価値のパラドックス
朝ごはんには手をつけず、「行ってきます」も言わずに家を出た。
鞄の中に教科書、入っていたっけ。
そもそも学校に行く気がないから、中身が空っぽだって構わない。
公立中学だから退学にはならないとはいえ親も困り果てている。
けれどあたしは学校に行く意義がわからないし、納得できないことはしない。
そういう主義。
屁理屈だと父親に叩かれたけれど、世の中なんてみんな屁理屈でてきている。
ちなみにそれ以来、家族とは口をきいていない。
だらだらと学校と反対の方角へ歩く。
川のそばを歩いていたら、鴨がのんびりと泳いでいた。
鳥や動物は産まれただけで、生きていく力を身につける。
生きることが生きる意味そのもの。
人間はどうして生命力のほかに、いろいろと飾り立てなくてはいけないのだろうか。
たとえば学歴とか、そういうこと。
もうじき進学高校も決めないといけない時期なのにこうしてぶらぶらしているあたしのことを、
先生はあつくるしい言葉の羅列で励まし、
親は放っておきたくても見放すことができず、困っている。
あたしだって、誰かを困らせたいわけではないけれど、
自分が納得できないことはどうしてもできない。
価値のパラドックス、という言葉をきいた。
誰でもほしがる、一万円の束。
だけれども砂漠の真ん中ではそれは何の価値もなく、ただほしいのは一杯の水だけ。
町のなかでは蛇口をひねるただの水が、渇水の砂漠ではなによりも価値がある。
あたしは砂漠にいる。
まわりのみんなは町に住んでいる。
見た目には誰も気がつかないけれど、価値観が違うのだ。
そういう考えを、相手にわかるように説明をするのが、苦手。
だから黙っている。
頑固な性格を持って生まれてしまったから仕方がない。
太陽はもうじき真上。喉が渇いた。
自販機をみつけた。コーラか、サイダー。炭酸系が飲みたい。
並んだ自販機の前には先客がいる。
小さな女の子がつり銭の穴を探ったり、自販機の下を覗き込んだりしている。
「お金、落としたの?」
あたしが聞くと女の子は慌てて立ち上がった。
小銭が入ったジャムの空き瓶を抱えている。
あたしは構わずコインを穴に入れて、ダイエットコーラのボタンを押した。
プルトップを引いて、一気に飲む。炭酸が喉を通る。
歩き疲れていたからさっぱりした気分。
まだ女の子は脇に立ったままじっとしている。あたしは女の子を観察した。
髪はぼさぼさで長い。膝と手が泥だらけ。虐待?脛には青痣がある。
あたしの眉間にシワがよったのを感じたのか、視線から逃げるように女の子は走り去った。
ヘンな子。でも黒目が印象的だった。
ちょっと昔のあたしと同じ光。人間が怖くてそれでも耐えていた頃の目。
明日を開く鍵がないとあせっていたころの目。
そんな鍵がなくても、だらだらと時間はすぎていくのに、
あのころは何かをつかみたくて、つかめなくて歯をくいしばっていたっけ。
さすがにおなかがすいてきたので、コンビニでおにぎりを買った。
レジ袋をシャカシャカいわせて公園まで歩いていたら、別の自販機にまたあの子がいた。
さっきと同じ事をしている。地面にはいつくばって、今度は側溝の隙間に手をつっこんでいる。
「何やってんの?」
女の子は腹ばいのまま、あたしを見上げた。
側溝からひっぱりだした手を開くと百円玉があった。
嬉しそうに瓶の中に入れるとチャリと音がした。はじめて女の子の笑った顔をみた。
「お金ためて何買うの?」
女の子は笑顔をやめ、爪の先を噛んで黙っている。
会話をあきらめて歩き出そうとしたときに、女の子は
「世界」
とつぶやいた。
「え、何?」
「自分の世界を買うの」
女の子はまじめな顔で答える。
あははっと笑うと女の子は少し怒った顔になった。
「ああ、笑ってごめん。それってどこで買うの?いくらぐらいするの?」
あたしが尋ねると女の子はいっそう強く爪を噛んだ。
「知らない。でもどっかに必ず売っているよ」
女の子は自分に言い聞かせるように大きな声を出しつま先で地面を蹴って繰り返すように言う。
「どっか知らないけれど、どっかにあるよ」
そうだね。どんどん商品が増えている時代だもん。いつかそういう店ができるかもね。
そういうと女の子は微笑んだ。
おにぎり食べる?と誘ったけれど、女の子は来なかった。
そのかわりバイバイと手をふってくれた。
それがあたしの見た女の子の最後の姿だった。
夕方。
そろそろ家にもどらなければいけない。
学校から連絡が入って、あたしがさぼったことはばれているだろう。
夕焼けの町に救急車とパトカーのサイレンがかぶさる。
事故だってよ、と男子高校生が、友達を呼んでいる。
あたしは歩く速度を変えることなく、追い越していく人の背中をみていた。
野次馬の間から、ガードレールに突っ込んだ車と、道路のうえに白く描かれた人の形が見えた。
頭の部分に大量の血痕。ほんとうに交通事故だ。でも人の形がやけに小さい。
ふと、目をやると側に割れたジャムの瓶がころがっていた。
でも・・お金は一円もちらばっていない。
あたしは野次馬をかきわけて前にでた。
制帽を目深にかぶった警官があたしの前をふさぐ。
「あの子、大丈夫ですか?」
ときいてみた。
警官が顔をあげた。にもかかわらずその顔つきは帽子の陰になってよくみえない。
「知り合いか」
ひくい声。
「いえ、さっきちょっと話した子で・・。名前や住所なんかは知らないんですけれど」
警官が舌打ちをしたように感じた。
「他人のあなたが心配することではない。あの子はちゃんと手当てをうけて、なんの問題もない」
へんだよ。助かった人のまわりに白いラインはひかないでしょう?
あたしが怪訝な顔をすると、警官は帽子をさらに深くかぶりなおした。
「あの、お金は?びんが割れていますけれど、お金がはいっていましたよ。
盗まれたってことではないんですか?」
警官は鋭い視線をよこして、よけいなことはいわないように、と、とても低い声でささやいた
もしかしたら・・。
買えたんだ、世界。
女の子の姿はこの世界にもうなくて、ただの白い縁取りになった。
きっと走り去った救急車はからっぽだ。
びんのなかの料金であの子はあの子の望む世界へ行けたんだ。
野次馬はだんだんと少なくなっていった。
救急車もパトカーも角を曲がって見えなくなった。
あとにはただ、びんのかけらがあるだけ。
しばらくして、モップをもった清掃員がやってきて、
白い縁取りや血痕をかたづけていた。
あたしは誰にもみられないように、びんのかけらをポケットに
滑り込ませた。
家に帰って台所をのぞいた。
母親が夕飯を作っている。丸めた背中がやけに小さく見えた。
鍋から立ち上がる湯気。
あたしが食べなくても、父親が飲み会で遅くなっても、
必ず人数分の食事が用意されている。
母親も昨日と同じ今日を演じて、うんざりしているのだろうか。
包丁を使う背中に「ただいま」と言ってみた。
慌ててふりかえる母親の口から、
「お、おかえりなさい」
と、言葉がこぼれた。
そんなに驚かないでママ。
いまのはただの気まぐれ。ちょっとしたセンチメンタル。
でもね、明日も今日と同じだなんて誰にもわからない。
だって、ひとりひとり、価値観は違うし、その価値観だって
日に日に変わるの。
だからね、
この先あたしがどうなるかなんて
その時になってみないとわからない。
ほんと、
世界は何が起こるかわからないんだよ。