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【短編057】 夢の底:安全な国に生きながら、毎晩別の場所で死ぬ夢を見る男の話。

掲載日:2026/10/27

眠るたびに、どこかで死にかける。

目が覚めると、日本だった。

平和ボケと呼ばれる国と、生きるのに必死な国。

その間を、一人の男が毎晩往き来する短編です。

 今朝も、死にかけた。


 目が覚めると、シーツが湿っていた。

 窓の外では、隣家の子どもが自転車を漕いでいた。

 転んだ。泣いた。また乗った。


 勇樹は天井を見たまま、心拍が戻るのを待った。


---


 夢の中では、名前が違う。

 どこかの国の、何かの言葉で呼ばれている。

 目が覚めると、思い出せない。


 その国には季節がない。

 正確には、暑いか、もっと暑いかのどちらかだ。

 焼けた土と、何かが腐る匂いが、いつもそこにある。

 水は足りない。

 食べ物は足りない。

 弾は足りている。


 毎回、少しずつ違う。

 市場で母親と歩いているところを撃たれる夢。

 穴の中に三日間隠れている夢。

 橋を渡ろうとして途中で橋が消える夢。

 でも最後はいつも同じだ。

 暗くなる。

 名前を呼ばれる直前で、目が覚める。


---


 会社まで、自転車で二十分かかる。


 川沿いの道を走る。

 桜はもう散っていたが、新緑が水面に映っていた。

 釣りをしている老人がいた。

 犬を連れた女がいた。

 ジョギングをしている男がいた。

 橋の手前に、毛布が一枚、丸めて置いてあった。濡れていた。

 勇樹は前を向いた。


 誰も急いでいなかった。


 勇樹は信号で止まった。

 青になっても、すぐに発進しなかった。

 後ろから、チリン、と自転車のベルが鳴った。


 すみません、と言って、ペダルを踏んだ。


---


 昼休み、コンビニで弁当を買う。

 「温めますか」と聞かれる。

 「はい」と答える。

 「ポイントカードはお持ちですか」と聞かれる。

 「ないです」と答える。

 「お箸はおつけしますか」と聞かれる。


 三つ聞かれる。

 毎回、三つ聞かれる。

 怒鳴られることも、急かされることも、物を取られることもない。


 勇樹はお釣りを受け取った。

 四百円以上の小銭だった。

 財布に入れた。


 夢の中では、硬貨を一枚持っているだけで人に殴られる。


---


 同僚の村上が声をかけてきた。


「勇樹くん、最近顔色悪いよ。ちゃんと寝てる?」


「寝てます」


「でも眠れてないって顔してる」


 正確だった。


「ちょっと夢を見すぎて」


「どんな夢?」


 どんな夢、と聞かれた。

 勇樹は少し考えた。


「怖い夢です」


「俺も最近見るわ。歯が全部抜ける夢」


 村上は笑った。

 勇樹も笑った。


 昼休みが終わると、村上は席に戻った。

 勇樹も戻った。

 同じ部屋にいるのに、そこから先はそれぞれの静けさだった。


---


 夕方、川沿いを歩いた。


 ハルがいた。

 白い猫だった。

 正確には、白に近い薄灰色で、耳の内側だけうっすらピンクだった。

 土手の草の上に座って、川を見ていた。


 勇樹も座った。

 川を見た。


 ハルは勇樹を見なかった。

 川だけを見ていた。


 水面に、夕日が溶けていた。

 橙色が、水の動きで細かく揺れていた。


 きれいだと思った。

 きれいだ、ということに、少し驚いた。

 夢の中の川は、いつも茶色い。

 飲めるかどうかを、まず考える色をしている。


「ハル」


 声に出してみた。

 猫は振り向かなかった。

 耳だけが、少し動いた。


---


 夢が始まった最初の夜のことを、勇樹は覚えていない。

 気づいたら見ていた。

 中学生の頃だったかもしれない。

 高校生になっても見た。

 大学を出ても、就職しても、見た。


 精神科に行ったことがある。

 薬をもらった。

 薬を飲んでも夢を見た。

 夢の中では薬は効かない。


 誰かが助けてくれることも、ない。

 夢の中では、誰も他人のために動かない。

 動けない、というのが正確かもしれない。

 みんな、自分が死なないことで精いっぱいだから。


---


 ニュースをつけると、どこかの国の話をしていた。


 空爆。

 避難民。

 子どもの数。


 アナウンサーが落ち着いた声で読み上げた。

 次のニュースは、プロ野球の結果だった。


 勇樹はテレビを消した。


 静かだった。

 冷蔵庫の音がした。

 外で、誰かが笑った。


 勇樹は台所に立って、湯を沸かした。

 ティーバッグをひとつ、マグカップに入れた。

 お茶が少しずつ、濃くなった。


---


 窓を開けると、夜風が入ってきた。


 ハルが窓枠に座っていた。

 どこから来たのか、わからない。

 でも、そこにいた。


 勇樹はマグカップを両手で持ったまま、ハルを見た。

 ハルは外を見ていた。

 夜の空気を、何かを測るように嗅いだ。

 それから、目を細めた。


 危険を感じているのか、何も感じていないのか、わからなかった。


 猫には聞けない。


 聞けたとしても、答えはないかもしれない。


 ただそこにいるだけで、何もしない。

 怯えなくていい夜が、毎晩ある。


 なぜ自分がここにいるのか、わからない。

 夢の中の自分が、どうしてそこにいるのかも、わからない。


 ただ、眠ると向こうへ行く。

 目が覚めると、ここにいる。


---


 お茶を飲み終えた。


 ハルはまだ窓枠にいた。

 動く気配がなかった。


 勇樹は布団に入った。

 電気を消した。


 暗い天井を見た。

 眠りたくなかった。

 でも、眠らないわけにはいかなかった。


 村上の顔が、少しだけ浮かんだ。

 怖い夢、と言った時の、あの笑い方。

 それだけだった。


 目を閉じた。


 ハルが、窓枠からそっと降りる気配がした。

 布団の端に、小さな重みがかかった。

 ハルはいつも、夢が始まる前に来る。


 勇樹は動かなかった。

 ハルも動かなかった。


 しばらくして、外でまた誰かが笑った。

 遠くで、救急車の音がした。

 すぐ遠くなった。

 朝の毛布のことを、一瞬だけ思った。


 どこかで誰かが助けられる夜。


 勇樹の目が、ゆっくりと閉じていった。


---


 今夜も、どこかへ行くだろう。


 戻れるかどうかは、目が覚めるまでわからない。

 向こうでは、誰かがもうすぐ声を上げる。

 目が覚めた時にここにいることを、この国では「当たり前」と呼ぶ。


 ハルの重みが、足元にあった。

 温かかった。


 それだけが、今夜と夢の中との違いだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

なぜ夢を見るのか、説明しないまま終わる話です。

答えは書きませんでした。読んでくださった方の中に、何かが残れば十分です。

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