【短編057】 夢の底:安全な国に生きながら、毎晩別の場所で死ぬ夢を見る男の話。
眠るたびに、どこかで死にかける。
目が覚めると、日本だった。
平和ボケと呼ばれる国と、生きるのに必死な国。
その間を、一人の男が毎晩往き来する短編です。
今朝も、死にかけた。
目が覚めると、シーツが湿っていた。
窓の外では、隣家の子どもが自転車を漕いでいた。
転んだ。泣いた。また乗った。
勇樹は天井を見たまま、心拍が戻るのを待った。
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夢の中では、名前が違う。
どこかの国の、何かの言葉で呼ばれている。
目が覚めると、思い出せない。
その国には季節がない。
正確には、暑いか、もっと暑いかのどちらかだ。
焼けた土と、何かが腐る匂いが、いつもそこにある。
水は足りない。
食べ物は足りない。
弾は足りている。
毎回、少しずつ違う。
市場で母親と歩いているところを撃たれる夢。
穴の中に三日間隠れている夢。
橋を渡ろうとして途中で橋が消える夢。
でも最後はいつも同じだ。
暗くなる。
名前を呼ばれる直前で、目が覚める。
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会社まで、自転車で二十分かかる。
川沿いの道を走る。
桜はもう散っていたが、新緑が水面に映っていた。
釣りをしている老人がいた。
犬を連れた女がいた。
ジョギングをしている男がいた。
橋の手前に、毛布が一枚、丸めて置いてあった。濡れていた。
勇樹は前を向いた。
誰も急いでいなかった。
勇樹は信号で止まった。
青になっても、すぐに発進しなかった。
後ろから、チリン、と自転車のベルが鳴った。
すみません、と言って、ペダルを踏んだ。
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昼休み、コンビニで弁当を買う。
「温めますか」と聞かれる。
「はい」と答える。
「ポイントカードはお持ちですか」と聞かれる。
「ないです」と答える。
「お箸はおつけしますか」と聞かれる。
三つ聞かれる。
毎回、三つ聞かれる。
怒鳴られることも、急かされることも、物を取られることもない。
勇樹はお釣りを受け取った。
四百円以上の小銭だった。
財布に入れた。
夢の中では、硬貨を一枚持っているだけで人に殴られる。
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同僚の村上が声をかけてきた。
「勇樹くん、最近顔色悪いよ。ちゃんと寝てる?」
「寝てます」
「でも眠れてないって顔してる」
正確だった。
「ちょっと夢を見すぎて」
「どんな夢?」
どんな夢、と聞かれた。
勇樹は少し考えた。
「怖い夢です」
「俺も最近見るわ。歯が全部抜ける夢」
村上は笑った。
勇樹も笑った。
昼休みが終わると、村上は席に戻った。
勇樹も戻った。
同じ部屋にいるのに、そこから先はそれぞれの静けさだった。
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夕方、川沿いを歩いた。
ハルがいた。
白い猫だった。
正確には、白に近い薄灰色で、耳の内側だけうっすらピンクだった。
土手の草の上に座って、川を見ていた。
勇樹も座った。
川を見た。
ハルは勇樹を見なかった。
川だけを見ていた。
水面に、夕日が溶けていた。
橙色が、水の動きで細かく揺れていた。
きれいだと思った。
きれいだ、ということに、少し驚いた。
夢の中の川は、いつも茶色い。
飲めるかどうかを、まず考える色をしている。
「ハル」
声に出してみた。
猫は振り向かなかった。
耳だけが、少し動いた。
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夢が始まった最初の夜のことを、勇樹は覚えていない。
気づいたら見ていた。
中学生の頃だったかもしれない。
高校生になっても見た。
大学を出ても、就職しても、見た。
精神科に行ったことがある。
薬をもらった。
薬を飲んでも夢を見た。
夢の中では薬は効かない。
誰かが助けてくれることも、ない。
夢の中では、誰も他人のために動かない。
動けない、というのが正確かもしれない。
みんな、自分が死なないことで精いっぱいだから。
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ニュースをつけると、どこかの国の話をしていた。
空爆。
避難民。
子どもの数。
アナウンサーが落ち着いた声で読み上げた。
次のニュースは、プロ野球の結果だった。
勇樹はテレビを消した。
静かだった。
冷蔵庫の音がした。
外で、誰かが笑った。
勇樹は台所に立って、湯を沸かした。
ティーバッグをひとつ、マグカップに入れた。
お茶が少しずつ、濃くなった。
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窓を開けると、夜風が入ってきた。
ハルが窓枠に座っていた。
どこから来たのか、わからない。
でも、そこにいた。
勇樹はマグカップを両手で持ったまま、ハルを見た。
ハルは外を見ていた。
夜の空気を、何かを測るように嗅いだ。
それから、目を細めた。
危険を感じているのか、何も感じていないのか、わからなかった。
猫には聞けない。
聞けたとしても、答えはないかもしれない。
ただそこにいるだけで、何もしない。
怯えなくていい夜が、毎晩ある。
なぜ自分がここにいるのか、わからない。
夢の中の自分が、どうしてそこにいるのかも、わからない。
ただ、眠ると向こうへ行く。
目が覚めると、ここにいる。
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お茶を飲み終えた。
ハルはまだ窓枠にいた。
動く気配がなかった。
勇樹は布団に入った。
電気を消した。
暗い天井を見た。
眠りたくなかった。
でも、眠らないわけにはいかなかった。
村上の顔が、少しだけ浮かんだ。
怖い夢、と言った時の、あの笑い方。
それだけだった。
目を閉じた。
ハルが、窓枠からそっと降りる気配がした。
布団の端に、小さな重みがかかった。
ハルはいつも、夢が始まる前に来る。
勇樹は動かなかった。
ハルも動かなかった。
しばらくして、外でまた誰かが笑った。
遠くで、救急車の音がした。
すぐ遠くなった。
朝の毛布のことを、一瞬だけ思った。
どこかで誰かが助けられる夜。
勇樹の目が、ゆっくりと閉じていった。
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今夜も、どこかへ行くだろう。
戻れるかどうかは、目が覚めるまでわからない。
向こうでは、誰かがもうすぐ声を上げる。
目が覚めた時にここにいることを、この国では「当たり前」と呼ぶ。
ハルの重みが、足元にあった。
温かかった。
それだけが、今夜と夢の中との違いだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
なぜ夢を見るのか、説明しないまま終わる話です。
答えは書きませんでした。読んでくださった方の中に、何かが残れば十分です。




