表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

香りから始まる物語

作者: 絵宮 芳緒
掲載日:2026/03/07

朝のカフェは、コーヒー豆を挽く音から始まる。


まだ人通りの少ない駅前に、店の扉を開ける音が静かに響く。


エスプレッソマシンのスイッチを入れると、やわらかな蒸気の音が店内に広がった。


豆をミルに入れ、ゆっくりと挽く。

ふわりと立ち上るコーヒーの香りが、朝の空気に溶けていく。


この時間が、私は好きだった。


カウンターを整え終える頃、ドアベルが小さく鳴る。


「おはようございます」


顔を上げると、いつもの席に向かう人がいる。


背の高い、落ち着いた雰囲気の男性。

毎朝同じ時間に来て、同じ席に座る。


「いつもの、お願いします」


低く静かな声。

私は小さく頷いた。


「ブラックですね」


カップにコーヒーを注ぐと、香りがゆっくりと広がっていく。


彼はその香りを、少しだけ目を細めて吸い込む。


それが、毎朝のささやかな光景だった。



ノートに何かを書きとめ、

それを静かにノートパソコンへ打ち込んでいく。


ペンの走る音と、キーボードの小さな音。

それも、朝のカフェの一部だった。


立ち上る香りが、静かな店内に溶けていく。





彼はコーヒーを飲みながら、ときどき店内を見回す。

カウンター、窓際の席、棚に並ぶ古い本。

そして、私の手元。


「この店、好きなんですか?」


思わず聞くと、彼は少しだけ考えてから言った。


「落ち着くんです」


カップから立ち上る香りを吸い込みながら続ける。


「物語を書いていると、

場所の空気が大事になるので」


私は小さく頷いた。

その言葉の意味を、その時の私はまだ知らなかった。






夜のカフェは、ランプの灯りがやわらかく揺れている。


昼の賑わいが嘘のように静まり、店内には穏やかな静けさが広がっていた。


コーヒー豆を挽く音も、

この時間になるとどこかゆっくり響く。


カウンターを整え終えた頃、ドアベルが小さく鳴った。


顔を上げると、彼が立っている。

朝とは違い、ネクタイを少し緩めていた。


「こんばんは」


「こんばんは」


彼はいつもの席に座る。


ランプの灯りが、カップの縁を淡く照らしていた。





本を閉じたとき、胸の奥が少しだけ熱くなっていた。


著者の写真に写っていたのは――いつもの席の彼だった。



翌朝、ドアベルが鳴る。


「おはようございます」


彼はいつも通り、同じ席に座った。


「いつもの、お願いします」


私はコーヒーを淹れる。

豆を挽く音と、立ち上る香り。


カップをそっと置く。

少しだけ迷ってから、私は言った。


「……今日は、どんな物語になりそうですか?」


彼の手が、ほんの一瞬だけ止まる。

顔を上げた彼は、静かに笑った。


「そうですね」


カップを手に取り、香りを吸い込む。


「きっと、いい朝の話です」


それ以上、何も言わない。


でもたぶん――

お互い、気づいている。


コーヒーの香りが、朝のカフェにゆっくり広がっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ