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余命わずかな黒騎士様は私の隣でしか生きられない  作者: 秋月 もみじ


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7/10

第7話 「戻ってこい」と元婚約者が来ましたが、旦那様がキレました


 その日の朝、エントランスホールの空気は最悪だった。

 物理的な意味でも、雰囲気的な意味でも。


「――出迎えもなしか。辺境の礼儀はどうなっている」


 不快な声が響く。

 玄関ホールに立っていたのは、煌びやかな衣装に身を包んだ金髪の青年――カイル第二王子だった。

 後ろには、顔色の悪い聖女アリアちゃんと、数十名の近衛騎士たち。


 彼らの足元から、黒い泥のような汚れがポタポタと落ちている。

 王都からここまで来る間に溜め込んだ「穢れ」だろう。

 せっかく私が毎朝モップがけをしてピカピカにした床が、見るも無惨に汚されていく。


「(うわぁ……土足で上がらないでほしい)」


 私は階段の上からその様子を見て、眉をひそめた。

 隣に立つアルベルト様からは、ヒヤッとするような冷気が漂っている。


「……何の用だ、殿下。アポイントメントは無かったはずだが」


 アルベルト様が低い声で問う。

 敬語を使っているが、その響きは「失せろ」と言っているのと同義だ。


 カイル王子は鼻を鳴らし、大仰に腕を広げた。


「用があるのは貴公ではない。そこの『ハズレ』だ」


 ビシッ。

 指を差された。私だ。


「喜べ、ミナミ・サトウ。貴様の帰還を許可してやる」


 王子は恩着せがましく言った。


「聖女アリアの力が目覚めたが、その負担を軽減するための『補助』が必要になった。貴様のような魔力なしでも、魔力タンク代わりにはなるだろう。光栄に思え」


 なるほど。

 要約すると「電池が足りないから、使い捨ての乾電池として戻ってこい」ということか。

 相変わらずの人使いの荒さだ。

 これだからブラック経営者は困る。


 私はアルベルト様の背中に隠れるようにして、首を横に振った。


「お断りします」

「……あ?」

「帰りません。ここのご飯、美味しいので」


 私が答えると、王子の顔が真っ赤になった。


「き、貴様……! 王族の命令だぞ!? 国の危機なのだぞ!?」

「私を追放したのは殿下ですよね? 『視界に入れるのも不愉快』と仰ったのを忘れたんですか?」

「ぐ……っ、それは……!」


 図星だったらしい。

 王子は言葉に詰まり、焦ったように後ろのアリアちゃんを振り返った。

 アリアちゃんは俯いたままだ。

 彼女のドレスの裾は黒ずんでいて、まるで重油の中を歩いてきたみたいに見える。


「とにかく! 貴様ごときには選択権などない!」


 王子は階段を駆け上がり、強引に私の腕を掴もうとした。


「来い! 強制連行だ!」


 その手が、私の手首に触れた。


 ――瞬間。

 世界から、色が消えた。


 ドォンッ!!


 爆発音のような衝撃波が走り、ホールの窓ガラスが一斉にビビリと音を立てた。

 私の視界が暗転する。

 いや、違う。

 私の前に、漆黒の闇が立ちはだかったのだ。


「……触るな」


 地獄の底から響くような声。

 アルベルト様だ。


 彼は私の手首を掴んだ王子の腕を、万力のような力で握り締めていた。

 ギリギリと骨が軋む音がする。


「い、ぎ……っ!?」


 王子の顔が苦痛に歪む。

 しかし、それ以上に彼を恐怖させていたのは、アルベルト様の全身から噴き出す濃密な殺気だった。


 いつもの「黒いモヤ」じゃない。

 もっと鋭利で、もっと冷たい、刃物のようなプレッシャー。

 それは制御された「呪い」そのものだった。


「俺の妻(予定)に、その汚い手で触れるな」

「き、貴様……っ、王族に剣を向ける気か……!」

「王族?」


 アルベルト様は冷笑した。

 その瞳は、完全に据わっている。


「ここは辺境だ。ここでは俺が法だ。……害虫駆除に、身分など関係ない」


 ゾクリとした。

 本気だ。

 この人は今、本気でこの国の第二王子を「掃除」しようとしている。


 近衛騎士たちが剣を抜こうとするが、動けない。

 アルベルト様から放たれる威圧感に気圧され、全員が顔面蒼白で震えている。


「ひ、ひぃぃっ……!」


 王子が悲鳴を上げ、腰を抜かした。

 アルベルト様は汚いものを捨てるように彼の手を振り払う。


「失せろ。二度と敷居を跨ぐな」


 氷点下の拒絶。

 王子は這うようにして後ずさり、近衛騎士たちに支えられて立ち上がった。


「お、覚えていろ……! このような反逆、父上に報告してやる!」


 捨て台詞を吐き、彼らは逃げるように出口へ向かった。

 嵐が去っていく。


 私は呆気にとられてその様子を見ていた。

 強い。強すぎる。

 私の旦那様(予定)、チートすぎません?


 その時だった。

 去り際に、アリアちゃんがふと振り返った。


 彼女と目が合う。

 その瞳は、涙で潤んでいた。

 彼女の口が、パクパクと動く。


『――た・す・け・て』


 声には出なかった。

 でも、その悲痛な表情は、明らかに救いを求めていた。

 そして彼女もまた、王子に腕を引かれるようにして姿を消した。


「……」


 静寂が戻る。

 残されたのは、泥だらけになった床と、殺気を収めきれないアルベルト様。


「ミナ、大丈夫か。消毒するか? 腕を切り落とすか?」

「腕は要ります。消毒だけでいいです」


 私は彼を落ち着かせるように、その背中をポンポンと叩いた。

 彼から立ち上る黒い煙を、スーッと吸い込む。

 怒りの味がした。少し辛い。


「ありがとう、アルベルト様」

「……守ると言っただろう」


 彼は私を抱き寄せ、髪に顔を埋めた。

 まだ体が微かに震えている。


 私は彼に身を預けながら、先ほどのアリアちゃんの顔を思い出していた。

 

 助けて、か。

 あの子もまた、この国の「汚れ」に巻き込まれた被害者なのかもしれない。


 床の泥を見つめる。

 私の掃除屋としての魂が、小さく告げていた。

 ――あそこ(王城)は、一度徹底的に大掃除しないと駄目かもしれない、と。


「(……面倒なことになってきたなあ)」


 私は深いため息をつき、とりあえずモップを取りに行くことにした。

 まずは目の前の汚れを落とさないと、落ち着かないから。

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