『封印の狂想曲(カプリチオ)』
丘の上の観測小屋には、抽出を終えた珈琲の深い苦みと、乾燥させた植物標本の埃っぽい匂いが満ちていた。
机の中央には、真鍮の鏡筒を鈍く光らせる顕微鏡。老植物学者のアルヴィンは、指先の節くれだった皮膚を微動だにさせず、微動ハンドルをミリ単位で回していた。
「先生、珈琲が入りましたよ。冷めないうちにどうぞ」
助手のトーマスが、白い陶器のマグカップを卓の端に置いた。
アルヴィンは返事をせず、ただ右目を接眼レンズに押し当てたまま、低く呟いた。
「トーマス、少しここを覗いてみなさい」
「また切片ですか?」
苦笑しながらトーマスが身を屈め、レンズの冷たい縁に目を当てる。
視野の中に広がっていたのは、緑の粒子が崩れ、細胞の輪郭だけが残された半透明の小宇宙だった。葉柄の断面、その枝との境目に、ぎっしりと緻密に積み上げられたレンガのような細胞列が見える。
「この壁の層……コルク化が進んでいますね。離層ですか」
「そうだ。葉と枝を切り離すための、冷たい防壁だよ」
アルヴィンは椅子をきしませて立ち上がり、湯気を立てる珈琲を受け取った。カップの温もりを手の中で確かめながら、視線を南向きの大きな窓へと投げる。
窓の向こうには、北米ニューイングランドの山並みが広がっていた。
白樺の純白の幹を彩るレモン色の帯、アメリカブナの深い琥珀色、そして砂糖楓が山肌全体を覆い尽くす、燃え盛るような緋色。澄み切った秋空のコバルトブルーを背に、世界は目も綾な極彩色に染まり切っていた。麓の街道には、その年一度の景観を一目見ようと、大都市から押し寄せた車列が陽炎のようにうねっている。
「観光客たちは、あれを『秋の祝祭』だと信じて疑わない」
アルヴィンが、窓硝子に息を白く曇らせながら言った。
「かつてこの地にいた先住民族の猟師たちが、天上の大熊を射止めた血が木々を染めたと語り継いだようにな。人間はいつの時代も、あのまばゆい色に甘い物語を貼り付けたがる」
「違うのですか? 厳しい冬を迎える前の、木々の誇り高い装いのように見えますが」
トーマスが尋ねると、アルヴィンは小さく首を横に振った。
「誇りどころか、あれは木が生き延びるために下した、無慈悲なまでの**切断の儀式**だよ」
老学者は机の端に転がっていた、採集したばかりの楓の小枝を取り上げた。赤く色づいた葉が数枚、頼りなげにぶら下がっている。
「夏の間、この葉は膨大な水を吸い上げ、陽の光と空気から甘い糖を練り上げる多忙な工場だった。だが、冬が近づけば大地は凍結する。根から水分は一滴も上がってこなくなるのだよ。そんなときに葉を開いたままにしていれば、乾いた冬の風にすべての水分を奪われ、木そのものが春を待たずに干からびて死ぬ」
アルヴィンは小枝をトーマスの目の前に差し出し、葉柄の付け根を指先で軽く弾いた。
それだけで、一枚の赤い葉が音もなく卓上へこぼれ落ちる。
「だから木は、自らの手で工場を閉鎖する。水と糖の行き来を遮断するために、さっきレンズで見たあのコルク層……離層を築いて、葉を切り捨てるのだ」
「捨てるために……」
トーマスは卓上に落ちた葉を拾い上げ、指先で透かしてみた。
「けれど先生、もし生きるための撤退にすぎないのなら、なぜこんなにも鮮やかなのです? ただ枯れて、茶色くなって落ちれば事足りるはずでしょう」
「黄色はね、最初からそこにあった色なのだよ」
アルヴィンが珈琲を一口すすり、穏やかに目を細めた。
「夏の葉を覆い尽くしていた緑の葉緑素は、水と光の補給を断たれると急速に壊れて消え去る。すると、その緑のカーテンの陰にずっと隠されていた淡いルティンや、黄赤のカロチノイドが、そのまま姿を現す。ポプラや白樺が黄金に輝くのは、失ったからこそ見えてくる、もともと持っていた素顔なんだ」
「隠れていた素顔……」
トーマスは手元の楓の葉を見つめ直した。葉の先端は目の覚めるような深紅だが、基部はまだわずかに黄緑色の面影を残している。
「では、この赤は? これも最初から隠れていたのですか?」
「いいや。赤だけは違う」
アルヴィンの声に、微かな熱が宿った。
「赤——アントシアニンは、退路を断たれた葉の中で、最後の最後に新しく生み出される色だ。木へ戻れなくなった糖が葉の中に濃縮され、そこに秋の冷涼な夜と、突き刺すような昼の強光が注ぎ込まれたとき、極限状態の細胞の中で奇跡のように合成される」
「逃げ場を失った糖が、光を浴びて……」
「そうだ。日陰になった葉の裏側や、重なり合った部分は赤く染まらず黄色のままだろう? 昼の光が強ければ強いほど、夜の底が冷え切れば冷え切るほど、アントシアニンは深く、純粋な血の赤へと研ぎ澄まされていく。世界中どこでも見られる景色ではない。落葉樹の種類、澄んだ秋晴れ、そして夜の凍結寸前の冷気——すべての過酷な条件が揃ったわずかな地域でだけ、この色彩は完成する」
トーマスは窓辺へ歩み寄り、改めて山並みを見上げた。
さっきまで陽気な絵の具の散布に見えていたその景色が、全く違った重みをもって胸に迫ってくる。
光を浴びた外側だけが血のように染まるモミジ。細胞液の酸性度の傾きによって、紅から紫、淡い青へと微細に揺らぐパレット。そして、生命活動のすべてを閉じ、酸化しながらなお気品を保つブナの金褐色。
「これは……」トーマスは呟いた。「痛みに耐えるための、鎧のようなものですね」
「あるいは、完璧な境界線を引き終えたという、生命の完了報告だよ」
アルヴィンは机の上の顕微鏡に革の覆いをかけ、静かに笑った。
「過酷な冬を生き延びるために、自らの境界を見極め、過去の栄光であったはずの重たい葉を断ち切る。木々は、余分なものを潔く手放すその痕跡を、この世で最も贅沢な狂想曲へと仕立て上げてみせるのだ」
窓の外で、乾いた秋風が一陣、吹き抜けた。
枝の付け根で完全に封印を終え、驚くほど軽くなった幾千の葉が、いっせいに宙へと身を躍らせる。
くるくると螺旋を描きながら大地へと舞い降りていく無数の紅と金は、打ち捨てられた犠牲の残骸などではなかった。
それは、寒風吹きすさぶ長い冬を生き抜き、再び巡り来る春を掴み取るための、誇り高き勝者たちの凱旋だった。
「手放すことは、敗北ではないのだよ」
老学者は湯気の消えかけたカップを両手で包み、深々と息を吐いた。
山を染め上げる紅葉の海は、静かに、そして誰にも侵されない毅然とした強さをもって、やがて訪れる白い冬の沈黙を受け入れようとしていた。




