(19) - 雨 -
次の試合までは、まだ小一時間ほど間がある。
その間に、おやつタイムとなった。
持ってきたバナナやヨーグルト、レモンの蜂蜜漬けなどを口にする。
その合間にスマホを確認すると、羽衣ちゃんたちから連絡が来ていた。
どうやら、向こうも決勝まで進んだらしい。
「向こうも順調そうだね」
「そりゃそうよ! あの娘たちが、そうそう負けないって!」
同じように連絡が来ていたのだろう。
瑞希さんもスマホの画面を見ながら、そう言った。
そんな話をしているうちに、こちらの決勝戦が始まる時間が近づいてきた。
観客もかなりの数が集まっている。
だが、雲行きは怪しい。
空から、ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。
まだ傘を差すほどではないが、いつ本格的に降り出してもおかしくなさそうな空模様だ。
「あちゃー……」
夏美や芽愛莉が、空を仰ぐ。
向こうは体育館内だから問題ないが、こちらは屋外だ。
これ以上ひどくならなければいいが……。
「でも、試合に影響が出るほどは降らないでしょ!」
「試合ができないほどではないですが、プレーには影響が出るかもしれません。特にドリブル時は滑りやすくなります。気を付けていきましょう」
僕がそう言うと、みんなが頷いた。
どうやら試合が始まるようだ。両チームが整列し、互いに挨拶を交わす。
そして――
決勝戦が、いよいよ始まった。
ーーー
決勝戦のホイッスルが、重苦しい曇天の下で鳴り響いた。
相手チームは男女混合の登録だが、スタートメンバーは全員が男性だった。あの驚異的な突破力を持つショートカットの彼女はベンチ。後半の勝負どころで投入する「切り札」としての温存だろう。
彼女が出てくれば、間違いなく攻撃のリズムはガラリと変わる。勝機を掴むなら、あのアタッカーが登場する前に、なんとしても先制点を奪っておきたかった。
しかし、立ち上がりは苦戦を強いられる。
雨を含み始めた人工芝は予想以上に滑り、ボールが走る。相手は体格を活かしたパワフルなプレスで、こちらのパス回しを強引に寸断しにかかってきた。
「焦らないで! セカンドボール拾っていこう!」
梓さんの凛とした声がピッチに響く。 その指示通り、エル・ブレイズは泥臭い守備で徐々に主導権を引き戻していった。
チャンスが訪れたのは前半10分。中盤で夏美が相手のパスを鋭い読みでカットした瞬間だった。
「綾さん!」
夏美の声に呼応し、綾姉さんが最前線へと矢のように飛び出していく。相手ディフェンスの意識がそちらへ引きつけられた刹那、逆サイドから猛然と走り込んできたのは瑞希さんだった。
綾姉さんが囮となり、空いたスペースへ夏美からの楔のパスが突き刺さる。瑞希さんは吸い付くようなトラップで前を向くと、迷わず右足を振り抜いた。 低い弾道のシュートが濡れた芝の上を滑り、ゴール右隅へと突き刺さる。
「……っ、よし!!」
僕と瑞希さんの、快哉を叫ぶ声が重なった。
この先制点は大きい。瑞希さんと目が合うと、彼女はこちらをチラリと見て力強く頷いた。言葉を交わさずとも、僕と同じ「彼女が出てくる前に叩く」という狙いを共有しているのが分かった。
その後も、1点を追う相手がフィジカルを押し出し、何度もエル・ブレイズのゴールを脅かす。パワーで押し切られそうな危ないシーンが幾度となくあったが、そこは守護神・芽愛莉が超人的な反応で立ちはだかった。
「一本も通させないよ!」
濡れたボールをしっかり抱え込み、芽愛莉が味方を鼓舞する。
結局、スコアは動かないまま前半終了の笛が鳴った。
1-0。
だが、勝負は――ここからだ。
ーーー
「お疲れさま! 前半よく守りきったね」
ベンチに戻ってきたメンバーを迎え、タオルとスポーツドリンクを配っていく。
「今日は屋外で湿度も高いから、今のうちにしっかり水分補給しておいてね」
梓さんの促しに、みんな「はーい!」と応えて喉を鳴らした。
「後半、いよいよ出てくるかしらね」
「おそらくね。向こうも一点を追う立場だし、最初から投入してくるはずだ」
瑞希さんの問いに、僕は険しい表情で頷いた。当然、あの「重戦車」のようなドリブルを見せた彼女のことだ。
「夏美」
僕は夏美を呼ぶと、彼女はスポーツドリンクを口にしたまま「ん?」とこちらに駆け寄ってきた。
「あの女性選手が出てきたら、マンマークについてほしいんだ」
「えっ、私が……?」
夏美が意外そうに目を丸くする。
「ああ。彼女のスピードは脅威だけど、君なら一歩目の出足で対抗できる。いつものように無理に飛び込まず、間合いを保って彼女の加速を殺すような動きをしてほしいんだ。一発目の仕掛けを止めてくれればいい」
「私も後ろからしっかりフォローに入れるわ。お願いね、夏美」
梓さんも隣で力強く頷いた。
単純なスプリント能力だけなら、チームで最も高いのは夏美だ。彼女が粘り強く相手のスピードを削いでくれれば、梓さんの老練な守備も活きてくる。
「……わかった。完璧に抑えられるかは自信ないけど、とりあえずやってみるよ!」
夏美は少し照れたように笑いながらも、その瞳には強い決意が宿っていた。
「よし! じゃあ、あと二十分。みんなで勝ちに行くぞ!」
「「「おーっ!!」」」
全員の声が重なり、冷たい雨の混じるピッチへと戻っていく。 いよいよ運命の後半戦が始まった。
ーーー
後半開始早々、予想通り「彼女」がピッチに現れた。
先ほどの試合で度肝を抜かれた観客から、地鳴りのような歓声が上がる。その熱狂を背負うように、彼女は開始のホイッスルと同時に牙を剥いた。電光石火のドリブル。瞬く間にこちらのゴール前までボールを運ばれる。
「ディフェンス!」
僕が叫ぶのとほぼ同時、彼女がシュートモーションに入った。 決まったか――そう絶望しかけた瞬間、夏美がその射線に鋭く割って入った!
予期せぬ障害に彼女は反応し、シュートのタイミングを一瞬だけ遅らせる。その僅かな隙を、瑞希さんが見逃さなかった。背後から電撃的なチェックを仕掛け、前後で挟み込む。自由を奪われた彼女は、苦し紛れにバックパスを選択せざるを得なかった。
「はっや……っ!」
焦燥の混じった夏美の呟きが聞こえてきた。けれど、十分だ。彼女のスピードに、夏美は間違いなく付いていけている。
しかし、彼女の存在そのものが相手チームに火をつけてしまったようだ。
試合は一気に防戦一方の様相を呈する。夏美が懸命に食らいつくが、波のように押し寄せる相手の勢いに飲み込まれそうになる。 隙を突いたカウンターを狙うものの、向こうも百戦錬磨の優勝チーム。こちらの意図を察し、冷静に芽を摘んでくる。
こういうスペースのある展開こそ羽衣ちゃんの力が生きるのだが、いない選手を当てにしても仕方がない。
激しい一進一退の攻防。押されながらも、リードしているのはこちらだ。なんとかこのまま逃げ切れば――そう願った後半10分、不運が重なった。
雨脚が強まり、観客が次々と傘を差し始めた頃。 再びあのドリブラーが、最短距離で仕掛けてきた。
「あっ……!」
鋭い切り返しに対応しようとした夏美の足が、濡れた人工芝に足を取られた。 その一瞬の空白を、相手は逃さない。夏美を抜き去った彼女が、渾身の力で右足を振り抜いた。
「くっ!」
完全にフリーで放たれた至近距離からの弾丸。流石の芽愛莉も反応しきれず、ボールは無慈悲にゴールネットを揺らした。
1-1。
ついに同点に追いつかれた。
「ごめん、私のせいで……」
顔を伏せる夏美に、瑞希さんたちが「ドンマイ!」「雨のせいよ、切り替えて!」と即座に声をかける。僕も「まだ同点だ、ここからだよ!」と叫び、みんなの背中を押した。
不測の事態は覚悟していた。ここからもう一度、立て直せばいい。 そう自分に言い聞かせ、試合は再開されたのだが……。
(……おかしい)
ピッチを駆ける夏美の動きが、明らかに不自然だった。 僕は嫌な予感に突き動かされるように、審判へタイムアウトを要求した。
ーーー
「夏美! 大丈夫!?」
「大丈夫、大丈夫……」
そう言いながらも、明らかに足を引きずっている。僕は半ば強引に夏美を座らせ、足首を掴んだ。
「っ……あぎゃっ!?」
触れた瞬間、夏美が変な声を上げて顔を歪めた。
「やっぱり……少し腫れてるね。捻挫だろう」
「うん。でも、平気! まだ走れるから!」
夏美は立ち上がろうとするが、僕はその肩を力強く押しとどめた。
「ダメだ。無理したら悪化するかもしれない」
僕が厳しい表情で告げると、瑞希さんたちも深刻な顔で頷いた。
「そうね。悔しいけど、ここで無理をさせるわけにはいかないわ」
「で、でも……っ」
それでも食い下がろうとする夏美。
交代要員はいない。残り時間は、あと10分ほど。
一人少ない状況で戦うか……最悪、棄権するか……。
――ん? 残り10分?
僕は瑞希さんと視線を合わせた。瑞希さんは僕の「意図」を瞬時に察したようで、苦々しい表情を浮かべながらも、最後には静かに頷いた。
「このまま棄権するなんて、招待してくれた運営にも申し訳ない。……僕が出るよ」
「「「ええっ!?」」」
全員が驚愕の声を上げた。
「ちょっと、翔太。あんたこそ足は大丈夫なの?」
芽愛莉が真っ先に不安そうな声を上げる。
「大丈夫。実は、10分程度ならプレーしてもいいと医者に言われてるんだ」
そう答えると、瑞希さんが「……そのあときつく止められてたけどね」とボソッと呟いた。
「でも、選手登録は?」
綾姉さんの当然の疑問に、僕は頷いた。
「こういうこともあろうかと、僕の名前も登録リストに入れておいたんだ。枠も空いてたからね」
実は、いつかこんな日が来るかもしれないと、密かに願いを込めて続けていた準備だった。
「よし! なら決まりね。監督がコートに立つんだから、絶対に逆転するわよ!!」
瑞希さんが気合を入れ直して立ち上がる。
「僕があの彼女のマークを引き受ける。瑞希さんは前線でカウンターの機を窺ってください」
「えー、私じゃないの?」
ちょっと不満げな綾姉さん。
「今日は瑞希さんが乗ってるから。ポストプレーでタメを作って、相手の隙を突けるのは瑞希さんだ」
僕が監督として冷静に判断を伝えると、「わかったわよ」と納得してくれた。
「それじゃあ、頑張ろうか」
梓さんがいつも通りの落ち着いたトーンで立ち上がる。僕はそれを見て、封印していた感覚を呼び覚ますように、軽くステップを踏んで準備運動を始めた。




