夏至とごちそう
◇
梅雨に入り、ジメジメした日が続く今日この頃。久々に見た青空と蒸しっとした暑さに夏を感じる。
六月、湿気た空気が肌にまとわりつく、鬱陶しい季節。
この空気に触れるようになった頃から、去年のこの時期の忘れようにも忘れられない出来事を不意に思い出すことが増えた。
(たぶん、あの日もジメッとしてたからだろうな)
しんみりとまではいかないが、心なしか気分が重くなっちまうような。
俺の心と頭の中に居座り続け、なかなか離れてくれないそれ。
朝のホームルームでもやっぱりそれは俺の中で、地味に存在を主張していて、ついボンヤリとしていたら、カカカッと小気味よい音が黒板の方から聞こえた。
《夏至》
担任のセンセーが朝のホームルーム開始直後に、その単語を黒板にデカデカと書いてみせたってんなら、今日がその日なんだろう。
つまり、一年で一番、昼が長い日なんだよな。
夏に至ると書いて夏至なんて、その字面だけで冷たいものが食べたくなるな。
◆
今日が夏至だと知ったのは、朝の通勤時間だった。
なんてことはない、バス停で年配のご婦人方の世間話が聞こえただけだ。
一年で最も日が長かろうが、仕事に関わることでなし。
(いや、部署によっては関係あるかもな)
同期や後輩によると、『日中が長いのなら、その分、業務時間を延ばすか』と理不尽を宣う上司がいたり、『ちょっと早く仕事を切り上げて飲みに行くか。日のある内に酒が飲めるぞ』と部下を飲みに誘う上司もいるらしい。
ちなみに、我が部署には夏至も冬至も関係ない。
それでも、俺個人として夏至の字を思い浮かべれば、なんとなくビールが恋しくなるわけで。
◇◇
議題「夏至って何か食ったりする?」
誰が最初に訊ねたんだか。ホームルームから昼休みまでその話題で持ちきりだった。
「夏至だからって、何食べるとかなくない?」
ウチのクラスの多くは『そんなものはない』と回答。
でも、中には「たぶんアレかも」と特定の食材を挙げるヤツもいた。
「毎年、この時期になると、タコ食わされてる気がするけど、夏至に関係する?」
自信なさげに首を傾げて訊ねてきたのは安達だ。
蒸し暑くなると、おふくろさんがよく茹でダコ買ってくるんだと。
スマホで調べたら、案の定、夏至にタコを食べる風習はあった。
「親父の好物だからかと思ってたわ。けど、おふくろ、アバウトな人だから、夏至にタコ食う風習は知ってたけど、夏至がいつかわからんから手当たり次第にタコ食わしてたのかも」
安達のおふくろさんのテキトーさ、俺、見習いたいわ。
「そういや、ウチの姉ちゃん、夏至だからってやたらデカイ瓜……冬瓜って言うらしいかど、それを買ってきて、シロップ煮にしてたわ」
安達の話で直近の出来事を思い出したサトちゃん曰わく、パティシエールの姉ちゃんが夏至用に冬瓜を使って新商品の開発をしていたんだと。
サトちゃん姉ちゃん、相変わらず職人魂と商魂逞しい。
それにしても、なんで冬瓜なのに、夏至に食べる風習があんだろな?
あとは焼き餅だのミョウガだの焼きサバだの、ポツポツとだけど色んな食べ物が出てくる。中には"水無月"っつー、初めて聞くような食べ物を挙げる奴もいた。
「水無月……小豆の甘煮が乗ったういろうらしい。京都の風習だってさ」
知らない食べ物だからって、スマホで即調べたのは、料理好きのミカだ。
「ういろうって名古屋だっけ」
「モチモチしたヨウカン的な?」
「小豆の甘煮ってあんこじゃねーの」
クラス中、水無月の話で盛り上がったわりに、最終的には「夏至にタコ食べるならタコパしようぜ」に落ち着くんだから、俺のクラスのヤツら、面白くない?
◆◆
夏至。一応、風習としての知識はあるが、別に夏至だから特定の品を食べようなどとは思わない。思わないが――
(タコわさ、冬瓜のそぼろ餡掛け、茗荷ののった冷や奴)
何となく夏至に食べるもので検索を掛けて出てきた結果で、非常に酒が飲みたくなった。
◇◇◇
学校帰り、すっかり馴染みの商店街に寄れば、夏至ならではの食べ物がたくさん売られてた。
八百屋では冬瓜、ミョウガ。鮮魚店ではタコとサバ。和菓子屋では小麦粉の焼き餅やら焼饅頭が売られてて、この地域の風習ってより、夏至で調べりゃ出てくる食品を手当たり次第に売ってるのは明らかだ。
弁当屋やスーパーの総菜売り場を参考に、今日の献立を考えたり、冬瓜の大きさに目を丸くしてたら八百屋のおっちゃんにうまい食い方教わったり、鮮魚店で茹で蛸おまけしてもらったり。
なー、俺、着々と主夫度上がってねえ?
◆◆◆
「今日は夏至だし、飲みに行こうぜ」
夕方、隣の部署から同期が後輩を誘う声が聞こえた。
どうやら、夏至を理由に酒が飲みたくなったのは俺だけではないようだ。おかげですっかり晩酌の気分になってしまった。
(帰り、絶対に酒を買う)
そう決心した矢先、スマートフォンが通知音を鳴らす。『弟』からのメッセージだ。
――なー、『兄貴』センセーよー
輩じみた出だしに眉を顰めていると、次のメッセージが届く。
――今日は好きな酒買って帰んな。
これ、今晩の献立予定な
間を置かずに表示されたお品書きに、俺は思わず頭を抱える。
(あ゛ー、酒飲みたい)
◇◇◇◇
夏至で日が長くなったからったって、それでも日はちゃんと暮れるもんで。
『兄貴』が帰ってきたのは、外が暗くなってちょっとした頃だった。
「ただいま」
「へい、らっしゃい」
カランカランとガラス瓶同士が当たる音を鳴らした『兄貴』がリビングの戸を潜り、俺は的外れな応答をする。
『兄貴』が俺の掛け声に特に何も追及しなかったのは、先にメッセージで知らせておいた晩メシの献立のせいだろう。
「酒、何、買ったん? 短時間で冷やすなら冷凍庫がよくね? メシの用意すっからシャワー浴びてきな」
俺がテキパキと指示を出し、『兄貴』も言われるままに動く。
『兄貴』が心なしかソワソワしてるのは、やっぱあれかねぇ。今日が夏至だから?
◆◆◆◆
タコわさ、タコとキュウリとトマトのサラダ、タコ唐揚げ、冬瓜と鶏肉の中華スープ、ミョウガののった冷や奴、おにぎり。
今朝、夏至と聞いた俺が思い浮かべた晩酌のつまみよりもグレードアップしてるじゃないか。
「どうよ、『弟』食堂の夏至スペシャルは」
「完璧、最高、文句なしだ」
「デザートにミカンの缶詰め入りの牛乳かんもあるよ」
「張り切ったな」
「本当はタコパにするか迷った」
「それも楽しそうだ」
何でも、今日、クラスで夏至の話になった流れでたこ焼きパーティーをすることになった子達もいるのだとか。
若者のノリと勢いは時に羨ましく思う。
「たこ焼きパーティーは今度しよう。どうせなら、たこ焼き器も買うか」
「いいね。たこ焼き器買うなら、たこ焼きマスターになるよ、俺」
「試食は任せろ」
我が家の若者も大概、ノリが良い。おまけに実行力のある料理上手だから、近い内に開催されるであろうたこ焼きパーティーでは、色んな具のたこ焼きをたらふく食べられそうだ。
たこ焼きの話に盛り上がりつつ、夏至らしい晩ごはんが始まった。
まずは冷えたビールでタコ唐揚げとサラダ。ビールが無くなれば、日本酒をちびりちびりと楽しみながら他のおかずを食べていく。
タコの弾力と旨味を存分に味わいつつ、他の夏らしいさっぱりとしたおかずも堪能し、酒を煽ってひと息つく。このサイクルの心地よいこと。
「やっぱ、酒飲むと食が進むん?」
おにぎりをかじってはおかずを食べていた『弟』は、酒がない時と比べると幾分か減りの早いおかずを見て訊ねる。
「ああ。酒で満腹中枢が麻痺するのかもな」
「ひょっとして、焼おにぎり作ればいける感じ?」
「あれば」
「よしきた」
言うが早いかあっという間に台所へと向かった『弟』のフットワークの軽さに感心しつつ、窓から入る風に目を細めた。
「良い夜だな」
梅雨時に珍しい、晴れの日の夜。
網戸越しに眺める夜の景色は穏やかな闇の色に染まり、外からは微かな虫の声と、どこかの家の生活音や話し声が微かに聞こえる。
明日もまた雨が降るのかもしれない。少し湿り気を増した涼しい夜風が、酒の火照りを軽く冷ましていく。
(……やれやれ、せっかく楽しく過ごしていたのに)
夜風で酔いが少し醒めたからだろう。梅雨特有の湿っぽい空気と台所にいる『弟』の気配を感じているとふと、心の奥底に潜む憂いが頭をもたげた。
――病院、クソ親父だったもの、棺、喪服を着た"あちら"の人間、冷めた目の『弟』、墓。
一瞬、脳裏を過るのは、昨年五月の残像だ。
クソ親父が最期に遺した記憶は、まるで天気によって疼く古傷のようだ。いつまでもしつこく煩わしい。
だが、憂いが過ったとて、動じるほど俺はヤワではない。たとえ、心が揺れたとしても、それは跳ねた小魚が大きな湖面を打つ程度のものだ。放っておけばその内に鎮まる。
(案外、平然としていられるのは、『弟』のおかげかもな)
ほんの僅かに乱れがあるにせよ、心の平穏が保てているのは、俺がひとりじゃないからだろう。
この湿っぽい記憶は俺一人が抱えているわけではなく、当時、俺と一緒に行動した『弟』も共有している。
最初で最後となった親子三人で過ごした時を、その後の面倒も厄介も、それに伴うあらゆる感情も共に有する『弟』が、とても有り難いことに今日まで傍にいてくれたから、俺は憂いを強く感じずに済んでいるのかもしれない。
(お、いい匂いがしてきた)
カチャカチャと物音が聞こえる台所から、味噌と醤油が焼ける、なんとも香ばしい匂いが漂ってきた。
食欲をそそる匂いに思わず喉が鳴る。その時にはもう、湿った空気がもたらした憂いはすっかり鳴りを潜めていた。
酔いだけではない暑さ、少し湿った空気と風、虫の声が聞こえる穏やかな夜、美味い酒と肴。
日中の照りつける日差しと屋内のやたらと冷える冷房以外で感じられる季節を、俺は今、存分に楽しんでいる。
◇◇◇◇◇
「どうして、今日はこんな手の込んだご馳走にしたんだ?」
熱々の焼おにぎりをフーフーと吹き冷ましつつ訊ねる『兄貴』に、俺はジンジャーエールを片手に、どうしてだかね、と笑う。
ちなみに、このジンジャーエールは『兄貴』が酒と一緒に買ってきたお土産だ。クラフトビール工房で造られたオリジナルのジンジャーエールなんだと。
せっかくだしと飲んでみたら、辛口でスパイスが効いててうまい。スカッとした夏の味だ。これなら、今日のおかずとの相性も悪くないかも。
「ご馳走にした気はないけどさ、強いて言うなら、夏至だからかな」
今日が夏至と知った上に、うまい具合に夏至に食べるものが何かを知ったから。
風習に従うのも粋ってもんだし、夏至という"これから暑さが本格的になるぜ"って目安みたいな日に、健康祈願のご利益がありそうで疲労回復もできそうなモンを食っとけば、暑い夏を元気に乗り越えられそうな気がしたんだ。
夏至だから。そんな簡単な回答に、『兄貴』は「季節感を重んじるのは良いことだ」と、何故だか嬉しそうに笑う。
「なあ、ジンジャーエールを一口くれないか」
「応」
買った酒を平らげた『兄貴』に空のグラスを差し出されて、一つ返事でジンジャーエールを注いでやる。
焼おにぎりにジンジャーエールは合うのか心配だったけど、『兄貴』は気にならんかったみたい。
「これから本格的な夏が来るんだろうな」
夜風に当たる『兄貴」は、酒を飲んだせいか目許も頬も少し緩んで、普通にしてても微笑んでいるみたいだ。ってか、『兄貴』、これ、結構酔ってねえ?
「二年目のこの時期はもっと思うところがあるかと思ったが……」
ポツリと呟いたきり『兄貴』はそれ以上を話すことはなく、ただジンジャーエールを飲むだけだ。
"二年目"――それが何を意味するのか、即座に理解した俺は曖昧に苦笑して、『兄貴』同様、ジンジャーエールのグラスを傾けた。
(『もっと思うところがあるかと』か)
昨年のこの時期、それぞれひとりだった俺たちは曲がりなりにも親だった人を亡くしたのをきっかけに、ふたり暮らしを始めた。
あれから一年が過ぎた今、今朝の俺みたくちょびっとしんみりすることも、『兄貴』にだってあったんじゃないかな。
さっきの口振りと窓の外に広がる夜空を眺める遠い目で、なんとなく察してた。
(俺だって、爺ちゃんとか母ちゃんの一周忌のときくらい、しんみりするのかと思ってたんだけどさ)
けど、今回はわりと平気なんだよな。
これ、多分だけど、『兄貴』がいてくれるからだと思うんだ。
少なくとも今、独りぽっちの寂しさはないもん。
「俺ら、二人揃って元気に楽しく暮らしてる。それでいいじゃん」
夜風に吹かれてた『兄貴』は、俺の返事に無言で頷いて、ゆるりと笑った。
夏至の夜。外の闇は少しずつ深まり、風も気温も少しずつ冷えていく。
とても穏やかな夜だ。




