さようなら
高いビルの上から見下ろす下界は、華やかなネオンの光に包まれていた。空には漆黒の闇。月さえも厚い雲に覆われて、姿を現さない。或いは、下界の光にその輝きを奪われてしまったのかも知れない。
そんな光景を見ながら、ふっと笑みを漏らした。急に虚しくなったからだ。こんな光の渦に飲み込まれて、毎日毎日働いていたのだと思うと、滑稽としか言いようがなかった。
勤続32年。特別な地位を望んだ訳ではない。皆勤とまではいかないが、有給休暇も極力取らずにただ上の命令通りに仕事をこなしていた。秀でてはいなかったが、劣ってもいなかった。無難に生きてきた。筈だった。
所謂リストラ。突如突き付けられた現実。目の前が真っ暗になり、頭の中が真っ白になった。部長は申し訳なさそうに、自分の立場を理解してくれと、仕方が無かったのだと語った。
そんな事はどうでも良かった。
54歳の自分と、52歳の妻。24歳の息子に20歳の娘。18歳になったばかりの末娘。一家の大黒柱の醜態に、家族はどの様な反応を見せるだろうか。
ビルの縁に座り、足をだらりと下界へ垂らす。ぶらぶらと子供の様に足を揺らす。子守唄を微かに口ずさみながら、それに合わせて身体も揺らす。ゆらゆら、ゆらゆらと。
ふと、思い立った様にその場にスクッと立ち上がった。場所が高い所為か、身体に掛かる風圧が強い。それを受け止めるかの様に、両手を広げた。瞳を閉じる。脳裏に浮かぶのは、家族の顔。
既に就職した息子に全てを託すのは酷だろうか。最低の父親だろうか。
ふと、また笑みが溢れた。家族にすまないと思う反面、これで全ての苦痛から逃れられるという安堵感が込められていた。
ゆっくりと足を踏み出す。足が空を踏む。ふわりと身体が舞い上がる。
幾千の光の渦の中に、その身体は吸い込まれて行った。
──世界よ、さようなら。