第5話 王都から「聖女が倒れた」と聞こえてきましたが、お茶が美味しいです
サクッ。
口の中で、バターの香ばしい香りが広がる。
「……んん、美味しい」
私は思わず声を漏らした。
焼きたてのスコーンに、たっぷりのクロテッドクリームとベリージャム。
合わせるのは、ベルガモットの香り高いアールグレイ。
最高だ。
ここは天国かもしれない。
辺境伯邸の裏庭にあるガゼボ(西洋風の東屋)。
ここ数日で劇的に浄化された庭園は、今や色とりどりの花が咲き乱れる楽園と化していた。
淀んだ空気は微塵もない。
私が毎日、洗濯物を干すついでに空気を吸いまくった成果である。
「気に入ったか?」
向かいの席で、アルベルト様が頬杖をついて私を見ていた。
彼は一口もお茶を飲んでいない。
ただひたすら、私がモグモグと食べる様子を観察している。
「はい、とても。……あの、アルベルト様も召し上がっては?」
「いや、俺は君を見ているだけで胸がいっぱいだ(物理的に呪いが静まるから)」
「はあ、そうですか」
相変わらず重い。
最近の彼は、私のストーカー兼保護者兼ファンクラブ会員第一号みたいになっている。
今日も公務でお忙しいはずなのに、「休憩が必要だ」と言い張って、こうしてティータイムに同席しているのだ。
まあ、彼が近くにいると空気が澄む(私が吸うから)ので、ウィンウィンの関係ではあるけれど。
平和な午後だった。
そよ風が吹き、小鳥がさえずる。
前世のブラック企業時代には考えられなかった、優雅な時間。
「(この生活、悪くないなあ……)」
私が二つ目のスコーンに手を伸ばした時だった。
ザッ、ザッ、ザッ。
慌ただしい足音が、静寂を破った。
「閣下! 申し上げます!」
息を切らせて駆け込んできたのは、セバスさんだ。
普段は冷静な彼が、珍しく焦りの色を浮かべている。
アルベルト様の目が、スッと細められた。
一瞬で、甘い「旦那様」の顔から、冷徹な「辺境伯」の顔に戻る。
「なんだ。ミナとの時間を邪魔するなら、それ相応の理由があるんだろうな」
「はっ、申し訳ございません! しかし、王都より急使が……!」
王都。
その単語が出た瞬間、場の空気が凍りついた。
アルベルト様が立ち上がる。
ガタン、と椅子が音を立てた。
「ミナ」
「はい」
「ここで待っていろ。動くな。誰が来ても声を出すな」
「はあ」
彼は私の返事も待たずに、風のような速さでガゼボを出て行った。
その背中からは、隠しきれない殺気が漏れ出していた。
黒い湯気みたいに見える。あれ、あとで吸っておかないと花が枯れちゃうな。
◇
取り残された私は、とりあえず紅茶を飲んだ。
冷めても美味しい。
ガゼボからは、屋敷の入り口付近は見えない。
でも、風に乗って微かに怒鳴り声が聞こえてきた。
『――勅命であるぞ!』
『――サトウを――返還――!』
『――聖女アリア様が――限界で――!』
断片的な単語。
よく聞こえないけれど、穏やかではない雰囲気だ。
「聖女様が、限界?」
私は首を傾げた。
アリアちゃんのことだろうか。
召喚された時、彼女は「光属性・無限」と判定されていたはずだ。
無限の魔力があるなら、限界なんて来ないんじゃないの?
ふと、空を見上げる。
この庭の上空は快晴だ。
けれど、遠く南の方角――王都がある方角の空だけが、インクを垂らしたようにドス黒く濁っていた。
「……うわぁ」
掃除好きの本能が、警鐘を鳴らす。
あの雲、ただの雨雲じゃない。
あれは、巨大な換気扇の油汚れが、何年も放置されて固まったような「こってりとした汚れ」だ。
見ているだけで胸焼けがする。
あんな空気の中にいたら、肌荒れ待ったなしだ。
「(帰りたくないなあ……)」
私は本能的にそう思った。
あそこに戻れば、また「無能」と罵られ、そのくせ雑用を押し付けられる日々が待っている気がする。
それに比べてここは、ご飯は美味しいし、空気は綺麗だし、イケメン騎士様は過保護なくらい優しい。
カツ、カツ、カツ。
足音が戻ってきた。
アルベルト様だ。
彼は何事もなかったような顔をしているが、その右手の手袋が少し破けていた。
何かを握り潰したみたいに。
「お待たせ。冷めてしまったな、淹れ直させよう」
「いえ、大丈夫です。……あのお客様は?」
「迷子だ」
彼は即答した。
絶対に嘘だ。
「道に迷った野良犬が、少し吠えていただけだ。丁重に森へお帰り願ったよ」
「野良犬ですか。王家の紋章をつけた」
「……視力がいいな、君は」
アルベルト様は苦笑すると、私の隣に座り直した。
そして、私の肩を抱き寄せる。
さっきよりも力が強い。
まるで、どこにも行かせないというように。
「ミナ。しばらく、屋敷の結界強度を上げる」
「結界?」
「ああ。害虫が入ってこないようにね。少し窓の外が見えにくくなるかもしれないが、構わないか?」
彼の声は優しいけれど、瞳の奥は笑っていなかった。
青い瞳が、暗い炎のように揺らめいている。
「……アルベルト様が良いと思うなら、お任せします」
「ありがとう。君を守るためだ。絶対に、あの泥沼(王都)には返さない」
彼は私の髪に口づけを落とした。
泥沼。
その言葉が、王都の現状を何よりも的確に表している気がした。
私は知らないふりをして、三つ目のスコーンを手に取った。
今はまだ、この甘い平穏に浸っていたかったから。
でも、気づいてしまった。
彼の袖口に、微かに「焦げ臭い」ような臭いがこびりついていることに。
それは、王都から漂ってくる、破滅の臭いと同じだった。
「(……掃除道具、準備しておいた方がいいかな)」
私は紅茶を飲み干し、密かに覚悟を決めた。
この平穏を守るためなら、出張清掃くらいはしてあげてもいいかもしれない、と。




