第7話 「戻ってこい」と元婚約者が来ましたが、旦那様がキレました
その日の朝、エントランスホールの空気は最悪だった。
物理的な意味でも、雰囲気的な意味でも。
「――出迎えもなしか。辺境の礼儀はどうなっている」
不快な声が響く。
玄関ホールに立っていたのは、煌びやかな衣装に身を包んだ金髪の青年――カイル第二王子だった。
後ろには、顔色の悪い聖女アリアちゃんと、数十名の近衛騎士たち。
彼らの足元から、黒い泥のような汚れがポタポタと落ちている。
王都からここまで来る間に溜め込んだ「穢れ」だろう。
せっかく私が毎朝モップがけをしてピカピカにした床が、見るも無惨に汚されていく。
「(うわぁ……土足で上がらないでほしい)」
私は階段の上からその様子を見て、眉をひそめた。
隣に立つアルベルト様からは、ヒヤッとするような冷気が漂っている。
「……何の用だ、殿下。アポイントメントは無かったはずだが」
アルベルト様が低い声で問う。
敬語を使っているが、その響きは「失せろ」と言っているのと同義だ。
カイル王子は鼻を鳴らし、大仰に腕を広げた。
「用があるのは貴公ではない。そこの『ハズレ』だ」
ビシッ。
指を差された。私だ。
「喜べ、ミナミ・サトウ。貴様の帰還を許可してやる」
王子は恩着せがましく言った。
「聖女アリアの力が目覚めたが、その負担を軽減するための『補助』が必要になった。貴様のような魔力なしでも、魔力タンク代わりにはなるだろう。光栄に思え」
なるほど。
要約すると「電池が足りないから、使い捨ての乾電池として戻ってこい」ということか。
相変わらずの人使いの荒さだ。
これだからブラック経営者は困る。
私はアルベルト様の背中に隠れるようにして、首を横に振った。
「お断りします」
「……あ?」
「帰りません。ここのご飯、美味しいので」
私が答えると、王子の顔が真っ赤になった。
「き、貴様……! 王族の命令だぞ!? 国の危機なのだぞ!?」
「私を追放したのは殿下ですよね? 『視界に入れるのも不愉快』と仰ったのを忘れたんですか?」
「ぐ……っ、それは……!」
図星だったらしい。
王子は言葉に詰まり、焦ったように後ろのアリアちゃんを振り返った。
アリアちゃんは俯いたままだ。
彼女のドレスの裾は黒ずんでいて、まるで重油の中を歩いてきたみたいに見える。
「とにかく! 貴様ごときには選択権などない!」
王子は階段を駆け上がり、強引に私の腕を掴もうとした。
「来い! 強制連行だ!」
その手が、私の手首に触れた。
――瞬間。
世界から、色が消えた。
ドォンッ!!
爆発音のような衝撃波が走り、ホールの窓ガラスが一斉にビビリと音を立てた。
私の視界が暗転する。
いや、違う。
私の前に、漆黒の闇が立ちはだかったのだ。
「……触るな」
地獄の底から響くような声。
アルベルト様だ。
彼は私の手首を掴んだ王子の腕を、万力のような力で握り締めていた。
ギリギリと骨が軋む音がする。
「い、ぎ……っ!?」
王子の顔が苦痛に歪む。
しかし、それ以上に彼を恐怖させていたのは、アルベルト様の全身から噴き出す濃密な殺気だった。
いつもの「黒いモヤ」じゃない。
もっと鋭利で、もっと冷たい、刃物のようなプレッシャー。
それは制御された「呪い」そのものだった。
「俺の妻(予定)に、その汚い手で触れるな」
「き、貴様……っ、王族に剣を向ける気か……!」
「王族?」
アルベルト様は冷笑した。
その瞳は、完全に据わっている。
「ここは辺境だ。ここでは俺が法だ。……害虫駆除に、身分など関係ない」
ゾクリとした。
本気だ。
この人は今、本気でこの国の第二王子を「掃除」しようとしている。
近衛騎士たちが剣を抜こうとするが、動けない。
アルベルト様から放たれる威圧感に気圧され、全員が顔面蒼白で震えている。
「ひ、ひぃぃっ……!」
王子が悲鳴を上げ、腰を抜かした。
アルベルト様は汚いものを捨てるように彼の手を振り払う。
「失せろ。二度と敷居を跨ぐな」
氷点下の拒絶。
王子は這うようにして後ずさり、近衛騎士たちに支えられて立ち上がった。
「お、覚えていろ……! このような反逆、父上に報告してやる!」
捨て台詞を吐き、彼らは逃げるように出口へ向かった。
嵐が去っていく。
私は呆気にとられてその様子を見ていた。
強い。強すぎる。
私の旦那様(予定)、チートすぎません?
その時だった。
去り際に、アリアちゃんがふと振り返った。
彼女と目が合う。
その瞳は、涙で潤んでいた。
彼女の口が、パクパクと動く。
『――た・す・け・て』
声には出なかった。
でも、その悲痛な表情は、明らかに救いを求めていた。
そして彼女もまた、王子に腕を引かれるようにして姿を消した。
「……」
静寂が戻る。
残されたのは、泥だらけになった床と、殺気を収めきれないアルベルト様。
「ミナ、大丈夫か。消毒するか? 腕を切り落とすか?」
「腕は要ります。消毒だけでいいです」
私は彼を落ち着かせるように、その背中をポンポンと叩いた。
彼から立ち上る黒い煙を、スーッと吸い込む。
怒りの味がした。少し辛い。
「ありがとう、アルベルト様」
「……守ると言っただろう」
彼は私を抱き寄せ、髪に顔を埋めた。
まだ体が微かに震えている。
私は彼に身を預けながら、先ほどのアリアちゃんの顔を思い出していた。
助けて、か。
あの子もまた、この国の「汚れ」に巻き込まれた被害者なのかもしれない。
床の泥を見つめる。
私の掃除屋としての魂が、小さく告げていた。
――あそこ(王城)は、一度徹底的に大掃除しないと駄目かもしれない、と。
「(……面倒なことになってきたなあ)」
私は深いため息をつき、とりあえずモップを取りに行くことにした。
まずは目の前の汚れを落とさないと、落ち着かないから。




