プロローグ
愛したのはあなただけ。
だから――……
‥‥‥‥‥‥‥
三日月が白く夜に浮かぶ。
星と月のほの灯りの元、少年は小さな手鏡を手に取り見つめていた。
「探し物はこれ、か」
長いまつげから覗く、澄んでいながら底の見えぬ黒い瞳。
少し長めの髪に縁取られた顔はまだ幼さを残している。
全身を黒い衣服に身を包んだ少年は、手鏡を両手で持ち厳かに呟く。
「この鏡に宿りし魂よ、姿を現すがいい……」
不可思議な印を紡いだのち、少年がそっと囁くと、応えるように鏡が光る。
脈打つような光がおさまると、そこにはうら若い女の姿があった。
結い上げた髪を飾る豪奢な簪。女の美しさを際立たせる薄紅の着物。化粧をしていないながらも、女は美しかった。
『……章光、様……?』
閉じられたまぶたが開くとともに、唇が甘く誰かの名を呼ぶ。
女の顔はどこまでも優しく、瞳には邪気がなかった。
女を、その顔を見た少年は、何故と呟き瞑目する。
その顔は切なげで、どこか儚かった。
死者がこの世に留まるのは多くの場合二つに分けられる。
ひとつは恨みをもつが故に留まるもの。
怨霊、悪霊、そんな呼ばれ方をする、一般的な霊である。
そしてもうひとつは、慕霊と呼ばれるもの。
誰かの行く末を案じるため、誰かを思うが故に留まる霊。
こちらは心残りがなくなればすぐに成仏するのだが……
『……章光、様……?』
女の声が震え、美しい顔が哀しげに歪む。
慕霊でも恋愛ざたのものは、転じて悪霊になりやすい。
鏡に己の魂を残すほどの愛であれば……尚更に。
「貴女を目覚めさせたのは、俺だ」
一度深く息を吸うと、少年は凛と女に向き合う。
「俺は冥府の官吏、小野凪。死者を冥府に導く役目を担う者」
『……めい、ふ?』
きょとんと見つめる女に、凪は泣きそうに笑いかける。
「貴女はもう死者なんだ。だから冥府……あの世にいって、転生の準備をしなければならない。俺はそのために、貴女を迎えに来たんだ」
『わたくしが……死者』
呆然と凪の言葉を繰り返す女。
『……ああ、そうだわ。あの方との関係がお父様に知られて……無理矢理他の方に嫁がされそうになったから……わたくしは……』
純白の花嫁衣装。あの人のために着るはずの。
愛したのはあの人だけ。他の人になど嫁げない。
あの人がくれた鏡に映るのはもうあの人が愛した自分じゃない。
やつれて青ざめてみっともない……
それでもあの人じゃなきゃ、結婚なんてしたくない。
だから――……
『わたくしは、自分の喉を剃刀で切り裂いたのです……』
飛び散る鮮血、薄れゆく意識の中で思ったのは、ただひとつ。
もう一度、あの人に会いたい……
その思いは一途だからこそまっすぐで強い。けして良質なものではない手鏡が新品同様に残っているのも、ひとえに女の魂の強さゆえ。
だからこそ、凪は女を迎えにきたのだ。このままでは必ず迷い、魂が穢れて悪霊になる。
強い思いはそのまま力になってしまう。それだけは止めなければならなかった。
この世は常に、今を生きる生者のものなのだから。
「ここにいても、貴女の会いたい人には会えない」
『いいえ!! あの人はわたくしを迎えに来てくださると約束してくださいました!! だから、わたくしはずっと待っているのです……あの人が迎えに来てくださるのを……』
一筋、女の白い頬を涙が伝う。
信じなければ自我を失い、狂気にのまれる。女の魂はギリギリの所で均衡を保っているのだ。
「ここで待っていても、会えない。俺が断言する」
だが、凪はあえてそれを崩す。
鏡から、この世から、女を解放するために。
「貴女の待ち人は……来ない」
くしゃり、と女の顔が歪んだ。
『どうして……どうして!!』
章光様―――っ!!!!
哀しみと思慕の念が女から溢れだし、鏡を粉砕する。
そしてその破片は、凪の全身をズタズタに切り裂いた。
傷口から流れる血。腕も足も顔も切り裂かれながら、凪はただ女を見つめている。
静かなまなざしに宿る、揺るぎない光。生と死を司るが故にどこまでも深い瞳。
その眼が、女をとらえ続けていた。
女の激情のままに大気が荒れ狂う。髪を、服を、まるでそこにあるかのようにはためかせている。
しかし……その激情もやがておさまり、女はただすすり泣くだけになった。
『……き……さま、章光、様……っ』
「……そんなに会いたいなら、貴女が会いにいけばいい」
『……え?』
女の目に映るのは、全身を朱に染めながら、それでも微笑む少年の笑み。
そして、その後ろに立つ――……
「今の貴女なら、彼が見えるだろう?」
凪の声を聞きながら、女は駆け出す。凪の後ろに立ち、両手を広げる愛しい人の元へ……
『章光様っ!!』
『小夜子……本当に、長い間待たせてすまない……』
『いいんです、会えたから……』
いいんです……
そう呟き恋人の胸に顔を埋める小夜子。幸せそうな二人に、凪はそっと手を伸ばす。
「送ろう。二人で転生の輪に入り、また再びこの世に生まれてくるがいい……二人で」
凪の手が宙になにがしかの模様を描くと、泡のように光が二人を取り巻く。だんだんと薄く消えていく中で一度だけ小夜子は凪を見て唇を動かす。
その動きを読み取った凪の眼が大きく見開かれ……そして切なげに細められた。
――あなたも、愛する人と幸せに――
「……いないよ」
二人が冥府に旅立った後、凪はポツリと呟く。
「こんな俺を愛してくれる人なんて、いない」
平成の世に凪のような力を持った人間はほとんどいない。そして、理解者も……
「小野家はきっと、俺で終わるんだ」
哀しげな呟きは静かに大気に溶ける。そして凪自身もまた、夜に溶けて消えた。
こののち、彼が小夜子の言葉を思い出すのは、これから三年の月日を経てからの事となる。




