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たぶん、きっとあれは“恋”だった。

今日は、わたしの誕生日。


久しぶりに、彼氏の康介(こうすけ)と待ち合わせ。



しかし、いくら待っても彼は現れなかった。



「あいつなら、ここへはこないよ」



そう言って、代わりにやってきた彼は――。



* * *



三宅(みやけ)先輩聞きましたー?三課の事務のコ、この前営業の小林(こばやし)さんと別れたところなのに、もう次の彼氏ができたらしいですよ〜」



得意先からの営業の帰り、昼休憩で入ったカフェで料理を持っている間、後輩の高野(たかの)ちゃんがさっそくそんな話をしてきた。



「しかも新しい彼氏、小林さんと同期の斎藤(さいとう)さん!」


「あれ?そういや、小林くんと斎藤くんって仲よかったよね?」


「そうですよ!よくそんな近場を漁ろうと思いましたよね〜」



「“漁る”って…、その言い方!」とツッコミつつ、心の中では『たしかに』とつぶやく。



他人の恋愛にあれこれ言うつもりはない。


だけど、わざわざ別れたばかりの彼氏と仲のいい同期と付き合わなくても。



「男なんて、この世界中に五万といるのにね」



わたしはあきれながら、お冷やをひと口飲んだ。



「そう言う三宅先輩は、最近どうなんですか〜?」


「…えっ、わたし?」


「そうですよ〜」



ニヤつきながら、運ばれてきたパスタをフォークとスプーンを使ってくるくる巻いていく高野ちゃん。



恋バナ好きの高野ちゃんは、わたしの話が聞きたくて仕方がないらしい。



わたしの彼氏は、同じ職場の2歳下の後輩、中川(なかがわ)康介。


康介が入社して、わたしのいる営業課に配属されたのが出会いのきっかけ。



明るく、人当たりもよく、ノリもよくて。



そんな入社したての康介に、新入社員歓迎会の飲み会終わりに、『一目惚れ』と言われていきなり告白されて驚いたのは今でも覚えている。


もちろん、「もしかして酔ってる?」と言って、やんわり返事は濁しておいた。



しかし、康介はその後もわたしにアプローチしてきて、押しに押されてというか…。


そうして、付き合うことになった。



だけど意外と相性がよくて、なんだかんだで3年近く続いている。



「そういえば先輩って、明石(あかし)さんとも仲いいんですよね?」


「明石くん?まあ、康介の親友だからね」



『明石くん』というのは、同じ会社の明石遼平(りょうへい)


康介の同期で、2人は高校からの付き合い。



同じ大学、同じ就職先を目指すほど仲がよくて、康介と付き合い始めたころからわりと遼平くんといっしょに遊ぶことが多かった。



2人きりになりたいなと思うときでも遼平くんがいる。


少しは空気を読んで遠慮してよ、と思うこともしばしば。



だけど、それが徐々に当たり前になってきて、気づけば3人で遊ぶのが恒例に。


遼平くんは黒のミニバンを所持しているから、車に乗せてもらって3人で海水浴やキャンプにも出かけていた。



社内ではお互いのことを『三宅さん』、『明石くん』と呼び、プライベートでは名前で呼び合う仲。


遼平くんは会社の後輩でもあるけど、一番仲のいい男友達でもある。



そんな遼平くんのことをいいなと思っている高野ちゃん。



「明石くん、彼女いないから告ってみたら?」


「え〜、無理ですよ〜。だって、前にそれとなく飲み会で聞いてみたら、好きな人がいるみたいなこと話してましたし」



遼平くんに好きな人?


へ〜、そんな人がいたんだ。



* * *



季節は徐々に暖かい陽気に包まれ、桜の花があちらこちらで咲き始める。



今日は、わたしの誕生日。


会社終わりに、久しぶりに康介と待ち合わせしている。



というのも、ここ2ヶ月ほど康介は忙しくしていた。


新しい大口の得意先を引き継いだとは聞いたけど。



余程忙しいのか、メッセージを送っても既読スルーが多く、あとになってようやく返事がくるくらい。


前までは、あんなに毎日頻繁に連絡を取り合っていたのに。



だけど、もともとわたしは付き合ってもあまり連絡を取るタイプではなかった。


康介と付き合うようになってそうなっただけで、これが本来のわたし。



そうとは言っても、当たり前のように毎日メッセージを送り合っていたから、それがなくなるとなると少し寂しかったりもした。


でも仕事をがんばってる証拠だからと、とくに気にはしなかった。



ここ最近はまともに会えてもいなかったからこそ、今から2週間ほど前に、久々の康介からのメッセージを見て心が踊った。



【3月30日、あそこで花見しよう】



3月30日とは、わたしの誕生日。


“あそこ”とは、去年遼平くんと3人で見つけた穴場の花見スポットのこと。



【中川/直帰】とホワイトボードに書かれてあるのを確認して、わたしも仕事を終わらせて向かった。



――それが、かれこれ1時間前。



満開手前のピンク色に膨らんだ夜桜を見上げながら、わたしは康介がくるのを待っていた。



まだ営業でまわってるのかな?



メッセージを送ってみるけど、返事が返ってくることはない。


既読すらつかない。



まあ、そのうち連絡がくるだろう。


そう思いながら、気長に待っていると――。



背後から足音が聞こえた。



「…康介!」



すぐに振り返った。


わたししかいない夜の公園の街灯に、人影が照らされる。



よく見ると、それは知った顔――。



「遼平…くん?」



それはわたしと同じで仕事終わりのスーツ姿の遼平くんだった。



「なんで遼平くんが?康介は?」



キョトンとするわたしに対して、遼平くんはゆっくりと口を開いた。



「あいつなら、ここへはこないよ」



それを聞いて、本音を言えばショックだった。


前から楽しみにしていたから。



でも、帰ろうと思ったらその得意先の社長さんに捕まったとかはよくある話。


だから、仕方な――。



「康介なら今、女のところ」



遼平くんの突然の言葉に、一瞬頭の中の情報処理が追いつかなかった。



「…えっと、“女”って?」



いい歳した大人なんだから、聞き返さなくても意味はわかる。


だけど、すぐに理解できるわけがない。



菜穂(なほ)ちゃん、やっぱり知らなかったんだ。あいつ…、浮気してるよ」




遼平くんから聞かされた、康介の浮気の事実。



大口の得意先を引き継いだから忙しくなったと言っていたのは嘘で、本当は新しい彼女のところに通い詰めていたと。



今日なんて自分から誘っておいたくせに、わたしの誕生日もろとも予定をすっかり忘れていて、直帰後彼女の家で過ごしているんだとか。


あとからわたしと約束していたことを思い出し、自分は行けないから遼平くんに迎えにこさせたというわけだ。



最近、会う機会が減ったし、連絡も取れないし――。


おかしいな、とは思っていた。



だけど、あれだけ「好き、好き」と言ってきていた康介に限ってそんなはずないと高をくくっていた。


そうしたら、本当に浮気だったとは。



騙されて悲しいというよりも、裏切られたことへの怒りのほうが今の感情の大部分を占めていた。


はらわたが煮えくり返るとはまさにこのこと。



「気分が晴れるまで付き合うけど、どっか行きたい場所ある?」


「…とりあえず、叫びたい気分」



自分でもどうしたらいいのかわからないこの怒りを、ただただ大声にして発散したい衝動に駆られていた。



遼平くんは「おっけ」と答えると、近くのパーキングに停めていた車にわたしを案内した。



康介からのアプローチで半ば強引に付き合うことになったものの、わりとちゃんとした付き合いをしていたと思う。


普通に好きだった。



だけど、他に女の子がいると知って、自分でもびっくりするくらい一気に気持ちが冷めたのがわかった。



そして、荒ぶるわたしにわざわざ付き合ってくれるやさしい遼平くんだけど、さっきから不信感を抱いてしまっていた。


康介の浮気を知ってて黙っていたことは同罪。



…“友達”だと思っていたのに。




『叫びたい気分』というわたしの要望のために、車を走らせる遼平くん。


てっきりカラオケに行くのかと思いきや、車は高速に乗った。



そして着いた場所は、真っ暗な世界に波音だけが聞こえる夜の海だった。



「なんで海?」


「ここなら思いきり叫べるから」



海浜公園の広々とした駐車場に、遼平くんの車だけがぽつんと置かれる。


もうすぐ日付をまたごうとするこの時間、もちろんわたしたち以外だれもいなかった。



シーズン中なら海水浴客たちで賑わっているであろう砂浜。


だけど、こんな春先のこんな夜更けの海は、闇が迫ってくるようで少し不気味。



でも、周りに人もいなければ民家もない。


だれに聞かれることもない。



そこで、海に向かって思いの丈をぶちまけた。


地上波のテレビなら、“ピー”が入るであろう康介への憎悪の言葉の数々を怒りのままに叫んだ。



「気が済んだ?」


「全然。でも、ちょっと喉が疲れた」



どこからか流れついた流木に腰掛ける遼平くんの隣にわたしも座る。



「てかさ、遼平くんは康介の味方じゃないの?前から浮気のことも知ってたんでしょ?」


「…まあ。『菜穂ちゃんのことはどうするつもり?』って聞いたら、『菜穂には正直に話すから』とか『今のコとはすぐに別れる』って言うから様子見してたけど…」



でも、康介は向こうとの関係を続けつつ、わたしに打ち明けることもなかった。



わたしはわたしで、まさか浮気されているなんて夢にも思っていないといった様子で、今日も待ち合わせ場所でずっと待っていた。


そのわたしの姿を見て心苦しくなった遼平くんは、康介の浮気の事実を伝えようと思ったのだ。



…情けない。


能天気なわたしは、会社の後輩に憐れまれていたようだ。



そのとき、わたしのスーツのポケットに入れていたスマホから通知音が聞こえた。


見ると、康介からのメッセージ。



【日付変わっちゃったけど、誕生日おめでとう!】



やっべ…!

そういえば、誕生日メッセージ送ってなかったじゃん。


と思い出して、慌てて送ってきたであろう感じが読み取れた。



「今さら、なに言ってんの」



わたしは康介からのメッセージをブロックし、後ろ髪を引かれることもなく連絡先も削除した。




そのあと、近くのコンビニまで歩いてチューハイを何本か買った。


いつもなら飲まないような、アルコール度数が高いやつを。



今夜はやけ酒だ。



遼平くんの車へ戻って、買ってきたばかりの缶チューハイをレジ袋から取り出す。



「飲む?」


「飲まないよ。俺が飲んだら帰れなくなるけど?」


「べつにいいじゃん。明日休みなんだからさ。お酒が抜けてから帰ったら」



本当は、帰りたくなかったのはわたしのほう。


今はそばにだれかいるから強がっていられるけど、1人になったらいろいろな思いがこみ上げてきて…泣いてしまいそうだから。



「じゃあ…」



そうつぶやいて、遼平くんは一番度数の低い350ミリリットルの缶チューハイを取った。



「それにしても康介のやつ、マジむかつく」



あれだけ海に向かって叫んだというの、康介への怒りが絶えることなく沸々とわいてくる。


自然と、飲むペースも早くなる。



「そんな無理して飲まなくても…」


「いいじゃん。飲みたい気分なんだからっ」



遼平くんは、わたしがお酒が弱いことを知っている。


3人で飲みにいって、記憶を飛ばして悪酔いする姿も見られている。



「あっ、そっか。凌平くんはこんな愚痴、聞きたくないよね。康介の親友なんだから」



あえて嫌味っぽく言ってみた。


でも遼平くんは、今はそんな言い方しかできないわたしのことを理解しているのか、余裕そうに少し口角を上げた。



「べついいよ。今回のことで、さすがに俺も付き合いきれないから。絶交ってことで」



わたしたちは見つめ合い、ニッと笑って缶チューハイを突き合わせて乾杯する。



康介、いい気味。


キープの彼女と親友を同時に失うなんて。



「そういえばこの前聞いたんだけど、遼平くんって好きな人いたの?」


「えっ…、まあ…うん」


「知らなかったー。そういう話してこないから、てっきり女の子に興味ないのかと思ってた」


「俺だって、一応…好きな人くらいはいる」



歯切れが悪い感じを見ると、酔っぱらいに絡まれて面倒くさいと思っているからだろう。


わたしだって、相手が仲のいい男友達だからこそここまで酔える。



「そうなんだ〜。わたしはしばらく恋はいいや。それに、わたしには年下はダメってわかったよ。今後、絶対年下とは付き合わない」



アルコールがまわってきたせいもあって、さらに自暴自棄になっていた。


ふてくされて、投げやりで、もうどうでもよくて。



そんな面倒くさいわたしの話を静かに聞いていた遼平くん。


わたしはというと勝手なもので、すっかり酔っ払って眠気が襲ってきた。



「…ごめん。眠くなってきた」


「そんなに飲むから〜。後ろ、シート倒すしそこで寝たらいいよ」



遼平くんは、車の2列目と3列目のシートを倒してフラットな状態にしてくれた。


思ったよりも広々としていて、大人2人が横に並んで寝ても余裕がある。



真っ暗な車内にかすかに聞こえるのは波の音。


その心地よい音がさらに眠気を誘う。



大声で叫んで、たくさん愚痴を聞いてもらって、眠たくなるまでお酒を飲んで。


思い出したら腹立たしいけど、少しは気分が晴れた。



このまま秒で寝れそう。



するとそのとき、隣でスーツが擦れる音がした。


と思ったら、わたしの唇に柔らかいなにかが触れた。



アルコールで頭がぼうっとしていたから、一瞬判断に遅れたけど…。


…キスされた。



ゆっくりと目を開けると、肘を立てた状態でわたしを見下ろす遼平くんの姿が。



「今の…なに?」


「キス」


「…なんで?」


「さぁ?好きだから…?」



なぜ語尾が疑問形。



「酔ってる?」


「あんな1缶で酔うわけない」



酔ってないのなら、ますますわけがわからない。



…もしかして、わたしを慰めようとか思ってる?



「ん、おやすみ」



そっけなくそう言うと、わたしは寝返りを打って遼平くんに背中を向けた。



いくら酔っ払ってるとはいえ、これくらいの判断はできる。


おそらくあのまま遼平くんのほうを向いて寝てしまったら、一度のキスだけでは終わらないことは想像がついたから。



一度だけなら、ただの気の迷い。



だけど、それ以降は――。


もう『友達』には戻れない。



「…菜穂ちゃん、寝た?」


「寝た」


「寝てないじゃんっ」



背中からクスッと笑う遼平くんの声が聞こえる。



「そのままでいいから聞いて?」



背中を向けていて見えないけど、遼平くんも横になったのがかすかな物音からわかった。



「さっき俺の好きな人の話したじゃん?あれ、菜穂ちゃんのこと」



心臓がトクンと鳴る。



これより先の話を聞いてしまったら、もう後戻りはできない。


聞いてないフリじゃなくて、聞こえてほしくない。



だから、早く寝よう寝ようと思っているのに、さっきまでの眠気はどこへやら。


ギュッと目をつむって視覚を遮断すると、逆に聴覚に意識が集中する。



「会社では、負けず嫌いで気が強いクールな先輩。なのに、意外と彼氏に尽くすタイプで、実は素直に甘えられない甘えベタ。それが、俺の親友だったやつの彼女の菜穂ちゃん」



“意外と彼氏に尽くすタイプ”と“素直に甘えられない甘えベタ”は、絶対に会社の同僚には知られたくないところ。


康介はきっとそんなことを気にしたこともないだろうから、知っているのは遼平くんだけ。



「親友の彼女だってわかってたけど、いつの間にかそんな菜穂ちゃんのことが好きだった」



告白――、…されてしまった。



だけど、不思議なことにいやではなかった。



浮気を知って、メンタルがボロボロだから?


一度のキスでそんな雰囲気になっていたから?


そもそも、飲みすぎて正常な判断ができないから?



理由はわからないけど、わたしの中で遼平くんが『会社の後輩』や『彼氏の親友』という枠から外れた瞬間ではあった。



「わたしは――」



寝たフリをしていたはずなのに、気づいたらそうつぶやいていた。



しかし、はっとして口をつぐんだ。



『男なんて、この世界中に五万といるのにね』



前に高野ちゃんと話していた会話が頭をよぎった。


社内恋愛で、ましてや前に付き合っていた人と仲のいい同期とよく付き合えるよね、って。



自分でああ言ってたくせに、今のわたしは遼平くんとどうにかなろうと――考えている?



それを察してかどうなのかわからないけど、遼平くんはわたしの背中に向かって小さなため息をつく。



「返事はいらない。それに、わかってるし」


「…わかってるって?」


「さっき菜穂ちゃん言ってたから。しばらく恋はいいし、今後絶対年下とは付き合わないって」



たしかに…言った。


ふてくされながらやけ酒を飲んでいるときに――。



『わたしはしばらく恋はいいや。それに、わたしには年下はダメってわかったよ。今後、絶対年下とは付き合わない』



本心かと言われたらそうでもないし、お酒の勢いでああやって吐き捨てた。


隣の運転席で、どんな想いで遼平くんがそれを聞いていたとも知らずに。



「俺はずるい男だから、傷ついてる菜穂ちゃんに寄り添ってキスしたら、どうにかなるんじゃないかなって」



あのキスは、気の迷いやわたしに対する慰めなんかじゃなく――。


遼平くんの最後の賭けだった。



「どっちにしても、いつか気持ちは伝えようと思ってたから。これでようやく諦められる」


「遼平くんは諦められても、…気持ち聞かされたわたしの立場はどうなの」


「ごめん、ごめん。でも、菜穂ちゃん起きたら記憶ないでしょ?きっと忘れてるから大丈夫」



…遼平くんは自分のことをずるいと言っていたけど、それはわたしのほう。



『もし覚えていたらどうするの?』というニュアンスをかもし出して、遼平くんを試している。


『しばらく恋はいい』、『年下とは付き合わない』と豪語した自分の言葉は撤回しようとはしないくせに。



* * *



車内の後部座席にまでまぶしい朝の日差しが差し込み、そこでようやく目を覚ました。



視界に映るのは自分の部屋の天井ではなく、手を伸ばしたら届きそうなくらいの車の天井。


すぐに、遼平くんの車で夜を過ごしたことを思い出した。



と同時に――。



『親友の彼女だってわかってたけど、いつの間にかそんな菜穂ちゃんのことが好きだった』



寝る前のことも思い出してしまった。


あんなに飲んだというのに、…全然記憶を飛ばしていない。



「……っ…!」



だけど、体を起こしたら頭がガンガンと痛かった。



「…頭痛い?二日酔い?」



顔を向けると、わたしの隣で寝ていた遼平くんと目が合う。



『俺はずるい男だから、傷ついてる菜穂ちゃんに寄り添ってキスしたら、どうにかなるんじゃないかなって』



鮮明すぎるくらいに覚えていて、気まずさにわたしは顔をそらす。



「う…うんっ、二日酔いっぽい」


「まあ、あれだけ飲んだらね。じゃあ、コンビニまでに水買いにいこ」



そうして、チューハイを買ったコンビニに水と朝ごはんを買いにいった。



コンビニまでの行き帰りの道も、酒が抜けたからもう大丈夫と言って遼平くんが走らせた帰りの車内でも、昨夜のことについて触れられることはなかった。



遼平くんの態度は、いつもとなにも変わりない。


もしかして、あれは全部夢だったのではと思えるほどに。



「そういえば、“あいつ”からなんか連絡あった?」



親友でなくなった康介をあいつ呼ばわりする遼平くん。



「ないよ。それに、全部ブロックして拒否したし」


「いいと思う。…ちなみに、そこから先のことは覚えてないよね?そんなに二日酔いになるくらいなら」



隣から聞こえた遼平くんの言葉に、わたしの気持ちが揺さぶられる。


ここで『覚えてる』と言ったら、はたして遼平くんはどんな顔をするだろうか。



「昨日の返事、今してもいいかな」



もしわたしがこう言ったのなら、なにかが変わったのだろうか。



しかし、わたしがその言葉を口にすることはなかった。



「うん。全然覚えてない」



わたしは笑ってみせた。



年下とは付き合わないとか、しばらく恋はいいとぬかしておいたくせに、今さらあの言葉をなかったことにはできない。



素直になればいいものを――。


ほんとにわたしは可愛げない。



そうして、車内では当たり障りのない会話をし、わたしの家に到着した。



「送ってくれて、ありがとう」


「どういたしまして。月曜日から会社これる?」


「当たり前じゃん。子どもじゃないんだから」



本当は、康介の顔なんて二度と見たくないとは思いつつ。



「遼平くんも気をつけて帰ってね」


「うん。じゃあ、また会社で。“三宅さん”」



――その瞬間、悟ってしまった。


遼平くんの中で、あの夜でひとつの区切りをしたのだと。



「じゃあね、“明石くん”」



わたしたちはもう友達同士に戻ることもできなければ、昨日の夜のような関係になることもない。



部屋のドアを開けて入ってすぐ、ドアが閉まりきるとともにわたしはその場に膝を抱えるようにしてしゃがみ込んだ。


その瞬間、大粒の涙が溢れ出す。



あのとき、寝たフリなんてしないで遼平くんと向き合っていれば――。


帰りの車、プライドなんて捨てて『実は覚えてる』と言っていれば――。



そんなこと考えたって、もう遅い。



* * *



高野ちゃんから、遼平くんと付き合うことになったと聞いたのは、それからしばらくしてからだった。



「この前の飲み会帰り、2人きりになったからダメ元で告白してみたんです!そしたら、オッケーもらっちゃって!」


「へ〜、そうなんだ。よかったね」


「前は好きな人がいるって聞いてたんですけどね。でももしその人のことがまだ好きでも、あたしが忘れさせちゃいます!」


「高野ちゃんならいい彼女になれるよ。おめでとう」


「ありがとうございます!」



今のわたし、――いつもみたいに笑えてるよね?



「それで今日、明石さん家にお泊りするんです!なので、定時で終われるようにがんばります!」



朝から、そう宣言していた高野ちゃん。


しかし、仕事のトラブルも挟まって思うように捗らず残業コースに。



「高野ちゃん、あとはわたしがやるから」


「…えっ、でも…」


「楽しみにしてた日なんでしょ?明石くんなら直帰してるっぽいから、高野ちゃんも帰ったらいいよ」



ペコペコとわたしにお辞儀をする高野ちゃんの余った仕事を引き継いだ。




帰りの電車。



今ごろ2人は――。


なんて考えてしまう自分に嫌気が差す。



遼平くんは、新しい恋をして先に進もうとしているのに、わたしはというと未だになにかを引きずったまま。



ところが、それから1ヶ月もしないうちに遼平くんとは別れることになったと、目を赤くしながら高野ちゃんが報告してきた。



「…好きになろうと思ったけど、やっぱり好きになれなかったって。まだ、前好きだった人のことが好きらしいんです。…それってどう思いますか!?」


「そ、そうだね。ちょっとひどい話だね」



高野ちゃんにかける言葉が見つからなかった。




「三宅さん、お疲れさまです」


「お疲れ、明石くん」



今日も社内で会えば、当たり障りのない挨拶を交わすだけ。


お互いの気持ちは胸に閉まったまま。



わたしの中には、あの夜返事をできずに後悔している想いが残っている。


だけど、今さら悔やんでも…もうあの夜には戻れない。



ただ、あの夜のときめきや、唇が触れたときの胸の高鳴りはなんだったのかと問われたら――。


たぶん、きっとあれは“恋”だった。




Fin.

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