夏、夕凪楼の忘れ物
夏、夕凪楼の忘れ物
一、誘われた和の舞台
うだるような東京の夏。アスファルトの照り返しが目に痛む中、高校2年の桜井悠斗は、どこか満たされない日々を送っていた。友人たちは部活に打ち込み、恋に浮かれ、それぞれの夏を満喫しているように見えたが、悠斗にはこれといって熱中できるものがなかった。何か新しいこと、普段とは違う経験をしてみたい──そんな漠然とした思いが胸の奥でくすぶっていた時、偶然ネットで見つけたのが、下呂温泉の**老舗旅館「夕凪楼」**のアルバイト募集だった。
「旅館かぁ……。遠いけど、交通費全額支給で住み込み、しかもまかない付きか!普段と違う世界ってのも悪くないかもな」。画面に表示された合掌造りのような屋根と、手入れの行き届いた庭園の写真に、悠斗の好奇心は静かにかき立てられた。親は最初は「岐阜の山奥なんて、危ないからダメだ」と大反対したが、旅館側から安全管理体制や高校生の受け入れ実績についての丁寧な説明があり、夏休み限定という条件もあって、最終的には渋々同意してくれた。
新幹線と特急列車を乗り継ぎ、約4時間。下呂駅に降り立った瞬間、悠斗の鼻腔をくすぐったのは、東京の熱気とは違う、澄んだ山の空気と、かすかな硫黄の匂いだった。旅館の送迎車に揺られ、目の前に現れた「夕凪楼」は、想像以上に堂々としていて、歴史の重みが感じられた。緊張の面接をどうにかクリアし、悠斗は夏休み限定の仲居見習いとして、この和の舞台の門を叩いた。心臓の奥で、わずかに期待と不安が交錯する音がした。
二、山の緑と温泉の香りに包まれて
初めて足を踏み入れた「夕凪楼」の館内は、都心の喧騒とはまるで別世界だった。手入れの行き届いた庭園からはジリジリと蝉時雨が降り注ぎ、ひんやりとした畳と木の落ち着いた香りが漂う。悠斗が案内されたのは、他の年上の従業員と相部屋の従業員寮だった。「うわ、思ってたより狭いな…」と、思わず本音がこぼれたが、ここが自分だけの夏休みの拠点であることに、わずかな高揚感を覚えた。しかし、その美しさの裏には、悠斗にとって想像以上の厳しさが待っていた。
初日、お客様を迎える声に元気はあったものの、すぐにベテラン仲居の藤原さんにピシャリと注意された。「お客様には、心からの敬意を込めてお迎えするの。お若い方は元気でよろしいけれど、言葉は丁寧に、**『でございます』**よ」。普段使い慣れない「〜でございます」「〜でいらっしゃいますか」といった敬語に、悠斗の舌はもつれ、何度も噛んだ。特に、地元の方言が強いおじいちゃんお客様に「おう、兄ちゃん、さっぱりしとるのう!」と話しかけられ、何を言われたのか全く理解できず固まってしまい、藤原さんには盛大なため息をつかれた。「ま、まあ、最初は誰でもそうだけどね」。後で蓮に笑われたのが、せめてもの救いだった。
客室への案内では、襖を開ける手の位置、体を斜めにして客人から視線を外さない立ち位置、そして静かに閉める音一つまで細かく指導される。「おもてなしは、指先から、音の響きまで、すべてでございます」。藤原さんの言葉に、悠斗は自分の無神経さを恥じ、自分の指先をじっと見つめた。しかし、焦るとつい襖を「バタンッ!」と大きな音を立てて閉めてしまい、そのたびに藤原さんの冷たい視線が突き刺さる。胃がキリキリと痛んだ。
夕食の配膳は、見た目以上に重い何枚もの漆器が乗ったお盆を運び、慣れない和室の畳の上を何度も往復する重労働だ。布団の上げ下ろしでも、分厚い敷布団と掛け布団を畳むのに汗だくになる。「ふぅ、くそっ、重い……」。休憩時間、誰もいない従業員通路で、こっそり肩を揉む悠斗の指が、汗で湿った浴衣の生地を掴んだ。最初は「こんなはずじゃなかった」と軽いバイト感覚が抜けず、ミスも多かったが、それでも「まかないは美味いからな」と自分に言い聞かせる日々だった。
悠斗の指導係は、彼と同じ高校生で一つ年上の先輩アルバイト、佐藤 凛だった。彼女は単なる仲居見習いではない。女将から特別に指導を受けている**「女将見習い」の立場だった。凛はいつも涼やかな笑顔で、どんなお客様にも丁寧に対応する。そのしなやかな指先**が、美しく漆器を並べていく様を見るたび、悠斗の胸の奥がチクリと、でも心地よく痛んだ。凛が時折、他の仲居とは違う、少しだけ格式のある着物を着用しているのを見ると、悠斗は改めて彼女の特別な存在感を意識し、その凜とした佇まいに見惚れた。
ある日、忙しさのあまり、悠斗は廊下でお盆の上の湯呑みを落としそうになる。その瞬間、凛の白い手が悠斗の手の上に重なり、寸でで湯呑みを支えた。「危ない、悠斗くん」。凛のひんやりとした指の感触と、心配そうな瞳に、悠斗の心臓が不規則なリズムを刻んだ。かすかに香る石鹸のような凛の匂いに、悠斗は顔を赤くして、咄嗟に視線を逸らした。その日以来、悠斗は凛の姿を無意識に目で追うようになる。
悠斗が仕事に少し慣れてきた頃、同じ高校に通う新堂 蓮が、夏休み限定の高校生アルバイトとして「夕凪楼」に加わった。蓮は少し派手な雰囲気を持つが、バイト経験が豊富で、旅館の仕事も器用にこなし、すぐに周囲に溶け込む。悠斗は、蓮が自分よりも物覚えが早く、手先も器用なことに驚き、軽いジェラシーを抱く。藤原さんや女将も、蓮の飲み込みの早さに感心し、「新堂くんは優秀ね」と褒める場面がある。悠斗は、その言葉を聞いて唇を噛みしめる。早く認めてもらいたい、追いつきたい、そんな焦りが募っていった。
三、湯の香、恋の予感
夏休みの折り返し地点を過ぎた頃、悠斗は「夕凪楼」の奥深さと、自身の成長、そして凛への淡い恋心を自覚し始める。
ある週末、会社の大規模な宴会が入った。広い宴会場は一気に喧騒に包まれ、怒号にも似た注文が飛び交う。悠斗は、料理の配膳を間違えそうになり、飲み物の追加注文に手が回らず、完全にパニック状態に陥った。「悠斗くん、こっち!」「次のお酒はあちらのテーブルだよ!」その時、凛が冷静かつ的確に指示を出す声が聞こえた。藤原さんや他のベテラン仲居も、無駄のない動きと、乾いた食器の音を立てて連携し、次々と状況を捌いていく。蓮もまた、テキパキと動き、悠斗のフォローにも回っていた。悠斗は無我夢中で指示に従い、額から汗が滴り落ちるのも気にせず、なんとか宴会を乗り切った。
宴会終了後、空になった大広間に立つと、疲労感とともに、言いようのない達成感がこみ上げてきた。藤原さんが遠くから「よくやったわね」と、ねぎらいの笑みを向けた。そして凛が「お疲れ様!悠斗くんもよく頑張ったね」と微笑んでくれた時、悠斗は仲間と働くことの喜びを実感した。蓮も軽く頷き、「さすがに疲れたな」と額の汗を拭った。皆で食べる山盛りのおかずが並ぶまかないは、いつも以上に美味しく感じられた。
ある日、悠斗がお客様への伝達ミスで、料理の提供が遅れてしまう大失敗を犯した。お客様からのクレームが入り、悠斗は青ざめる。その瞬間、女将の静かで鋭い視線が悠斗を射抜いた。藤原さんも皆の前で「桜井くん、お客様の思い出は二度と作れない。たった一度のミスで台無しになることもあるのよ」と、低い声で厳しく叱責した。悠斗は、胃が締め付けられるような重圧を感じ、自分のプロ意識のなさを痛感し、唇を固く噛みしめた。
だが、叱られた後の休憩時間、悠斗が落ち込んでいると、藤原さんが「はい、これ」と、旅館の賄いとは別に、**手作りの小さな甘味(冷たい葛餅など)**を悠斗に差し入れた。「水分、ちゃんと取りなさいね」。その短いけれど心遣いこもった言葉に、悠斗の目頭が熱くなった。後日、悠斗がお客様への説明で詰まっていると、女将が遠くから、静かに悠斗の働く姿を見守っていた。その表情は厳しさの中にも、微かな微笑みや、期待の光が宿っているように見えた。「佐藤さんは、この夕凪楼の宝のような子だ」と、女将が凛について話しているのを耳にし、悠斗は凛が特別な存在であることを改めて知った。
高校生のアルバイトは深夜業が禁止されている。しかし、悠斗は門限までの時間に、昼間の喧騒が嘘のように静まり返った館内を歩くことがあった。照明を落とした薄暗い廊下は、どこまでも続く迷路のよう。古い建物の軋む音が、まるで生き物のように聞こえる。誰もいないはずの客室から聞こえるかすかな水の流れるような音(温泉の湯の音だろうか)に、悠斗はぞくりとしながらも、昼間とは違う旅館の顔を体験した。やたらと広い従業員通路も、夜はどこか秘密めいた雰囲気を漂わせ、悠斗の好奇心をくすぐった。
寮の窓から夜空を見上げると、都会では見られない満天の星が輝いている。温泉街の湯けむりが月明かりに照らされ、幻想的な風景を作り出す。普段の生活とは隔絶されたこの場所で、悠斗は「夕凪楼」という空間が持つ、独特の魅力に気づき始める。ある夜、凛と蓮が**「ここが一番落ち着くんだ」と教えてくれた、蔵の裏にある隠れた休憩場所で、三人で缶ジュースを分け合った**こともあった。短いひと時だったが、あの妙な連帯感は忘れられない。
休憩時間、従業員用の休憩室で、悠斗は凛が使い込んだ小さなメモ帳を落としたのを見つける。拾い上げようとした瞬間、凛が先に気づき、「あ、ありがとう、悠斗くん」と屈託のない笑顔を向ける。その優しい声に、悠斗は顔を赤くして、咄嗟に視線を逸らした。
ある夕暮れ時、悠斗が中庭の清掃をしていると、凛が通りかかった。「悠斗くん、いつも綺麗にしてくれてるね。この庭、夕暮れ時が一番綺麗なんだよ」。凛の言葉に、悠斗は初めて、目の前の景色が茜色に染まり、庭石が金色に輝いていることに気づく。悠斗の心にも、同じように温かい光が灯った。
そんな矢先、凛と蓮が、休憩時間に学校の授業や流行の音楽で楽しそうに盛り上がっているのを、悠斗は何度も目撃した。蓮が冗談を言って凛がくすっと笑う声が聞こえるたび、悠斗の胸はチクチクと痛んだ。二人の会話に加われず、疎外感を感じた悠斗は、休憩室の隅で、ただ窓の外を眺めることしかできない。
ある日、蓮が凛に**「今度、一緒に下呂温泉花火ミュージカル行かない?」と直接誘う場面を、悠斗は偶然聞いてしまう。悠斗は、その場に立ちすくみ、凛がどう答えるか、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張して、息を潜めた。凛は「行けたらね」と曖昧に笑ったが、悠斗の胸には冷たい塊ができたようだった。その日、仕事中に凛が落とした小さな可愛らしいヘアピン**を拾い、悠斗はこっそりポケットにしまう。それを手にするたびに、胸が締め付けられる。
悠斗がお客様の荷物を運ぶのに手間取っている時、凛を助けようとした瞬間、蓮が先にスマートに手を貸してしまい、凛が蓮に感謝の笑顔を向けるなど、悠斗が「一歩遅れる」場面が繰り返され、悔しさが募る。「くそ…」と悠斗は心の中で呟いた。悠斗と蓮は、凛を介して視線を交わすことが増え、言葉には出さないが、凛への気持ちを競い合っていることが互いに伝わっていた。張り詰めた空気に、旅館の廊下でさえ、妙な緊張感が漂う。
四、夏の終わり、言えない言葉
短い夏休みも、あっという間に終わりが近づいてきた。「夕凪楼」でのアルバイト最終日。悠斗は、自分がこの場所を去ることを想像すると、胸に空虚な風が吹くような感覚を覚えた。
最終日、悠斗は、この夏で学んだ全てを注ぎ込むように、心を込めてお客様を迎えた。初めは厳しかった厄介な(と悠斗が内心思っていた)お客様が、悠斗の誠実な対応に心を開き、最後に「あんたのサービス、気持ちよかったよ。また来るから、その時は頼むな」と、笑顔で言われた時、悠斗の目頭が熱くなった。
仕事終わり、女将が悠斗の肩にそっと手を置き、その表情には温かさが滲んでいた。「悠斗さん。この夏、よく頑張ってくれたわね。あなたのおかげで、夕凪楼にも新しい風が吹いたようでしたよ。お客様の心をどれだけ感じ取れるか、それがおもてなしの真髄よ」。心に響く女将の言葉に、悠斗は深く頭を下げた。藤原さんや他の仲居さんたちも、「またおいで」と声をかけてくれた。悠斗は、ここで得たかけがえのない経験を噛み締める。
きつい仕事の後、従業員だけが食べられるまかない飯は、いつも格別の味だった。最終日のまかないは、いつもより少し豪華で、皆で「お疲れ様!」と言いながら食べる。悠斗は、この夏、共に汗を流し、笑い合った仲間との、家族のような温かい絆を感じていた。気づけば、以前はできなかった重い配膳も、今では無意識にこなしている。自分の成長を実感し、旅館の清掃や準備も、誰に言われるでもなく完璧にこなそうと努力する自分がいた。
従業員通用口で、悠斗は凛に声をかけようと待っていた。彼女に、この夏伝えたいことが山ほどあった。そこに、蓮もやってくる。悠斗と蓮は一瞬、互いを見つめ、言葉にならない火花が散る。蓮の瞳の奥に、悠斗と同じく何かを秘めた光を感じた。
蓮が悠斗の存在に気づきつつも、凛に「佐藤さん、お疲れ。駅まで一緒に行こうか」と、少し挑戦的な笑みを浮かべて声をかける。凛は悠斗と蓮の間に漂う空気に気づかず、「うん、ありがとう、新堂くん」と笑顔で頷いた。
凛は悠斗に「悠斗くんも、お疲れ様。また学校でね!」と爽やかに手を振り、蓮と共に去っていく。悠斗は、開かれかけた扉の向こうに消えていく凛の白い浴衣の裾と、その隣を歩く蓮の背中を、ただ見つめることしかできなかった。喉まで出かかっていた**「好きだ」という言葉は、結局言えないまま、下呂の夜空に吸い込まれていく。悠斗の手のひらは、いつの間にか固く握りしめられていた**。その手の中に、あのヘアピンのひんやりとした感触が、凛の笑顔と、言えなかった言葉の重さを悠斗に思い出させた。
五、心に残る宿と、次の季節へ
新学期が始まり、悠斗は東京の普通の高校生に戻っていた。しかし、彼の夏は、決して「普通」ではなかった。
友人との会話で、無意識に丁寧な言葉遣いが出てしまったり、食事の際にお盆の向きを直してしまったりする。周囲からは「なんか、悠斗変わったな」と言われるが、悠斗の心には「おもてなし」の精神が確かに根付いていた。学業にも以前より真剣に取り組むようになった。「お客様の要望を先読みする」という旅館で学んだスキルは、予習やテスト勉強にも役立つことを発見する。学校で蓮とすれ違うと、以前とは違う、どこか複雑な、しかし互いを意識し合う短い視線を交わした。二人の間に、目に見えない何か(ライバル意識か、奇妙な友情か)が芽生えていた。
悠斗の机の引き出しには、あの夏、凛が落とした使い込んだ小さなメモ帳の切れ端と、こっそり拾った可愛らしいヘアピンが、そっとしまわれている。それを見るたび、あの夏の日々の香りや、凛の笑顔が鮮やかに蘇り、胸の奥がきゅっと締め付けられる。ヘアピンの感触は、凛の笑顔と、言えなかった言葉の重さを悠斗に思い出させた。
旅館での恋は、まだ「成就」はしていない。だが、悠斗は知っている。あの夏、「夕凪楼」で経験した全てのことが、自分を大きく成長させてくれたことを。そして、女将の「あなたのような若い力が、いつかこの場所を、この国の『おもてなし』を、さらに素晴らしいものにしてくれるでしょう」という言葉を胸に、いつか凛と再会し、胸を張って向き合えるその日のために、もっと素敵な自分になることを誓う。
秋風が吹き始め、金木犀の甘い香りが漂う中、悠斗は空を見上げた。今年の夏は、少しだけ切なくて、でも、忘れられない、きらめくような夏だった。彼の視線の先には、新しい季節、そしてまだ見ぬ未来が広がっている。