第9話 溜まりに溜まった王城の汚れ、吸引力が変わらない私が吸い尽くします
王都は、巨大なゴミ屋敷と化していた。
かつて白亜と謳われた城壁は、ドス黒い粘液で覆われている。
美しい石畳の道は、ヘドロのような泥で埋め尽くされ、そこから湧き出した大小様々な「黒い影」が這い回っていた。
「……汚っ」
私は馬上で、心底嫌そうな声を上げた。
生理的な嫌悪感がすごい。
これはもう、年末の大掃除レベルではない。特殊清掃の領域だ。
「ミナ、掴まっていろ! 突破する!」
アルベルト様が叫ぶ。
彼が剣を一振りすると、前方を塞いでいた黒い影たちが、衝撃波だけで消し飛んだ。
「どけェェェッ! 我が妻(予定)がお通りだ!!」
後ろに続く辺境騎士団も、「掃除! 掃除!」と叫びながら突撃していく。
彼らの鎧はピカピカに光り輝いているため、瘴気に対する完全な耐性があるらしい。
私のハンドモップ加護、強すぎない?
私たちは泥の海を割り、王城前の広場へと躍り出た。
そこで見た光景に、私は絶句した。
「……うわぁ」
広場の中央に、山のように巨大な「汚れ」が鎮座していた。
半液状の黒い塊。
不定形で、ブヨブヨと脈打ちながら、周囲の建物を飲み込んでいる。
あれが今回の汚れの親玉らしい。
そして、その足元には。
「来ないで! こっちに来るなあああ!!」
無様に逃げ惑うカイル王子の姿があった。
彼はあろうことか、ボロボロになったアリアちゃんを自分の前に押し出し、盾にしようとしていた。
「アリア! 聖女だろ! なんとかしろ! 僕を守れ!」
「む、無理です……もう魔力が……」
「役立たずめ! これならあの『ハズレ』の方がマシだったか!?」
アリアちゃんは膝をつき、今にも倒れそうだ。
彼女の白いドレスは泥まみれで、光魔法の輝きも消え入りそうになっている。
ブチッ。
私の中で、何かが切れる音がした。
血管ではない。
我慢の限界ラインだ。
「アルベルト様、降ろしてください」
「ミナ? まだ危険だ」
「いいえ。……あんな粗大ゴミ、さっさと片付けないと目障りです」
私の声が低かったのか、アルベルト様は一瞬目を見開き、それからニヤリと凶悪に笑った。
「承知した。露払いは任せろ」
彼は私を地面に下ろすと、馬から飛び降り、カイル王子と魔物の間に割って入った。
ドォォン!!
アルベルト様が着地した衝撃で、迫っていた黒い触手が弾け飛ぶ。
「ひぃっ!? あ、アルベルト!? 助けに来てくれたのか!?」
王子が情けない顔で縋り付こうとするが、アルベルト様は彼を見もしない。
ただ、剣を構えて魔物を牽制し、私への道を確保する。
「掃除の時間だ、ミナ」
「はい」
私はモップを片手に、ツカツカと歩み寄った。
泥の上を歩くのは嫌だが、長靴(ゴム製)を履いてきて正解だった。
アリアちゃんが私に気づき、涙目で顔を上げる。
「ミナ、さん……?」
「お待たせ。随分と散らかしたわね」
私は彼女の頭をポンと撫でた。
そして、目の前にそびえ立つ巨大な汚泥の山を見上げる。
近くで見ると、臭いが強烈だ。
腐った卵と古油を混ぜて煮込んだような悪臭。
「(これを吸うのは、ちょっと勇気がいるけど……)」
私は大きく息を吐き、肺の中を空にした。
イメージする。
私の体は高性能な掃除機。
吸引力は変わらない。フィルターの目詰まりもない。
目の前のこれは、ただの「綿埃の塊」だ。
「……すぅぅぅぅぅぅぅぅ」
私は両手を広げ、息を吸い始めた。
ゴォォォォォッ!!
風が巻く。
私の口元を中心に、台風のような気流が発生した。
広場の空気が、泥が、黒い霧が、すべて私の方へ引き寄せられる。
「な、なんだ!? 風が……吸い込まれていく!?」
王子の驚愕の声が聞こえるが、無視だ。
私は集中する。
肺の奥にある「虚無」の空間へ、汚れを放り込んでいくイメージ。
巨大な黒い塊が、掃除機に吸われるゼリーのように変形し、私の口元へと収束していく。
味は……うん、不味くはない。
高カカオチョコレートを焦がしたような、苦味とコク。
『ギィィィィィィ……!』
魔物が断末魔のような音を立てた。
抵抗しようと触手を伸ばしてくるが、その端から私が吸い込んでしまう。
私の吸引力(肺活量)からは逃れられない。
「もっと! まだ吸える!」
私はさらに強く吸い込んだ。
広場だけでなく、王城にへばりついた汚れ、空を覆う黒雲、すべてを根こそぎ持っていく。
ズズズズズズッ!
ジュボッ!
最後の一滴まで吸い尽くし、私は口を閉じた。
――静寂。
風が止んだ。
目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
ドス黒かった空は、突き抜けるような青空に。
ヘドロまみれだった王城の壁は、洗いたてのように白く輝き。
足元の石畳は、塵ひとつない清潔な状態になっていた。
空気も美味しい。
まるで高原のリゾート地に来たみたいだ。
「……ふぅ」
私は満足げにお腹をさすった。
満腹だ。
ちょっと食べすぎたかもしれない。
「げぷっ」
あ。
静まり返った広場に、私の可愛くないゲップが響いた。
「し、失礼」
口元を抑えて赤面する。
恥ずかしい。
OLとしてあるまじき失態だ。
しかし、周囲の反応は予想外だった。
「……女神だ」
「奇跡だ……空が、晴れた……」
「あの黒い悪夢を、一息で飲み込んだぞ……」
瓦礫の陰から見ていた騎士や、逃げ遅れた市民たちが、呆然と空を見上げている。
そして、次々と私に向かって跪き始めた。
「あ、アリア……これはいったい……」
カイル王子が腰を抜かしたまま、震える指で私を指差している。
「ハズレじゃ……なかったのか……?」
「……はい」
アリアちゃんが、よろめきながら立ち上がった。
彼女の顔色は、もう悪くない。
周囲の空気が浄化されたおかげで、彼女の魔力も回復し始めているようだ。
「ミナさんはハズレなんかじゃありません。……全てを受け入れ、浄化する、真の『無』の聖女様です」
アリアちゃんは泣きながら、私に抱きついてきた。
「うわぁぁぁん! ミナさぁぁん! 怖かったよぉぉぉ!」
「よしよし。汚いのはもうなくなったからね」
私は彼女の背中をポンポンと叩いた。
泥だらけだった彼女のドレスも、私が触れた端から白さを取り戻していく。
「さて、と」
私はカイル王子を見下ろした。
彼はまだ地面にへたり込んだままだ。
その豪華な服は泥まみれで、私の靴よりも汚い。
「殿下。とりあえず、お風呂に入った方がいいですよ」
「あ……う……」
「それと、ここは掃除が終わったので、私は帰ります。……あ、でも」
私はニッコリと笑った。
「清掃代金、高くつきますけど覚悟してくださいね?」
その時、背後からアルベルト様が歩み寄ってきた。
彼は私の肩を抱き寄せ、勝ち誇ったように王子を見下ろした。
「聞いたな? 我が妻への請求書は、後日、国庫が空になる額で送りつける。……覚悟しておけ」
王子は顔面蒼白になり、何も言い返せなかった。
周囲の視線――騎士たちの冷ややかな目と、私を見る崇拝の目が、彼を完全に孤立させていたからだ。
こうして、王都の大掃除は完了した。
物理的な汚れは落ちたけれど、人間関係の汚れ(主に王子まわり)の清算は、これからが本番らしい。
私は満腹のお腹を抱えながら、
「(今日の夕飯は抜きでいいかな……)」
と、のんきなことを考えていた。




