父の日に、花とケーキとコーヒーを
◇
暑い昼下がり、いつもの商店街では青いチラシが至る所に張り出されてる。
(青が涼しげで夏らしいじゃん。なに勧めてくれてんの?)
間近にあるそれを注目したら予想したものと違った。
《父の日》
その三文字に「あーね」と苦笑する。
俺に無縁なモンだわ。親父いねーし。
(あれ? けど待てよ)
◆
Webで、店で、職場で、テレビコマーシャルで《父の日》の話題が上がると白けた気持ちになるのは今に始まったことではない。
ECサイトでなんとはなしに見た父の日特集では、"感謝"の文字が入った日用品やラベル、パッケージが並び、せせら笑う。
(あのロクデナシに何を感謝しろと?)
◇◇
六月第三日曜。
ちょっといいコーヒー、夏の果物を使ったケーキ、仲良しのジジババから分けてもらったゼラニウム、そして、食卓に並ぶそれらを見つけて、目をまん丸くする『兄貴』。
「今日は俺かオマエの誕生日だったか」
「ンなわけないでしょーよ。父の日だよ、父の日」
◆◆
「父の日?」
「父の日」
「……父の日??」
「父の日だって」
素敵な午後のティータイムを前に、しつこく同一単語で問答をすること数度。
(どうしよう。理解し難い)
眉間に人差し指の関節を当て、苦悩すること数秒。
「えぇと……死んだことに感謝とか?」
「……『兄貴』」
「はい。すみません」
いくらなんでも駄目だな、これは。我ながら不謹慎が過ぎましたね。『弟』の教育に悪い。反省。
◇◇◇
(すげぇな『兄貴』)
親父がクソ野郎なのは全面的に認めるけど、そういう感謝は俺も流石にしねえわ。怨恨極まってんなー……って、おや?
『兄貴』の目、泳いでんね。あらら、うなだれて頭抱えちゃったよ。
(多分だけど『兄貴』、自分の失言に反省からの自分でドン引きの流れ?)
「今のは前言撤回で頼む」
「応」
『兄貴』が親父以外のことに関しては、健全な思考の持ち主で良かった。
気まずげな『兄貴』を前に、咳払いをひとつして気を取り直す。
「ところで、父の日ったらさ、何も実父だけが対象じゃなくてもいいじゃん。俺は親代わりとして世話になってる人に、日頃の感謝を伝えたかったわけですよ」
「んん?」
『親代わり』の言葉に『兄貴』がおもむろに顔を上げた。
ゆっくりと首を傾げて、もの言いたげに俺を窺った『兄貴』は、そろりと控えめに自分に人差し指を向ける。
――親代わりとは、俺のことか?
暗に問う相手に、黙って頷く。
寧ろ、親代わりっつって『兄貴』以外に誰がいんだよ? 爺ちゃんも親代わりだったけど、そっちは敬老の日があるし。
そんなわけで、俺は『兄貴』に向き直り、そそくさを居住まい正して、相手の顔を見詰めた。
「『兄貴』と一緒に暮らして、色々よくしてもらってるから、俺は毎日、元気に過ごせてます。『兄貴』、いつもありがとう」
◆◆◆
インスタントじゃないコーヒーも、日頃は飾ることのない花も、ケーキも、感謝の言葉も全部、父の日のもので、『弟』にとってのそのちょっと特別な日の主役が誰かというと――
「俺に?」
「そ」
頷く姿に何度もまばたきを繰り返したのは、目の前の相手が眩しく見えたからだ。
面と向かって感謝されて、感極まっていたところで、『弟』が右に左に視線を彷徨わせた後、「やー、いやー」と上擦った声を上げる。
なんだ、どうした?
「たくさん世話になってるわりに、お礼がほんのささやかだけどな。あとさ、いくら俺の親代わりとか保護者ったって、『兄貴』に感謝するのが父の日ってのはちょっと違うかなーとは一瞬、思ったよ。けど、兄の日なんてないじゃん。俺が一年に一度はしっかり『兄貴』に感謝の気持ちを伝えたくても兄の日がないのなら、やっぱ父の日かって。ほら、兄も父も家族に変わりないんだしさ。
あー、でも、『兄貴』が父親扱いされるの気に食わんかったら、このおやつとか花は父の日云々じゃなく俺の気まぐれで、自分は付き合わされたくらいに思ってくれて構わねーよ、うん」
マシンガンだった。『弟』は俺と比べれば断絶、口まめではあるが、今のは流石に饒舌が過ぎる。
取り敢えず、『弟』が俺への感謝を伝えるのに、父の日を選んだ経緯はわかったが、あまりにも口早だったので、話をすべてきちんと聞き取れたか怪しいところだ。
おまけに、怒涛と表しても過言ではないマシンガントークの勢いに気圧されて、返事がなかなか浮かばずにいる。
「ひ、一息だったな」
勢いよく捲くし立てたせいで、息が上がっている本人を前に、やっと返せた言葉は只の率直な感想だった。気の利いた言葉一つ返せない間抜けさが、我ながら情けない。
「おう。ご静聴、ありがとうございました」
ご静聴というか、相槌を打つ隙さえなかったのだが。
(フ、耳が赤いな。そんな、真っ赤になるほど息せき切って話さずとも、俺はちゃんと最後まで話を聞くのに……って、いや、もしかして)
『弟』の耳が赤いのは軽い酸欠などではなく、単に照れているのではないか。
俺に感謝を伝えるのが妙に気恥ずかしくて、伝えた後も少しずつ照れくささが増して、やがて間が持てなくなり、しどろもどろに喋り倒したとしたら。
(おや、顔を逸らした。俯いたな。わかりやすいヤツめ)
どうやら、俺の推測は当たりらしい。
耳だけでなく頬を赤くして俯いた『弟』をつい、かわいいと思った。
◇◇◇◇
世話になった人に感謝を伝えるって大事なことだけど、一対一で面と向かってのお礼って、緊張するし、照れくさくない? こうして、花だのケーキだのって、ちょっと特別感のあるモノを挟んだら、なおさらこっぱずかしさが倍増しちまうのな。
お礼を言う前から照れちゃって、言ってからもジリジリと照れが増して臨界点突破して、無駄に捲くし立てちまった。
(なーにやってんだ、俺)
今は一人、脳内プチ反省会中。
あー、恥っずかしーって、耳から顔へと広がる熱さを自覚して俯いてるとこ。
あと五秒でなんとか気持ちを整えて、平静を装っておやつ食おうって決めたところで、向かいから噴き出す声が聞こえた。
「フハッ、フッ、クックック」
俺の弾丸トークに、さっきまで呆気に取られてた『兄貴』が笑ってる。
「なんだよ」
「や、すまない。オマエがかわいくて、つい」
「かっ……かわいいとか。男に言う言葉じゃなくね?」
俺、女こどもじゃねーし、言われても嬉しくねーし。
「俺をからかわんでいいから、ケーキ食って。コーヒーも冷める前に飲もうぜ」
自棄になって、今日が主役と俺が勝手に決めた『兄貴』よりも先に、目の前のケーキの制覇に掛かる。
俺のはメロンが乗った贅沢なショートケーキだけど、恥ずかしいやら複雑やらで、味があんまりしないし。
「からかっているわけではないんだ。ただ、オマエが俺の愛すべき家族であることを実感して、今改めて感謝をしているところさ」
「そうかよ」
「そうだぞ。では、有り難くいただきます」
『兄貴』は丁寧にフォークを取り、メロンのレアチーズタルトを一口食べ、コーヒーを口にした。
「うん、どちらも美味しいな」
穏やかな表情で小さく頷き、またフォークを手にする『兄貴』を見て、安心する。コーヒーもケーキも、どれにしようか迷いに迷った甲斐があったな。
◆◆◆◆
ケーキとコーヒーの最初の一口をつぶさに見守っていた『弟』が、俺の『美味しい』の一言で笑顔になった。
その嬉しそうな表情から察するに、『弟』が俺の口に合うコーヒーとケーキを頑張って選んでくれたようだ。
厳選されたおやつと、懇意にしている方から分けて貰ったという花、照れながらも心を込めて伝えた感謝の気持ち、そして――
(『一年に一度はしっかり『兄貴』に感謝の気持ちを伝えたくて』か)
危うく聞き逃すところだったが、確かに聞いた発言には『弟』の真心が込められていた。
「オマエは義理堅いな」
ケーキを完食して、残ったコーヒーを味わいつつ告げれば、相手は新たに作ったカフェオレを飲みながら首を傾げる。どうやら自らが義理堅いという自覚はないようだ。
今の『弟』くらいの、多感な年頃の子どもが果たして、身内から世話されることを当然のものと思わず、それを恩義と捉えるだろうか。
そして、身内に限らず受けた恩義に対して、誰に言われずとも自分が今できる範囲で最善を尽くした上で、謝意を素直に伝えることができるその心が、どれだけ大事なものであるのか『弟』は気付いているのだろうか。
(この花の元の持ち主も、この子の義理堅さを知るからこそ、花を分けてくださったんだろうな)
花の元の持ち主に心当たりはある。家族ぐるみで付き合いのある、気のいい老夫婦だ。
昨秋のある出来事がきっかけで出会い、人懐っこい『弟』をまるで実の孫のように可愛がる彼らならば、『弟』から事情を聞き、花を快く分けてくれるだろう。
彼らがより分けてくれた、汚れひとつない綺麗な花はそのまま『弟』の真心を表しているようだ。
(俺が今のお前くらいの時分には、感謝を伝えるどころか反発してばかりだったのにな)
クソ親父への反発は言わずもがな。母にも世話になった人たちにも心の中で感謝はすれど、気恥ずかしさから謝意を言葉や態度で示せずにいた。
"ありがとう"のたった一言を伝えよう努めもせず、しまいには言わずとも伝わるだろうと思い上がる始末。結果、ついぞ感謝を伝えぬまま、母も世話になった相手も失ったことを今でも悔やみ続けている。
そんな愚かな俺には、はにかみながらもきちんと頭を下げて感謝をする『弟』が、ひどく眩しいものに見えた。
(俺に感謝なんてな。それを向けられる資格があるのかも疑わしいのに)
『弟』の世話といっても、俺は保護者として当然のことをしているまで。それもほんの些細なことしかしてやれていない自覚がある。それどころか、こっちの方が『弟』の世話になってばかりなのに。
カップの底にほんのわずかだけ残ったコーヒーをそれてはなく見詰めて、苦笑する。
◇◇◇◇◇
「そうか」
コーヒーがすっかり冷めてまずいのか、カップの中を凝視して何やら思案していた『兄貴』が、良いことを思い付いたと言わんばかりにパッと顔を上げた。
「弟の日を作ろう」
「ねえよ、そんなん。なにそれ」
さっきの、俺が義理堅いってくだりも含めて、なんかおかしなこと抜かしてんな、コイツ。
「いや、俺も日々、オマエに世話になっているからな。俺だって、オマエに感謝の気持ちを目一杯、伝えたい。だから、弟の日だ」
「だから、ないって、そんな日。つーか、感謝なんて俺がちょっと何かしただけで、倍返しかってくらいしてくれるじゃん」
毎日、俺がメシを作ってくれるからって、会社帰りにお土産買ってくるのが良い例だ。メシとか、俺が食うものを多めに作ってるだけなのに。『兄貴』の方がギリガタイんじゃん。
「そうだ。兄への感謝を父の日に当てたのなら、弟は母の日にするか」
「関連がねーよ。俺、オマエの母ちゃんじゃねーし」
「なら、敬老の日にするか?」
「人を勝手に爺にすんな」
ああでもないこうでもない、それは違う、と『兄弟』揃ってつまんねーこと言い合う、父の日の昼下がり。
食卓の上で、欠けたカップに生けたゼラニウムが何かの弾みで傾ぐ。なんだか、やれやれと椅子にでももたれ掛かるような絶妙な角度なもんだから、『兄弟』の馬鹿話を聞かされているゼラニウムが、俺たちに呆れているみたいだ。
六月のほんの少しだけ蒸し暑い部屋の中、窓からの風に吹かれたゼラニウムが、俺たち『兄弟』を宥めるように甘い香りを漂わせた。




