を移動する旨を伝えた。閉じ込めていたマリータと傍にいたロギンスを連れ、裏手から脱出して騎獣で一気に魔族を引き離すつもりである。
「――ま、魔族がですか!? なんでまた……」
「分からん。下の奴らには合流場所を伝えておいた。魔族を倒せた場合は――」
ところどころ朽ちて壁が崩れてしまっている通路を足早に進み、レンの問いにセルディオが答えている途中――階下から轟音が響き渡った。同時に何かが爆発したような激しい衝撃が建物を揺らす。
全員がわずかに気を取られた瞬間――その隙を逃さずに動く者があった。
――マリータである。
「ちょっ……何す――」
レンの腰に帯びている双剣の鞘から短剣を抜き取ったのだ。それを相手に向けるわけではなく、自らの喉元にあてがう。
「近づかないでっ!」
そんな言葉とともにジリジリと後ずさっていく。壁が崩れている箇所から覗ける空は綺麗な茜色に染まっていた。久しぶりに外気が肺を満たしたことで、このような状況だというのにマリータをどこか清々しい気分にさせてくれる。
だが……確かに外部と繋がってはいるが、地上までは随分と遠い。マリータのような子供が落ちれば骨折では済まない高さだ。
「馬鹿なことを。できもしない行為で脅そうというところが子供なんだ。今は子供に付き合っている暇はな――」
セルディオが構わずに近づこうとすると、マリータが短剣を喉に浅く突き刺した。赤い滴が剣を伝ってポトリと床へと落ちる。
それを見たセルディオが、軽く舌打ちをしてロギンスへと言葉を吐いた。
「おい……こういうことをさせないよう、あんたは一緒に付いてきたんじゃなかったのか?」
「マリータ様……」
セルディオの言う通りであるのに、ロギンスは動けずにいた。
今のこの状況が余りにも……似過ぎているのだ。
少女の母親が命を散らせた――あの時に。
何度も何度も……夢の中でさえ繰り返されたあの光景が、ロギンスの脳を埋め尽くしていく。
フィリアが身を投げる瞬間、瞳に宿っていたのは憎しみの感情ではなかった。家族のことを心配する……慈愛に満ちていたのだ。だからこそ、最後の言葉に従ってロギンスはフィリアが大切だと言ったものを守ろうとしたのかもしれない。
そして今まさに、あの時に掴めなかった手を、守ろうとしたものを、救うために動かなければならないと理解しているのに……ロギンスの手足は震え、思うように動かないのだ。
「……情けない」
そのか細い声は誰にも届くことはなく、マリータの幼くも張りのある声が響く。
「とても怖いけど……私にできるのは母様と同じことだろうってずっと考えてた。ロギンスのことを恨もうと思っても……私にはやっぱり無理だったみたい――」
マリータの瞳が、ロギンスへと向けられる。
「――――長い間……見守ってくれてありがとう……さよなら」
「ま――!!」
ロギンスの制止の声は虚しく、マリータはその身を宙へと投げ出した。
震える脚を殴りつけ、必死に駆け寄って掴もうとするも――その手は届かない。
まるで――幾度も夢で見た光景と重なるように。
だが、絶望でその身が崩れ落ちそうになったロギンスは確かに見た。
――風を掻き分けるようにして空を駆けていく何かの姿を。
左右に押しやられた風が渦を巻くほどの勢いで、それは落下していくマリータへと接近する。
少女の華奢な体躯が地面へ激突することはなく、ふわりと柔らかな毛に包まれるように優しく受け止められた。
それを成したのは、鷲の頭部に獅子の身体を持った魔物――グリフォンである。そして騎乗しているのは丈の長いローブを被った人物で――顔は見えない。
「あれは……グリフォン!? 何故こんなところに。乗っているのは、まさか……あれも魔族か? くっ……とにかく追うぞ!」
セルディオの驚きも然ることながら、助けられたマリータもまた戸惑っていた。
死ぬ覚悟を持って身を投げたというのに、助かってしまえば今更ながらに恐怖が身体を支配していく。
それに、まだ安心することはできない。魔族が襲撃してきたというのはセルディオから聞いているが、眼前のローブの男がその魔族の仲間――すなわち魔族であるならばマリータが助かったとはとてもいえないからだ。
魔族の恐ろしさは、本の知識でしかないがマリータも知っている。
だが不思議なのは、そんな魔族が何故このように助けてくれたのか……?
「わ、私をどうする気……? なんで助けたのよ」
怯えながらも、自らの疑問をしっかりと口にする辺りは立派なものである。
その問いに、返答の声が発せられた。
「そりゃ、助けるだろ」
「あ、あなた……もしかして」
聞き覚えのある声に、マリータは胸の底がじんわりと熱くなってくる感覚に襲われる。
この場において、居るはずのない人物。
先程までの張り詰めていた気持ちが、緩やかに解けていくようで……マリータはいつの間にか涙が止めどなく頬を伝っていることに気が付いた。
グリフォンは建物から少し離れた場所へと降り立ち、男はマリータへと向き直って顔を隠しているフードを脱いだ。
黒髪に、黒い瞳、どこかおっとりとした顔が今のマリータには限りなく頼もしく見える。ローブの下にはこれまた真っ黒な防具を着込み、腰に帯びている剣もまた黒いことをマリータは知っている。
全身が黒づくめであるのに、同じく風貌が黒づくめだったあの男達とは受ける印象が全く異なる。
そんな安心感を与えてくれる黒づくめの男が、マリータに改めて言葉を掛けた。
「……なんでって――マリータは友達だから、な」
「う…………ぇぇぇぇぇぇぇん」
今度こそ、マリータの中で何かが溶け落ちた。
恐怖や苦悩、極限の緊張といった全てがない交ぜになって胸の奥から流れ落ちていく。
幼き少女は、そこでようやく自分が言いたかった言葉を口にすることができたのだった。
「――あり……がぁ、とぉ……」
次回――『激昂』