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第11章 2

「絵が出来た」

 杏からLINEが届いた時、僕は内定先への辞退のメール文を、ああでもないこうでもないと推敲しているさいちゅうだった。

 恵理子先生のところから帰った後、SNSでもネットでも図書館や書店に行っても、気になるのは不法就労問題だった。立場によってまったく正反対の議論が展開され、また専門性によってもさまざまな論点があった。実務的あるいは法制度的な情報だって溢れている。でも、見ようと思わないものは見えなくて、そうしたら無いのと同じになる。今まで見えていなかったものを、僕は発見したのだ。

 これまで僕は、どちらかといえば不法就労者イコール強制退去的な感じで考えていた。だって「不法」なのだから。法を無視したら秩序が崩壊し、社会も乱れてしまう。でも知り合いの、SNS経由のみとはいえ、かなり本音ベースを吐露し、それに答えてもらっていた彼女がまさにその当事者であって、暴行を受けそうになるところまで目の当たりにしてしまった今となっては、どうしても以前と同じではいられないのだ。

 僕の内定先の会社が属する物流や人材派遣業界に関しても、不法就労問題と同じくらい、あるいはそれ以上に、沢山の情報が満ち溢れていた。でも、僕の関心は圧倒的に「クマの子」の、不法就労問題にあった。今の僕は、物流にも人材派遣にも、どうしようもなく関心を持てなかった。

 恵理子先生の事務所にお邪魔した後、NPO法人にすぐに連絡を取った。それで事務所にも行き、そこでまた新たな話を聞けた。僕の興味はどんどん拡大し、かつ深くなっていく。「クマの子」問題への僕なりの答えは、まだ全然見えない。でももう、この問題に入り込む前には戻れない。気づいたら、ここで手伝いながら学ばせてもらえないかと頼んでいた。アルバイトみたいな形でならと言われ、それでもいいと答えていた。

 両親に、内定を辞退してNPOを手伝うという決断をどう伝えるか。親たちをきちんと納得させられなければ、先へは進めない。一番懸念されたのは、母親がまた過呼吸みたいな不安定な状態になることだった。内定を取った時には、あれほど手放しで喜んでくれたのだ。父親はたぶん、もう大丈夫だと思う。鬱になる前の状態をほぼ取り戻している。母親の方が、まだ気掛かりだった。そこが、強引な突破が許される杏の家の状況とは違う。

 父親が単身赴任先から戻った週末、夕食後に、「話したいことがあるんだけど」と僕は切り出した。どう話せば、彼らを不安がらせずにすむか、パソコンで原稿を書いて、さんざん推敲し、緊張して臨んだ。

 結果は、良い意味で、拍子抜けしたものだった。

 先に母親が、

「あなたを信じているから。自分で良いと思う方に行けばいいわよ」

 と言った。

 父もまた、

「亮太は、しなくてもいいはずの苦労を子供の頃からしてきたんだ。もう自由に、やりたいことをしていいんだよ」

 と励ましてくれた。

 正直、これが僕にとって正しい選択なのかどうかは分からない。きっと死ぬまで分からない。けれどとにかく僕は決めて、これで進んでみる。


 LINEを貰った翌日、絵を見に、杏のマンションを訪ねた。引越しの手伝い以来で一カ月ぶりだ。杏は買い物のついでだと言って、最寄り駅まで迎えに来てくれた。寒風に吹かれながら、二人で歩く。

「瑠奈っちと、しっかり話せたみたいで良かったな」

 杏には、LINEで簡単にではあるけれど、何があったかは伝えてあった。

「あの四人、瑠奈っちと俺にしても、お互い、何でも知っているつもりでいたのに、全然だなあ」

「そんなもんだろ。亮ちゃんは、やっぱ、時々ポエム過ぎなんだよ」

 杏に呆れられる。

「かもなあ」

「でもまあ、知らなかったってことを知るほどに、話せたわけだ?」

「それはそうだね」

「なら、いいさ」

「まだ陰謀論からは離れがたいみたいだけどな」

「そんなに簡単じゃないだろ。『クマの子』の件も、ボンの母親と会って話が前に進んだとは言っても、その子の居場所も分からないわけだし、これからだからな。焦って背負いすぎるんじゃねえぞ。亮ちゃんも、わたしも、一歩ずつだ」

 杏には一つだけ、敢えてLINEでは伝えていないことがあった。紫っぽい茶色の煉瓦風タイルの外装、杏の賃貸マンションが見えてくる。エントランスの前まで来る。

「さみいな。早く入ろ」

 小走りになりかける杏を、

「あのさ」

 と僕は引き止めた。

「ん? 何? 入ろうぜ」

「俺さ。就職するの止めたんだ」

 一瞬、間を置いてから、

「マジか?」

 杏の驚く顔が見られた。

「マジだ」

「何だよそれ」

「『クマの子』の件で訪ねたNPO事務所、そこにバイトで手伝いに入って、ちょっと、そっち方面に頭突っ込んでみようと思ってる」

「亮ちゃん、マジかよ」

「去年は、杏にいきなり、『就職すんの止めた』って驚かされたから、今度は俺が驚かしてやろうと思った」

「驚いたよー。そっかあ。ま」

 杏は、どん、と僕の背中をどついた。

「亮ちゃんが自分で決めたんだ。前向いて決めたんだ。いんじゃね?」

 オートロックを抜け、杏はエレベータではなく外階段をタンタンと軽く上っていく。三階まで一気にだ。玄関扉の横には、先輩と杏、二つの名字が流麗にレタリングされた表札がかかっている。

「それ、銅板から作ったんだよね」

 杏はちょっと自慢しながら鍵を開ける。

「今日、先輩いないから。ま、いても変に気にする必要の無い人だけどな」

 靴を脱いで上がると、後ろにくっついて杏の部屋に入る。引越しの時からは、作業用の机が一つ足されていた。何やらよく分からない作画道具のようなものも設置されている。絵具やまっさらのキャンバスが片隅にまとめて置かれ、部屋はすっかりアトリエっぽくなっていた。

 そして、部屋の真ん中、イーゼルに乗せられて、A3くらいの大きさの絵があった。油彩だろうか? 少年、あるいは少女にもみえる若者の肖像画だった。やや抽象化された目鼻立ちから生み出される表情は、――複雑だ。悩みながら、苦しみながら、全然楽観はしていないけれど、でも少し上を向こうとしていて、希望は失っていなくて、うっすら微笑もうとしているかのようで、これから進む方向を探している、遠くを見据えている、そんなふうに見える。

 色彩もまた複雑だ。全種類の絵の具で滅茶苦茶に塗り込めたような背景の中にあって、若者を描く色は静かで力強く、決して均一では無く色それぞれが独立し、多彩だけれどもでも溶け合い、混然としているのにとても美しい。

「これ、油彩?」

「いや、アクリル絵の具だ。なんか、こっちの方がわたしには馴染むみたいで」

「タイトルは何て言うんだ?」

「タイトルはまだ無い」

 僕がさらに絵を見つめ続けていると、杏は珍しく緊張に耐えられなくなったようで、喋り出した。

「亮ちゃんをモデルにしたわけじゃないからな」

「誰か、モデルがいるんだ?」

「うーん、亮ちゃんでもないし、ボンでもない。瑠奈っちでもわたしでもない。特定の誰ってわけじゃないんだ。みんなだよ、ここで今生きている、この、『なんだかなー』な時代の感じを共有している、全ての誰かだ」

「何かさ」

 僕は考え考えしながら言った。

「すごい複雑な表情に見える。単純に、喜怒哀楽のどれかでは言えない。でも、良い表情だな」

「そうか。良かった。そういうふうに描いたんだよ」

「あと、これから上を向こうとしている、その途中のように見える」

「ふふふ」

 杏は満足そうに含み笑いした。

「何だよ」

「この絵は、見た人が見たいように見える、それを目指した。たぶん、成功したみたいだ」

 僕は素直に言った。

「杏、天才なんじゃね?」

「やっぱり? そうかな」

 杏は誉められて、分かりやすく照れた。

 この肖像の向こう側に、僕たちみんながいる。僕、ボン、瑠奈、杏、それに高校の仲間やマンションを杏とルームシェアする先輩や、そういう人たち。それだけじゃない。杏が会ったことのない木南さんや増尾、それに僕だって直に会ったことのない「クマの子」も、みんないる。僕と同じ時代の、みんながそこにいる。

 それで、僕にはこんなふうに見えている。みんな、手探りで探している。無限にあるようでいて一つもないようでもある、明日、僕たちが歩いていくべき道を、探している。

 どうかみんな、――僕自身もだけれど、僕たちを悩ませるこの言いしれぬ重たさに負けることのないように。


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