香りから始まる物語
朝のカフェは、コーヒー豆を挽く音から始まる。
まだ人通りの少ない駅前に、店の扉を開ける音が静かに響く。
エスプレッソマシンのスイッチを入れると、やわらかな蒸気の音が店内に広がった。
豆をミルに入れ、ゆっくりと挽く。
ふわりと立ち上るコーヒーの香りが、朝の空気に溶けていく。
この時間が、私は好きだった。
カウンターを整え終える頃、ドアベルが小さく鳴る。
「おはようございます」
顔を上げると、いつもの席に向かう人がいる。
背の高い、落ち着いた雰囲気の男性。
毎朝同じ時間に来て、同じ席に座る。
「いつもの、お願いします」
低く静かな声。
私は小さく頷いた。
「ブラックですね」
カップにコーヒーを注ぐと、香りがゆっくりと広がっていく。
彼はその香りを、少しだけ目を細めて吸い込む。
それが、毎朝のささやかな光景だった。
ノートに何かを書きとめ、
それを静かにノートパソコンへ打ち込んでいく。
ペンの走る音と、キーボードの小さな音。
それも、朝のカフェの一部だった。
立ち上る香りが、静かな店内に溶けていく。
彼はコーヒーを飲みながら、ときどき店内を見回す。
カウンター、窓際の席、棚に並ぶ古い本。
そして、私の手元。
「この店、好きなんですか?」
思わず聞くと、彼は少しだけ考えてから言った。
「落ち着くんです」
カップから立ち上る香りを吸い込みながら続ける。
「物語を書いていると、
場所の空気が大事になるので」
私は小さく頷いた。
その言葉の意味を、その時の私はまだ知らなかった。
夜のカフェは、ランプの灯りがやわらかく揺れている。
昼の賑わいが嘘のように静まり、店内には穏やかな静けさが広がっていた。
コーヒー豆を挽く音も、
この時間になるとどこかゆっくり響く。
カウンターを整え終えた頃、ドアベルが小さく鳴った。
顔を上げると、彼が立っている。
朝とは違い、ネクタイを少し緩めていた。
「こんばんは」
「こんばんは」
彼はいつもの席に座る。
ランプの灯りが、カップの縁を淡く照らしていた。
本を閉じたとき、胸の奥が少しだけ熱くなっていた。
著者の写真に写っていたのは――いつもの席の彼だった。
翌朝、ドアベルが鳴る。
「おはようございます」
彼はいつも通り、同じ席に座った。
「いつもの、お願いします」
私はコーヒーを淹れる。
豆を挽く音と、立ち上る香り。
カップをそっと置く。
少しだけ迷ってから、私は言った。
「……今日は、どんな物語になりそうですか?」
彼の手が、ほんの一瞬だけ止まる。
顔を上げた彼は、静かに笑った。
「そうですね」
カップを手に取り、香りを吸い込む。
「きっと、いい朝の話です」
それ以上、何も言わない。
でもたぶん――
お互い、気づいている。
コーヒーの香りが、朝のカフェにゆっくり広がっていった。




