すーぱぁお母さんとピクニック(2)
(4)
山の中を皆で歩いているうちに、僕はさっきの嫌な事はなんかはすっかり忘れてしまった。
雨上がりのハイキングコースはさわやかで、サンサンとした陽光が雨の名残をたたえた梢から漏れ落ち、ややぬかるんだ地面を照らしていた。
気温はちょっと低め。冷やりとした山の空気の肌触りは、ハイキングにはもってこいだった。どうしてこんな良い日に、皆やってこないんだろうね。
山道ではすれ違う人もなく、僕等の一行だけがぶらぶらとコースを登っているようだった。
だが、コースを歩いてるうちに、僕は妙な事に気付いた。何となく去年と違うんだ。それから、父さんの顔が妙に厳しくなってきた事だ。
「気が付いておるかの?」
しばらくすると、最後尾を歩いていたおじいちゃんが呟くように言った。
「ええ。ひどいもんですね。ここもそう長くはないでしょう」
父さんが応えた。
「そんなにひどいんですか? 見た目は別に変わりありませんけどね」
これは輝兄ちゃん。やっぱり何か『おかしい』らしい。何がおかしいのかまでは、僕にはよく解らないんだけれど……。
「ああ。……そうだな、このまま放っておけば、後、1〜2年で取り返しがつかなくなるだろうな」
父さんがそんな事を付け加えた。
「正確には、1年と125日に12時間17分。実際には投棄される量が更に増えるだろうから、380日ってとこねぇ。3ヶ月以内に手を打たないときの話だけどー」
クンッと鼻をひくつかせてから、お母さんが眠そうに応えた。『投棄』とかの言葉で、僕はなんとなく話の筋がぼんやりと見えてきたような気がした。
「ふむ。大分深刻じゃのう」
おじいちゃんの声は、いつもと違って少し低くなっていた。
「投棄場所は?」
続けて尋ねたおじいちゃんに対して、父さんとお母さんが同時にある方向を指差した。
輝兄ちゃんが軽く背伸びをして指差す方向を眺めると、
「ハイキングコースの近くですね」
と、言った。
「帰りに寄ってみるかのぉ。何がしか面白いものが見られるやも知れんぞ」
おじいちゃんは、目を細めながら呟くとクックックッと小さく笑っていた。
「帰りにちょっと寄り道をするが、構わんな」
父さんに真顔で言われて──実際のところ父さんが笑ったところは未だかつて見たことがないんだけど──僕は肯くだけだった。基本、僕と輝兄ちゃんには決定権がない。
だけど、一体、この山で何が起こってるっていうんだろう。
(5)
やや早足で歩いているため、昼前には目的の高原に着くはずだった。いや、実際には着いていたのだけれど、その景色は去年とはまるで違っていたために、最初、僕はそこが本当に目的地なのかどうか分からなかったんだ。
僕の目の前の”元”緑の原っぱは、一面に赤茶けた葉の草木で覆われていた。
ほとんどの木は赤茶けた葉をこびりつかせたまま立ち枯れており、所どころは赤黒い地面が剥き出しになっている。
「すごいなぁ」
輝兄ちゃんが呆気に取られたような声を出したけど、僕にはそれを責める気にはなれなかった。まさにその通りなのである。たった一年も経たないうちに、あの奇麗な原っぱがこんなんなるなんて。目の前に事実を突きつけられても、まだ信じられない。
一体、何があったっていうんだろう。
こんな異変、テレビや新聞で大々的に報道されてても不思議じゃない出来事の筈だ。いくら僕が小学生でも、テレビのニュースくらいは見てるよ。それで知らなかったんだから、誰も気がついてないか、気にしてないかのどちらかだろう。
「ちょっと見てみるか」
父さんが手近の木に近づくと、開いた掌を無造作に斜めに振りおろした。軽く撫でるようなその一動作で、直径20cmほどの木の幹は、父さんの胸の高さで滑らかな切り口を見せて切断された。
僕等は、その切断面に見入った。ただし、お母さんだけは、つまんなそうにそっぽを向いていたんだけれど。
「何だぁ、こりゃ」
輝兄ちゃんが素っ頓狂な声をあげた。確かにその通りだった。
枯れ木の中身は、スポンジ状にスカスカになっていた。のみならず、赤緑色の結晶体が内部にびっしりと析出していたのだ。
「これ、何だろう?」
僕が手を出そうとすると、
「止めとけ。この木のようになっちまうぞい」
と、おじいちゃんが止めたので、僕は慌てて手を引っ込めた。
「こ、これって、毒なの?」
僕が訊くと、
「御名答」
と、輝兄ちゃんが応えてくれた。
「木の中がこんなんなってるって事は、地面の中も汚染されてるって事だよね」
僕はさっきから父さん達が話していた事が何かを、やっと理解した。
「そうさなぁ、こんな事を長い間ほっといたら、この辺りだけじゃぁなく、麓の土地も水も、動植物もえらい影響を受けるじゃろうなぁ」
おじいちゃんが眼を細めながら呟いた。
「ま、しょうがないかのぉ。別の所も周ってみるかい?」
深刻な状態なのに、おじいちゃんは、どこか他人事のように父さんに話しかけた。
「そうですね。……あっちの方はどうです?」
僕等は父さんの指差す方を見た。その方向は、お母さんがぶらぶらと暇そうに歩いている場所だった。
(6)
そこは、さっきまでいた処と比べれば、緑が存在すると言う点ではるかに増しだった。
それでも、生えているのは明らかに人の手になると見える短い芝ばかりで、丈の高い草や灌木などは、全く見られなかった。
その上、芝も、短い葉の先端が赤茶色の変色していたり、葉っぱに勢いがなかったりしている。
「ここもか……」
父さんが呟くように言った。
「芝が植わってますね。誰かが手入れをしてるのかな? ゴルフ場にでもするんでしょうかね?」
輝兄ちゃんも、僕と同じ感想を持ったようだった。
「この分じゃ、折角植えたこの芝も、すぐに駄目になってしまうな」
父さんが、地面を見つめながら、そう呟いた。
「念のために、ここの土を採取しとこうかのぉ」
おじいちゃんが言うと、輝兄ちゃんは肯いてポケットから小さなガラス瓶を取り出すと、その場に屈んだ。
輝兄ちゃんが地面に触れようとした時、いきなり雷鳴のような声が辺りに鳴り響いた。
「おめぇらぁ、一体そこで何やってんだ!」
声のした方には、真っ赤なタコ……もとい、禿頭の男性が立っていた。老人と言うにはまだはばかられるが、壮年期はとっくの昔に置き去りにしたような、ようするに元気な爺さんだった。
悪いけど、まさしくゆでだこそっくり。毛の生えていない頭全体を真っ赤にしている。今にも、湯気を吹き出しそうな勢いだ。
「何やってんだ、おめぇら!」
もう一度、爺さん──彼は気を悪くするかも知れないけど便宜上そう呼んどく──は、怒鳴った。
「あ、あのう……、僕等のことですかぁ」
輝兄ちゃんが、少し情けない声で応えた。
「他に、誰がおるんじゃ。おめぇらに決まっとろうがっ」
「……は、はぁ」
「はぁ、じゃねえよ。このボケが」
爺さんは、呆気に取られる僕等を尻目に、ずかずかと近づいてきた。そして、輝兄ちゃんを指差すと、
「わしはなぁ、おめぇが何やってっかって、訊いてんだよぉ」
と、いきなり輝兄ちゃんに突っかかってきたのだ。
あまりの剣幕に、輝兄ちゃんはもうたじたじになっている。助けを求めるように、父さんやおじいちゃんの方を、ちらちら見ていた。
とは言うものの、父さんやおじいちゃんは素知らぬ顔を決め込んでいた。僕も知らん顔をしてそっぽを向いた。だって、父さん達が何も反応してないって事は、別に大した事ではない証拠だからだ。第一、爺さんがいたのに気がつかずに、不用意な事をした輝兄ちゃんの方が悪い。もっとも、爺さんに気がつかなかったのは、僕もおんなじなんだけどね。
「何してるって、……何もやってませんよぉ。僕等は、ただここへハイキングに来ただけですよぉ」
輝兄ちゃんは汗だくになりながら、必死に弁解している。さすがに、僕もちょっとかわいそうになってきた。
「ハイキングだぁ? おめぇら、『KN興産』のモンだろうが。嘘つくんじゃねぇ!」
爺さんは、物凄い剣幕で、僕等の知らないことを喋りだした。
「嘘なんかじゃありませんよぉ。その、何とか興業なんて知りませんよぉ。信じて下さいよぉ」
防戦一方の輝兄ちゃんは、情けない声を出していた。しかも、間違っている。
「輝兄ちゃん,何とか興業じゃなくって、KN興産だってばさ」
あまりに可哀想なので、僕はサポートにまわった。
「えっ? ああっと、そう。その、KL興産とは関係ないんですってば」
「輝兄ちゃん、輝兄ちゃん、KLじゃないよ。KN。KN興産だってば」
「えっ? えっ? ……あーと、そのですねぇ、……だから、人違いなんです」
な、情けない。こんなんで、大学通るんだろうか?
「……ふむ」
爺さんは,僕と輝兄ちゃんを交互に見やると、
「どうやら、わしの勘違いらしいのぉ……。いや、済まんかったな」
と言って、はげ頭をかいた。同時に、頭の色も赤から肌色に戻ってくる。変色の早さも本物のタコ並みだ。
「あなたが、ここを手入れしているんですね」
さっきまで知らん振りをしていた父さんが、いつの間にか傍に来ていた。
「何でそう思う」
爺さんは、じろりと父さんを睨むと、ぶっきらぼうに応えた。
「手を見れば解ります。それに、その格好。遊びに来ている人のものじゃない」
「ふむ……。そうかい、なるほどな」
父さんは、温和な態度で爺さんに話しかけていた。これを聞いて、爺さんは、まじめな顔になった。
今ので分かってもらえたのかな?
「確かにその通りだな。あのならず者達なら、こんなに頭がいい筈ないしなぁ」
爺さんは、父さんの観察力に納得しているように見えた。それから、今まで怒鳴っていた輝兄ちゃんの方をチラとみて、こんなことも言った。
「それに、こんな間抜けなお人好しもおらんだろう」
「は、ははは」
輝兄ちゃんが、苦笑して頭を掻いた。それ、褒められてないから。
「もっとも、そこまで考えて演技してるようなら、到底わしの手にはおえんだろうな」
爺さんは独り言のように呟くと、ころっと表情を変えた。
「いきなり怒鳴ったりして済まんかったなぁ。どうだい、お詫びといっちゃぁなんだが、茶でも飲んでかんか? ちょっと行ったとこに、わしの小屋があるんじゃ」
と、爺さんは僕達をお茶に誘ってくれた。
「どうします?」
輝兄ちゃんが父さん達に訊ねた。
「折角じゃから、ごちそうになろうかの。昼飯時でもあるし」
「そうですね。……おまえはどうする」
おじいちゃんも父さんも、お茶にお呼ばれすることに賛成のようだ。父さんが最後に言ったのは、お母さんに訊いたものだ。さっきも言ったが、基本的に僕と輝兄ちゃんには決定権が無い。
「あたし、パスぅー」
耳元のすぐ近くで、お母さんの声がした。それを聞いた爺さんが、驚いた風に辺りを見渡す。
「そうか……、わかった。じゃ行きましょうか」
「そうするかの」
こんな山の中じゃ、他人の迷惑になるようなことも出来ないだろうとふんだのか、父さんもおじいちゃんもあっさり折れてしまった。
当の本人は、300m位離れているゆるい斜面に寝そべって、バイバイをしていた。やっぱり、そこも荒れ果てていて、今にも枯れそうな芝が風に揺らいでいるのが、ここからでも見てとれた。爺さんはちょっと不思議そうにお母さんの方を見やると、
「あの辺も、本当は天然の花畑だったのになぁ……」
と、寂しそうに呟いた。
まぁ、このまま昼寝でもしてくれてれば、お母さんも問題は起こさないだろう、きっと。
お母さんをその場に残して、僕等一行は爺さんに連れられてその場を後にした。実は、これがとんでもなく甘い考えだった事が、後でわかるのだが……。