王女殿下の喉もとまで、あと指一本。暗殺者の短剣を止めたのは、婚約者に剣を取り上げられて刺繍針しか持っていなかったわたしでした
「女に剣の稽古など要らない」
夜明けの中庭で、アドルフ様はわたしの手から細剣をもぎ取った。
父の形見の剣だった。刃の幅が指一本ほどしかない、細い剣。オーベール伯爵家の当主が三代続けて振ってきたもので、柄に巻いた革は、父の手の形にすり減っている。
「婚約者が夜明けに庭で剣を振り回しているなんて、近衛の仲間に知れたら俺が笑いものになる。わかるだろう、マティルド」
アドルフ様は剣を鞘に戻して自分の腰の剣帯に差した。
「これは俺が預かっておく。君は刺繍でもしていればいい。来月、王女殿下の誕生祝いで、令嬢たちの刺繍の献上がある。そっちで恥をかかないようにしろ」
「……アドルフ様。それは父の」
「だから預かると言っているんだ。捨てやしないさ」
アドルフ様は大きな手でわたしの肩をぽんと叩いて、からからと笑った。近衛騎士らしい、よく通る笑い声。屋敷の窓のいくつかでカーテンが揺れた。使用人たちが聞いている。
わたしは空になった右手を見下ろした。
指がまだ柄の形に曲がったままだった。
ほどこうとしても、なかなかほどけなかった。
アドルフ様が帰ったあと、わたしは中庭の石のベンチに座ってしばらく動けなかった。
悔しい、と思った。
思ってからすぐに打ち消した。悔しがる資格なんてない。婚約者の言うことは、世間の言うことだ。伯爵令嬢が夜明けに剣を振る。誰が聞いても、おかしいのはわたしのほうだ。
それでも、右手の指は曲がったままだった。
朝食の席で、母はいつもより少しだけ機嫌がよかった。
「アドルフ様から聞いたわ。あの剣はあちらで預かってくださるそうね」
母は焼いた林檎にナイフを入れながら言った。銀のナイフが皿に当たって、ちん、と小さく鳴る。
「よかったじゃないの。これで、夜明けに中庭から妙な音がするたびに、目を覚まさなくて済むわ」
「……ご存じだったんですか」
「三年間、毎朝よ。気づかないわけがないでしょう」
母は林檎のひとかけを口に運んでゆっくり噛んだ。それから、ナプキンで口もとを押さえた。
「マティルド。あなたはもうすぐ侯爵家に嫁ぐの。お父さまの真似は、もうおしまいにしなさい。お父さまは剣が好きすぎたのよ。好きすぎて、家のことも、自分の体のことも、後回しにした」
母の声は怒っているようで少しだけ震えていた。
わたしはパンをちぎる手を止めた。
母は父の剣を憎んでいるのだと思っていた。でも、違うのかもしれない。父が剣を握るたびに、母はずっと、何かを怖がっていたのかもしれない。
「……はい、お母さま」
返事をしながら、テーブルの下で、右手の指をそっと握りこんだ。曲がったままの指が手のひらに食いこんだ。
オーベール伯爵家の長女、マティルド。十九歳。
父のベルトランは、王宮の近衛で二十年、剣術の師範を務めた人だった。
細剣を使わせたら、王国で父の右に出る者はいなかった。重い剣を正面から受けず、相手の手首だけを、針で布を刺す要領で突く。だから父の剣は近衛のあいだで「針の剣」と呼ばれていた。
「いいか、マティ。刃は受けるな。受ければ、力の強いほうが勝つ」
屋敷の中庭で、父はわたしに木の棒を持たせて何度もそう言った。
「手首を刺せ。人の手首の内側には、指を動かす筋が通っている。そこを突けば、どんな大男でも、剣を握っていられなくなる。殺さずに止められる。剣はな、人を殺すための道具じゃない。人を止めるための針だ」
五つの年から、わたしは父の稽古を見て育った。十の年から、父は娘のわたしにも、弟子たちと同じ稽古をつけてくれるようになった。
母は眉をひそめた。父は笑って取り合わなかった。
「この子の手首は、俺よりやわらかい。いい剣士になる」
三年前の冬、父は胸の病で亡くなった。
最期の夜、父は寝台の上から、壁に掛けた細剣を指さした。
「あれはおまえが持て。振らなくてもいい。ただ、手入れだけはしてやってくれ」
それから三年、わたしは毎晩、細剣に油を引いた。そして、母が寝静まった夜明け前に、こっそり中庭で振った。父の声を思い出しながら。
アドルフ様との婚約は、父が亡くなった翌年に、母が決めた。
ヴァルネー侯爵家の次男で近衛騎士。体が大きくて声が大きくてよく笑う人。母は剣ばかり振っている娘には、剣のわかる夫がいいと考えたらしかった。
婚約が決まった春、近衛の詰め所で余興の試合があった。わたしは父の弟子たちに頼まれて、木剣を持って一度だけ立った。
相手はアドルフ様だった。
三合目で、わたしの木剣が、アドルフ様の手首の内側を軽く打った。アドルフ様の木剣が、床に落ちた。
詰め所がしんと静まった。それから、弟子たちがわっと笑って手を叩いた。
アドルフ様も笑った。いつもの、からからという笑い声で。
でも、その日から、アドルフ様はわたしの前で、一度も剣の話をしなくなった。
ときどき、話の途中で、アドルフ様は右の手首を軽く振る。何かを払い落とすしぐさで。たぶん本人は気づいていない。わたしはそれを見るたびに、詰め所の床に落ちた木剣の音を思い出した。
あの人は怖いのだと思う。
婚約者に負けたことが。それを、仲間に笑われることが。だから、わたしから剣を取り上げた。
そう思うと、腹は立つのに、少しだけ胸が痛んだ。わたしが三合目で打たなければ、あの人はもう少し、やさしかったのだろうか。
それから、ひと月。
わたしは言われたとおりに刺繍をした。
王女殿下への献上の品は、白い絹の手巾にした。王家の紋の白い隼を、真ん中に一羽。翼を広げて、今にも飛び立とうとしているところを。
針を布に刺す。裏から抜く。返してまた刺す。
刺繍をしていると、手首が勝手に父の稽古を思い出した。
刺す、抜く、返す。足を半歩出して、突く、引く、構え直す。布の上の一針は中庭での一突きと同じ速さで、同じ角度で入っていく。
「お嬢さま、また針が速くなっていますよ」
侍女のミネットが、刺繍枠の横からのぞきこんで目を丸くした。
「隼の羽根が、本当に風を切っているみたいです」
わたしは返事をせずに、金糸用の長い針に、銀の糸を通した。指先から手首までの長さがある、太くて硬い針だ。隼の目はこの針で、銀の糸を何十回も重ねて刺す。
悔しさを、一針ずつ布に縫いこんでいく気がした。
剣は取り上げられた。でも、手首はまだ覚えている。針の剣の、刺す速さを。
献上の五日前の夜、ミネットが、エプロンの下に何か長いものを隠して部屋に入ってきた。
「お嬢さま、これ」
出てきたのは庭師の物置にあった、樫の枝を削った杖だった。長さも太さも、父の細剣にちょうど近い。
「中庭の奥の、生け垣の陰なら、奥さまのお部屋からは見えません。わたし、見張りをしますから」
ミネットは鼻の頭に汗を浮かべて早口に言った。十六の、おしゃべりな侍女だ。夜明けの稽古を、窓からこっそり見ていたのは知っていた。
「ありがとう、ミネット」
わたしは杖を受け取った。手のひらに、樫の木のざらりとした感触。握ると、指が勝手に、柄の位置を探しはじめる。
しばらくそうしてから、わたしは杖をミネットの手に返した。
「でも、いいの。約束したから」
「お嬢さま……」
「アドルフ様と、それからお母さまと。破ったら、二人とも、もっと怖がるわ」
ミネットは唇をとがらせた。何か言いかけて、やめて杖を胸に抱えて出ていった。扉が閉まる前に、小さな声で、もったいない、と言うのが聞こえた。
わたしは刺繍枠の前に戻った。
隼の翼の羽根を、一枚、また一枚。針が布を抜けるたびに、しゅっ、と絹のこすれる音がする。その音だけが夜の部屋に続いた。
献上の前の晩、隼の目に最後の一針を入れた。
銀の目が蝋燭の光を受けてきらりと光った。
わたしはその目を見つめて少しだけ笑った。父がいたら、きっと言う。いい突きだ、と。
王女殿下の誕生祝いの園遊会は、王宮の白薔薇の庭で開かれた。
芝生の上に白い天幕がいくつも張られ、楽師たちが木陰で竪琴を鳴らしている。庭の奥の一段高いところに、天蓋つきの椅子が置かれて、そこに今日で九つになられたロザモンド王女殿下が座っていた。
殿下は栗色の巻き毛に白い花冠をのせて、椅子の上で足をぶらぶらさせていた。退屈そうに。
庭には、白薔薇の甘い匂いが、むせるほど満ちていた。焼き菓子の天幕からは、バターと蜂蜜の焦げる匂い。楽師の竪琴の音が、風に乗って途切れ途切れに流れてくる。
そのすぐ横に、灰色の上着の男の人が立っていた。
エティエンヌ王弟殿下。
陛下の末の弟君で殿下の叔父上にあたる。三十になるかならないかの年だと聞いている。六年前の北の戦で右の手首に深い傷を負い、それ以来、剣を握っていない。今は剣のかわりに、王宮の書類の山と向き合っておられる、という噂だった。
灰色の王弟。宮廷ではそう呼ばれていた。いつも灰色の服を着て、言葉が少なく、どの派閥の夜会にも顔を出さない。
王弟殿下の右手には、薄い革の手袋がはめられていた。左手は殿下の椅子の背に、軽く置かれている。
献上の順番を待つ天幕の中で、令嬢たちが小声で噂していた。
「灰色の王弟殿下って、笑ったことがないんですって」
「剣が握れなくなって、気が沈んでいらっしゃるのよ。おかわいそうに」
わたしは膝の上の手巾の包みを握った。剣が握れなくなる。それがどういうことか、ひと月前から、ほんの少しだけわかる気がした。
天幕の入り口から、近衛の青い制服が見えた。
アドルフ様だ。今日は王女殿下の護衛の当番で、庭の奥の段の下に立っている。
でも、アドルフ様の顔は、段の上の殿下ではなく、天幕の前に集まった令嬢たちのほうを向いていた。
「やあ、マティルド。刺繍はできたか」
アドルフ様はわたしを見つけると、大股で近づいてきた。腰には、自分の剣と並んで父の細剣が差してあった。
「……はい」
「どれ、見せてみろ」
アドルフ様はわたしの膝から包みを取り上げてぱらりと開いた。銀の目の隼が陽の光の中に現れた。
まわりの令嬢たちが、まあ、と声をそろえた。
アドルフ様は少しだけ眉を寄せて隼を眺めた。それから、包みを閉じてわたしの膝に戻した。
「まあ、いいだろう。女の針で何ができるかと思ったが、刺繍なら恥はかかない。剣よりよほど似合ってるぞ」
アドルフ様は令嬢たちに片目をつぶってみせた。令嬢たちがくすくすと笑った。
わたしは笑わなかった。笑えなかった。
アドルフ様の腰で父の剣の柄が揺れていた。すり減った革の、父の手の形。
その向こう、庭の奥の段の上で、灰色の上着の人が、こちらを見ていた気がした。
令嬢たちの献上が始まった。
名を呼ばれた順に段を上り、王女殿下の前に膝をついて、刺繍の品を差し出す。殿下は一つずつ受け取って、ありがとう、と言う。九つの子供にしては、行儀がよかった。でも、七人目あたりから、殿下のありがとうは、少しずつ短くなっていった。
十人目の令嬢が段を下りたところで、殿下は椅子の背にもたれて大きなあくびをした。
「ロザモンド」
王弟殿下が前を向いたまま、低い声で呼んだ。
「だって叔父さま。みんな、隼なんだもの。金の目の隼がもう十羽よ。わたくしの部屋、隼だらけになっちゃう」
「十一羽目と十二羽目が待っている。せめて口を閉じてあくびをしなさい」
「口を閉じたら、あくびにならないわ」
「なる。私は毎日、評議会でそうしている」
殿下がぷっと吹き出した。まわりの侍女たちが、慌てて扇で口もとを隠す。灰色の王弟殿下は、相変わらず前を向いたまま、眉一つ動かしていなかった。
笑ったことがない、という噂は、少しだけ違うのかもしれない、と思った。笑わせるほうが得意なのだ。
わたしは最後の十二人目だった。
段を上り、殿下の前に膝をついた。包みを開いて、手巾を両手で差し出した。
殿下の足のぶらぶらが、止まった。
「……隼」
殿下は手巾を受け取って膝の上に広げた。それから、銀の目を小さな指でそっとなぞった。
「ねえ、どうして目が金色じゃないの? ほかのみんなの隼は、金の目だったわ」
「隼は、獲物を見つけた瞬間、目が冷たく光るんです。金ではなくて銀に」
わたしは殿下の目を見て答えた。
「父が教えてくれました。いちばん鋭いものは、いちばん静かな色をしている、と」
殿下は手巾から顔を上げた。それから、ぱっと目を輝かせた。
「わたくし、これがいちばん好き。あなた、お名前は?」
「オーベール伯爵家の、マティルドと申します」
「オーベール」
殿下の横で低い声がした。
王弟殿下だった。灰色の目がわたしの顔の上で止まっていた。何か言いかけて唇が動いた。
そのときだった。
段の下から、竪琴を抱えた楽師が一人、花籠を捧げて上がってきた。祝いの花を殿下に、と、先導の侍従が告げた。
楽師は殿下の前で膝をついた。花籠を差し出した。白い薔薇が山のように盛ってある。
わたしはその楽師の手首を見ていた。
父の稽古の癖だった。人の手首を見る。指を動かす筋が張っているか、ゆるんでいるか。
楽師の右の手首の筋が、ぴんと張っていた。
花籠を持つ手ではない。竪琴の胴に、そっと添えている右手の、手首の筋が。
竪琴の胴の板がほんの少し浮いている。
楽師の右手が胴の中に滑りこんだ。
引き抜かれた手に、短剣が光っていた。
時間がのろくなった。
短剣の切っ先がまっすぐ殿下の喉もとへ伸びていく。
段の下で、アドルフ様が振り返るのが見えた。令嬢たちのほうを向いていた顔を、やっとこちらへ。剣の柄に手をかけて、でも、まだ抜いていない。遠い。段の下から、五メートル。
王弟殿下が殿下の椅子の前に体を投げ出した。左腕で殿下を抱えこもうとして、右手が、手袋の中で空を握った。剣のない、握れない右手が。
間に合わない。
右の袖の縫い代に、ゆうべ最後の一針を入れたあと差しておいた、金糸用の長い針がある。銀の糸を通したままの針。
指先がもうそれを抜いていた。
――刃は受けるな。手首を刺せ。
考えるより先に、足が半歩、前に出ていた。
ひと月、刺繍枠の上で、毎晩同じ角度で、同じ速さで、何千回も刺してきた。
突いた。
針の先が楽師の右の手首の内側に、まっすぐ入った。
布を刺すのと、同じ手ごたえだった。
楽師の指がぱっと開いた。短剣が殿下の白い花冠の前で指の間からこぼれ落ちた。
殿下の喉もとまであと指一本のところだった。
わたしは落ちた短剣を、靴の先で段の下へ蹴り飛ばした。楽師が左手で、わたしの髪をつかもうとした。その腕を、王弟殿下の左手がつかんで段の上にねじ伏せた。
竪琴が段から転げ落ちて、弦が一度に、びいん、と鳴った。
庭じゅうの音がそこで止まった。
近衛たちがやっと段を駆け上がってきた。
楽師は何人もの近衛に押さえこまれて引きずられていった。あとで聞いた話では、北の戦の残党が、和平に反対して王家の子を狙ったのだという。
わたしは段の上に座りこんでいた。
気がつくと、小さな手が、わたしの袖をつかんでいた。
ロザモンド殿下だった。王弟殿下の腕から抜け出して、わたしの横にしゃがみこんでいる。白い花冠が片方にずり落ちて唇が真っ白になっていた。
「……こわかった」
殿下の手が袖の上でかたかたと震えていた。九つの子供の手だった。
わたしは針を持っていないほうの左手で殿下の手をそっと包んだ。冷たかった。
「わたしも、こわかったです」
「あなたも?」
「はい。今も、膝が笑っています」
殿下はわたしの膝を見下ろした。ドレスの上からでもわかるほど、がくがくと揺れている。殿下の唇の端がほんの少しだけゆるんだ。
「……ほんとだ」
殿下はわたしの袖を握ったまま、離さなかった。
手が震えていた。針を握ったままの右手が。銀の糸が針の穴から長く垂れて指に絡まっていた。
人を、刺した。
父の稽古では木の棒だった。中庭の夜明けでは、空気だった。
今日、初めて、生きている人の手首を刺した。
怖い、と思った。今になって、膝の力が、すうっと抜けていった。
「マティルド!」
アドルフ様が段を駆け上がってきた。顔が真っ赤だった。
「何をしている! 女が出しゃばるな! ここは近衛の仕事だ。下がっていろ!」
アドルフ様は座りこんだわたしの腕をつかんで引き起こそうとした。
「あなたは」
小さな声がした。
ロザモンド殿下だった。わたしの袖をつかんだまま、白い花冠を傾けて、アドルフ様を見上げていた。
「あなたは、ずっと、あっちのお嬢さんたちとお話ししていたわ。わたくし、見ていたもの。花籠の人が上がってきたときも、あなたは、あっちを向いて笑っていた」
アドルフ様の手がわたしの腕から離れた。
「で、殿下、それは……」
「女の針で何ができる、と言ったそうだな」
王弟殿下が低い声で言った。楽師を近衛に引き渡して、段の上に立ち上がっていた。
「天幕の前で、令嬢たちに聞かせていたと、侍女が言っている。王女の護衛の当番の時間にな」
灰色の目がアドルフ様の腰の剣帯に落ちた。自分の剣と、父の細剣が、並んで差してある。
「では訊くが、ヴァルネー。近衛の剣で、今日、何ができた。二本も差していて、一本も抜けなかったが」
アドルフ様は口を開いた。何も出てこなかった。
庭じゅうの貴族たちが、アドルフ様を見ていた。誰も、何も言わなかった。からからという笑い声は、どこからも聞こえなかった。
「その細剣は、オーベール師範の剣だな。返してやれ」
アドルフ様の手がのろのろと剣帯に伸びた。父の細剣を外してわたしの前に差し出した。
わたしは震える両手でそれを受け取った。
すり減った革の柄。父の手の形。
ひと月ぶりの重さが、手のひらにのった途端、目の奥がじわりと熱くなった。
その夜、王宮の客間に泊まるように言われた。
眠れなかった。目をつぶると、楽師の手首に針が入る手ごたえが、指の先によみがえった。
布とは違った。布は刺しても声を上げない。あの楽師は針が入った瞬間、喉の奥で短く呻いた。その声が耳の奥にこびりついて離れない。
あの人はもう二度と竪琴を弾けないかもしれない。
王女殿下を守った。それは間違いない。それなのに、胸の真ん中に、冷たい石がひとつ、沈んでいる。
窓辺の椅子に座って父の細剣を膝にのせていた。柄の革を、親指で何度もなぞった。
扉が小さく叩かれた。
「起きているか」
王弟殿下の声だった。
扉を開けると、殿下が、燭台を左手に持って立っていた。灰色の上着を脱いで、白いシャツ一枚になっていた。
「眠れないだろうと思った。私も、初めて人を斬った夜は眠れなかった」
「……殿下」
「入ってもいいか。扉は開けておく」
殿下は扉を開け放したまま部屋に入って、わたしの向かいの椅子に腰を下ろした。燭台を、小卓の上に置いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
蝋燭の火が殿下の右手の手袋を照らしていた。
「今日、私は殿下を守れなかった」
殿下が言った。
「体を投げ出すことしかできなかった。右手が剣を探して空を握った。六年たっても、まだ探す。笑えるだろう」
「笑いません」
わたしは膝の上の細剣を握った。
「わたしも、ひと月、毎朝、空っぽの手で柄を探していました」
殿下がわたしを見た。
それから、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
「九年前にも、そうやって、にこりともせずに言い返された」
「……九年前?」
「オーベール師範の屋敷の中庭だ。私は二十一で、身分を隠して、師範に稽古をつけてもらっていた。エティと名乗って」
エティ。
覚えている。父の弟子の中で、いちばん無口で、いちばん稽古に遅くまで残っていた、灰色の目の若い人。
「ある日、稽古のあとで、十歳くらいの女の子が、物干し竿を持って私の前に立った。父さまの弟子なら、わたしと勝負してと言って」
殿下は左手で、自分の右の手首をそっと押さえた。
「三合目で、竿の先が、私の手首の内側を突いた。木剣が落ちた。その子は、刃は受けるな、手首を刺せ、と父親そっくりの口調で言って、得意そうに竿を担いで帰っていった」
わたしは両手で口を覆った。
思い出した。洗濯物を取りこむ竿を、母に叱られるまで振り回していた夏。
「今日、花籠の楽師の手首に、あの子と同じ角度で針が入るのを見た」
殿下の声が少しだけかすれた。
「九年ぶりだった。私の手首を突いた女の子に、もう一度会えたのは」
胸の奥の石が少しだけ動いた。動いて、喉までせり上がってきた。
「殿下。あの楽師はもう竪琴を弾けないのでしょうか」
言ってしまってから自分でも驚いた。王女殿下を殺そうとした人のことを、わたしは心配している。
殿下はすぐには答えなかった。蝋燭の火が二人のあいだでゆらりと揺れた。
「宮廷医が診た。筋は切れていない。針の穴が開いただけだ。ひと月もすれば、指は元どおりに動く」
殿下は左手で自分の右の手首を押さえたまま、続けた。
「私の手首は、北の戦で敵の大剣に斬られた。だから、もう戻らない。あなたの針は斬らなかった。刺して止めただけだ。オーベール師範の剣は、殺さずに止める剣だった。あなたは今日、そのとおりにした」
わたしは膝の上の細剣を握りしめた。
剣は人を殺すための道具じゃない。人を止めるための針だ。
父の声がずっと遠くから聞こえた。
目の奥から、熱いものが一度にあふれた。わたしは細剣を抱いたまま、声を殺して泣いた。殿下は何も言わずに、開け放した扉のほうを向いて、わたしが泣きやむまでそこに座っていた。
十日後、オーベール伯爵家に、王家の使いが来た。
アドルフ様は近衛を解かれ、ヴァルネー侯爵家の領地の砦に送られることになった。わたしとの婚約は、侯爵家のほうから解きたいと申し出があった。母は使いの前では黙って頭を下げた。使いが帰ったあとで、居間の長椅子に座りこんで、しばらく顔を両手で覆っていた。
「……お父さまが、あなたに剣を握らせてくれたのね。亡くなったあとまで」
母は父の話をするとき、いつも少し怒ったような声になる。
「お父さまは、いつも言っていたわ。この子の手首は俺よりやわらかいって。わたしはそれが怖かったの。あなたがいつか誰かに怪我をさせるんじゃないかって」
「お母さま」
「でも、あなたは王女殿下をお守りした。お父さまの言ったとおりだった」
母は手を伸ばして、わたしの右手の指を、一本ずつほどくように撫でた。
使いはもう一つ、包みを置いていった。ロザモンド殿下からの手紙だった。
封を開けると、子供の大きな字で三行だけ書いてあった。
マティルドへ。あの隼はわたくしの寝台の上にかざりました。夜、こわい夢を見たら、銀の目を見ます。そうすると、ねむれます。
手紙の下の余白に、羽根を広げた鳥の絵が描いてあった。目のところだけ、銀色の絵の具が、ぐるぐると何重にも塗ってあった。
わたしは手紙を胸に押し当ててしばらく動けなかった。
昼すぎに、もう一人、客が来た。
アドルフ様だった。近衛の青い制服ではなく、旅装の茶色い外套を着ていた。明日の朝、北の砦へ発つのだという。
門の前で、アドルフ様は、屋敷に入ろうとしなかった。
「……一つだけ、言っておきたくてな」
いつもの大きな声ではなかった。からからという笑いも、なかった。
「あの春の試合のあと、仲間に言われたんだ。婚約者に手首を打たれた近衛なんて、聞いたことがない、って。笑いながらな。俺も笑った。笑うしかなかった」
アドルフ様は右の手首を、軽く振った。
「それから、君が剣を持っているのを見るたびに、手首がうずいた。だから取り上げた。君のためだなんて嘘だ。俺が怖かったんだ」
わたしは門の格子越しに、アドルフ様を見ていた。
腹が立つと思っていた。会ったら、きっと何か言い返すと思っていた。
でも、出てきたのは別の言葉だった。
「アドルフ様。砦では手首を振るのはやめたほうがいいです。剣を持つ前に、相手に癖を読まれます」
アドルフ様は目を丸くした。それから、ずいぶん久しぶりに、小さく笑った。からからではなく、喉の奥で、くっ、と。
「……最後まで師範の娘だな」
アドルフ様は外套の襟を立てて、門の外につないだ馬にまたがった。石畳を打つ蹄の音が、通りの角を曲がって遠ざかっていった。
その日の夕方、エティエンヌ王弟殿下が、屋敷の中庭に来た。
灰色の上着に、右手には、いつもの革の手袋。左手に、細長い布の包みを提げていた。
「師範の中庭は、九年前と変わらない」
殿下は石のベンチと、古い物干し台を見て目を細めた。
「一本、お願いしたい」
殿下は布の包みを解いた。中から出てきたのは、稽古用の細い木剣が二本だった。
「殿下、でも、右手は」
「右は握れない。だから左で持つ。六年、左で書類に署名してきた。木剣くらいは持てる」
わたしは木剣を一本受け取った。
殿下はもう一本を左手に持って中庭の真ん中に立った。構えは父の弟子のものだった。九年たっても、少しも崩れていない。
わたしも構えた。
夕方の風が物干し台の白い布を揺らした。
「始め」
殿下の声と同時に、わたしは踏みこんだ。
一合。二合。
殿下の木剣は左手なのに、驚くほど速かった。
三合目で、わたしの木剣の先が、殿下の左の手首の内側に、そっと触れた。
殿下の指がゆるんだ。
でも、木剣は落ちなかった。
殿下は木剣を、自分の手でくるりと持ちかえた。刃のほうを自分の胸に向けて、柄をわたしのほうへ差し出した。
そして、芝生の上に片膝をついた。
わたしは息を止めた。
父の稽古場の決まりだった。試合のあとで、相手に柄を差し出すのはただの負けではない。
この命を、あなたに預ける、という意味だ。
「マティルド・オーベール」
殿下は柄を差し出したまま、わたしを見上げた。
「九年前、物干し竿で手首を突かれてから、私の剣は、あなたに負けたままだ。この先も、ずっと負けていたい。王女の手巾に銀の目の隼を縫う人の隣で」
殿下の左手がほんの少し、震えていた。
剣を握れない右手のかわりに、六年、書類に署名してきた左手が。
わたしは木剣を足もとに置いた。
それから、差し出された柄を、両手で握った。殿下の指ごと。
「……一本、いただきます」
殿下の指が柄の下でわたしの指を握り返した。
握れないはずの右手が、手袋の中で、わたしの手の甲に、そっと重なった。
(完)




