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ひとりじゃなくふたり  作者: 三山 千日
七週間後の憂鬱

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34/52

予想外の冒険とぎこちない食事会 new!

 ◇


 お寺さんから車で約五分強。県道を北上し、一つ目の交差点を左折。片側二車線の道を直進し、三つ目の信号のある交差点を右折してすぐ、左手に目的地の看板があ……った。


「行き過ぎた! 今、ありました、看板と店」

「えぇ? 看板なんてあったかしら」

「あったっス。鮨って書いてました」

 美のりさんのご厚意で乗せてもらった彼女の車。その助手席からどんどん後方へ遠のいていく鮨屋の看板を見送った後、慌てて手許のスマホを確認した。


「この道を左折して店の裏手から入るか、折り返すか、かな。どっちにしますか」

「どこかで右折して元の道に戻る」

「なんでぇ?!」

 どうして、大回りしてまでさっき通った道に戻るわけ?

「知らない道を進むより、一度は通った道に戻れば、もう迷うことはないわ」

「その理論だと、折り返しでもよくないスか」

「こんな、交通量の多い所の対向車線を越えたくないのよ」

(どーゆーこと?)


 対向車線なんてタイミング見計らってさっさと越えりゃあいいでしょうよ。何故、いくつかあるルートで一番効率の悪い選択肢を取るんだ?

 この人、運転にも不安があるんか? マジで何考えてっかわからん。


 しかし、今は戸惑ってる場合じゃない。何故なら、この運転手、目的地を通り過ぎたのがわかってんのに、ひたすら前進しっぱなしなのだ。右にも左にも曲がらなければ、折り返しも路肩に停めることもしない。

(ヤベー、鮨屋がみるみる遠ざかる)


「じゃあ、この交差点を右折しましょう。んで、テキトーなとこで右折すりゃあ、その内、元の道に戻るっしょ。な、『兄貴』」

 右折でも左折でもいいから、ひとまず直進は回避したい。その思いで、助手の提案をはね除ける運転手へのフォローを頼もうと、後部座席の『兄貴』を見る。

(あ、ダメだわ、こりゃ)


 眉間に皺を寄せて、スマホを見てるのは良いとして、そのスマホが横に倒れてんだもん。何してんの、このひと?

(今見てんのが地図アプリなら、それひょっとして、地図の方角を見失ってるってコト?)


 オモロイ。車内にいる大人たち、揃って何がしたいのかわかんねえ。



 ◆


 紆余曲折ありながらも、なんとか辿り着いた鮨屋。

 個室に通された俺と『弟』は、化粧を直しに行った久慈さんがいないのをしっかりと確認した後、同時にうなだれた。


「なんだろ、カーナビキラー?」

 諦念から生じたと思しき半笑いの『弟』が、用意されていたお膳をぼんやりと眺めながら呟く。

 おいしいものに目がない『弟』が、ご馳走そっちのけで先の移動を振り返ってしまうくらい大変な冒険だった。


「俺たち、地図アプリがバグるくらい迷走してなかった?」

「そうだな。似たような景色の住宅街の中をグルグルと回っていた時は、ほんのちょっとだけ、このまま脱出できないんじゃないかと焦ったな」


 『弟』はちゃんと、地図アプリの案内に従って、指示していたのだ。しかし、彼女が何度か、勘を頼りに案内にない道に入ったものだから、迷いに迷い、ふと気付けば、寺に戻っていた。

 二度目の道ではもう迷いたくない一心で、『兄弟』揃って鮨屋の手前で「ここです!」と指差し付きで叫んでしまったな。


「茶碗蒸しが冷める前に着いてよかったよ」

 車で五分の道のりのはずが、目的地を通り過ぎたばかりに、三倍以上も時間が掛かるとは思わなんだ。その間、必死で道案内をしていた功労者が、茶碗蒸しの蓋をつついてしみじみと告げる。

(コイツには頑張ったご褒美に、ケーキでも買ってあげよう)

 だが、その前に――


「あの、大変言い難いが、お斎の後にも道案内があります」

「へい。がんばりやす」

 ガクリ。テーブルに突っ伏した『弟』に、俺は「不甲斐ない『兄』で申し訳ない」と深々と頭を下げて、手を合わせたのだった。



 ◇◇


 刺身、寿司、天ぷら、茶碗蒸し、焼いた海老、煮しめ、煮豆、白和え、なんかよくわかんないけどうまい野菜と魚介類のゼリー寄せみたいなやつエトセトラエトセトラ――うん、まあ、一言で言えば、ごちそう。

(ごちそううれしい。けど、味がわかんねっす)

 なんでって、だって、俺にはこの食事会の後、"墓への道案内"っつう罰ゲー……重要な役割が控えているからだ。


 道案内なんて、地図アプリがありゃヨユーと思っていた時が俺にもありましたよ。超方向音痴の『兄貴』をナビできたんだから大丈夫っしょ、って。

 けどさぁ、今回はさぁ、なんつーか、無謀くね?

(今食ってるごちそうがすっかり消化されるまでに、家に帰り着けるんかな)


 今し方、五分の道のりが十五分オーバーになるような迷走の旅を体験した身としては、この後の墓参りの道でうっかり遭難しないか、不安でしかないんだよ。そりゃ、心ここにあらずで、焼き海老を殻ごと尻尾まで食っちゃうって。

 なんか、バリッバリ殻を噛み砕く音で、向かいの席にいる美のりさんがすんげえ目を俺に向けてるんだけど、悩みの種はアンタなんすよねー。そんなん言えんけど。



 あと、すげえ気になるんだけど、なんでここにいる人たち、誰も声出さんの?

 俺は頭の中でこれから寄る場所が駅以外にないか考えたり、店員さんが空いた皿の片付けと新しい料理の配膳してくれてる間にこっそり地図を見て経路の予習をするのに徹してるんだけど、『兄貴』も美のりさんもただ黙々と飯食ってるだけだし。

 話すことないんかな? 確か、面識あるんだよな、この二人って。久し振りに会うんなら、近況報告とかしてもいいだろうに。

 これは俺が気を利かせて、場の空気を暖めるべきなん?


(『べき』て……ウケる)

 会話する相手、いる場所と状況によって、それ相応の対応をするなんて慣れたもんだと思ってたけど、今ほど、自分がどんな顔して、どんな態度でいりゃあいいのかも、この場がどんな空気であるのが正解なのかもわかんねえことはねえな。



 ◆◆


 気まずい。異母兄弟と父親の元妻の組み合わせなんて、先程のご住職のような緩衝材や橋渡し役が不在の今、どう接したものか悩む。しかも、俺は続柄以外に、ある事情から彼女に嫌われているから余計に気を遣う。

(だが、だからといって、黙したままというのもいただけないし)

 久慈さんも『弟』も(そして俺も)、故人を偲ぶ気が特にないにせよ、法事に集った人達にひたすら気まずい時間を過ごさせるのは、今回の法事の施主としてあまりに不躾ではないか。

(何か、無難に話せる話題はないか。えーと)


 思考を巡らし、やっと思いつく。

「先程、お寺で窺いましたが、久慈さんは帰国したばかりなのですよね。"茶園"のアトリエにはもう顔を出されましたか」

 美しい所作で食事を摂っていた彼女は、俺の問い掛けに箸を止める。

「そちらには八月に半月ほど滞在する予定です」


(八月に半月? お盆に掛かりそうだな)

 クソ親父と縁のある人から盛夏の頃の予定を聞き、脳裏に"初盆"の字がちらつく。

 今年は……というか、もう既に来月の話になるが、クソ親父の初盆を控えている。久慈さんが今日の四十九日法要とお盆に掛かるタイミングで日本に滞在しているということは、今回の帰国はひょっとして、クソ親父を弔うためなのだろうか。


(……いや、違うな。彼女は"あのひと"のために、お盆に帰ってきたと考える方が自然だ)

 思うことも久慈さんに訊ねたいこともあるが、今はこの食事会の雰囲気を和らげることに努めよう。



「庭園と野山のスケッチに良い時季ですね。暑気も茶園の方がいくらか穏やかでしょうし」

 ようやく思い付いた話題を足掛かりに、当たり障りのない会話をしようとするが、頭の中ではまだ、八月の初盆が引っ掛かっていた。


(初盆、"あちら"はどうするつもりだろうな)

 "あちら"ことクソ親父の実家では初盆の際に、親戚縁者を招いて初盆会を行う風習がある。

 しかし、あの男をことごとく嫌い、今回の四十九日法要も俺に丸投げし、顔すら出さないような消極的な人達だ。初盆会を行うとは到底思えなかった。


(確か、"あちら"ではこの一年、クソ親父以外に新亡者はいなかったな)

 その認識が誤りでなければ、誰かの初盆会に紛れさせる形で、アレの戒名と遺影を祭壇にシレッと並べることもできないというわけだ。

(クソ親父だけのための初盆会……ないな)

 それでも一応、"あちら"に初盆会の実施について、お伺いを立てねばなるまい。

(どこまでも面倒な)


 脳内にてタスクリストに項目を追加しつつ、込み上げるため息を押し止めようと、蛸の刺身を口に放る。

 噛み締める毎に滲み出る蛸の旨みには、たっぷりと付けた辛子酢味噌の舌を刺す酸味と辛みがよく合う。

 弾力抜群の茹で蛸に、面倒な者らへ向ける鬱憤を込めてしつこく咀嚼する。

 ふいに出た小さな吐息は、よく噛んで顎を疲れさせた蛸のせいにしよう。



 ◇◇◇


 『兄貴』、茹で蛸が気に入ったんかな。えらく長いこと咀嚼してる。まさかとは思うけど、飲み込めないわけじゃないよな?

 こっそり横目で窺っていると、次の一切れを摘まもうとしてるから、話すタイミングを逃すまいと、口の中の太巻きを慌てて飲み込んだ。


「なあ、さっき言ってた"茶園"って、"あっち(本家)"の家がある集落のことだよな」

 太巻きが窮屈そうに通過したばかりの喉をお茶で潤しながら訊いたら、『兄貴』が頷く。

「茶園はただの俗称だけどな。あの地区は昔から茶葉の生産が行われていて、とにかく茶畑ばかりだから、地元の人には地名よりも茶園と呼ぶ方が馴染み深いんだ」


 クソ親父の故郷であり、『兄貴』もしばらくの間、過ごしていたという地域。

 前に『兄貴』から見せてもらった、そこの風景写真を思い描く。

(うちの爺ちゃんとことはまた違った田舎だったんだよな)

 写真中央には本邸と呼ばれる"あっち"の屋敷と近隣の家があって、それを囲む形で茶畑と山が広がっていた。



「確か、"あっち"って、元はお茶農家だっけ」

「そう。先々代が茶畑の拡大と卸売業を手掛け、先代が今の飲料製造業を設立したんだ。この辺りの事情は以前、ほんの少し話しただけなのに、よく覚えていたな」

「そりゃ、ちっとは気になるし」


 気になるっつっても、その対象は"あっち"の人らじゃない。出自だけ気にして俺自身を見ようともせず、拒むばかりの奴らに関心なんか持つかっての。

 ちょっとだけとはいえ興味があるのは、自分のルーツだ。それにこの間、『兄貴』が"あっち"に呼ばれたら俺も同行すると約束したからには、ある程度の情報は得ておきたい。


「農家の方はもう全然やってねえの?」

「全然というわけではない。自社農園の管理は先の代で近隣農家に委託したが、一区画は今も"あちら(本家筋)"が担っているからな」

 先代――爺さん達の代までは農業をしていたんだ。会社勤めより農業を継続する人も普通にいそうだ。


「あの方々は茶葉へのこだわりが強い変じ……研究者肌の職人で、茶園での最高級品を扱っているわね」

(今、変人って言いかけた?)

 珍しく、美のりさんが補足してくれたと思ったら、なんか一瞬、悪口が聞こえた気がするんだけど。『兄貴』を窺ったら、こっちは苦笑してるし。


(茶葉作ってる人達、クセが強いんかな)

 掘り下げる気はないけど、"あっち"の人らって、どいつもこいつも一筋縄ではいかない人ばっかりなんか?



 ◆◆◆


 食事会の席を少しでも和やかにできないかと、久慈さんに話し掛けて正解だったようだ。

 俺の話に乗る形で『弟』が茶園について訊ねてくれたおかげで、場が妙な沈黙に支配されることはなくなった。


「『研究者肌の職人』が作る最高級茶とか、どんな感じか超気になる。なあ、屋敷からは自分とこの茶畑が見えるんだよな」

「ああ」

 集落一の敷地面積を持つ邸宅は、防犯の為に高い塀に囲まれているが、二階からは茶畑が展望できる。

「なら、職人さん達、家にいても茶畑見守ってたり、ずっとお茶のことを考えてそう」

「……」

 『弟』が軽い気持ちで言った憶測に、俺は無言で薄く笑う。この反応に相手は察するものがあったのか、やや楽しげな様子で軽く身を乗り出す。

「やっぱ、そうなん?」

 この問いに関しては、ノーコメントとしよう。下手に口を開いて、墓穴を掘りたくない。

 お口チャックで『弟』から目を逸らしていると、向かいから再び声が上がった。


「貴方が茶園に赴く機会があるのならば、下手にお茶の話はしないことね。でなければ、延々と茶葉の話を聞くことになるから」

「わー、その人らの緑茶愛が半端ねーのだけはわかった」

 やっぱ、長年、お茶に携わるだけあって、誇りとこだわりがあるんだなあ――なんて、本日、何杯目かの緑茶を啜りながら『弟』は感心そうに呟く。まあ、それは否めない。



(それにしても、コイツが"あちら"のことを訊ねるとはな)

 "あちら(本家)"は『弟』とは縁を断ったものと見做しているし、コイツ自身もクソ親父の通夜の際に、"あちら"における自身の立場を認識させられた。それ故に、『弟』は父方の親族関係については関心がない様子だったが、今回の四十九日法要でクソ親父と縁のあったご住職と久慈さんと出会うことで、心境の変化があったのかもしれない。

(もしくは単純に、俺と同様に、この場の雰囲気をどうにかしたくて、仕方なく話を合わせてくれたかだな)

 とにかく、理由なんてどうでもいいのだ。『弟』が知りたいのであれば、俺は『兄』として、できる限り教えるまでなのだから。



「なあ、茶園の屋敷って、昔からずっと同じ所にあんの?」

 『弟』の質問はなおも続く。

 話の間も『弟』がお膳に向ける箸は止まらないから、そちらの器は着々と空になっていった。そろそろ、次の料理が運ばれてくるだろう。


「ああ。本家の邸宅は徐々に増築してはいるが、場所は昔と変わらずだな。以前、集落の写真を見せたのは覚えているか」

 写真とは言ってもスマートフォンで撮影した画像だが、『弟』にはそれで通じたようだ。軽く頷く。

「俺の知る限り、見た目はずっとあんな感じだよ」

 手持ちの画像はかれこれ十年ほど前――俺が集落を離れた大学入学間際――に撮ったものだから、今の様相とはまた少し異なるが、誤差の範囲だ。


「さっきの『兄貴』と美のりさんの話じゃ、茶園にアトリエがあんだよな。もしかして、そこが美のりさんの作業場? そこも茶畑のすぐそばにあんの?」

 問われ、おもむろに久慈さんを窺った。さて、アトリエの主の手前、どこまで説明したものか。

 逡巡していると、久慈さんが俺の視線に応えてか、「そう」と端的に返事をした。それに対して、『弟』が「へえー」と明るい声で相づちを打つ。


「茶畑を臨むアトリエかぁ。なんか、風情があるなあ。美のりさんは今もそこで、茶畑の景色をメインに描いてるんですか」

 茶畑メインの絵と言われると、緑色の主張が強そうだなと想像してたら、美のりさんが首を軽く横に振った。


「あちらの先々代は商売上手な好事家でいらして、茶園の一部を直売所兼茶房付きの庭園になさったの。私のアトリエはその庭園の一角にあるわ」

「なるほど、そこの景色とか植物も描いてるんスね。ってことは、画家さんがアトリエを構えたくなるくらい良い景色ってことか」


 まだ見ぬ風景を想像しているのか、腕組みをして軽く天井を仰ぐ『弟』の表情は楽しげだ。

(日帰りの観光としてなら、その表情は合っているな)

 滞在するとなると、見たくないものまで見ことになるので、話は別だが。


 来月はクソ親父の初盆も控えているし、もしかすると俺も『弟』と共に茶園を訪ねることになるかもしれないと、隣で楽しげな少年を横目に思う。

 もし、本当にふたりで茶園に赴くとすれば、その際は茶畑を臨むだけじゃなく、アトリエに寄らせてもらおうか。

(そうすれば、あのひとのことを少しだけ、教えてあげられるかもしれないしな)


 爽やかな緑の茶畑にぐるりを囲まれ、季節の花々に彩られた庭園の傍らに、ひっそりと佇む久慈さんのアトリエを思い浮かべていると、ふと、湯飲みを持ち上げる久慈さんが視界に入った。


「邸宅と離れの中にいる人間はさておき、まわりの景観は申し分ないわよ」

「……」


 久慈さんの"あちら"の人間に対する辛口な物言いに、俺は思わず引きつった微笑を浮かべた。



 ◇◇◇◇


(うん。ほぼ、俺と『兄貴』しかしゃべってねーけど、変な緊張感は薄れてきたんじゃね?)

 『兄貴』が意を決して美のりさんに話し掛けたのをきっかけに、俺が質問の形で会話を繋ぎ、ごくまれに美のりさんが返事をくれる。

 この場の雰囲気はまだちょっとぎこちないものの、もとより本妻と愛人の子なんて気まずい顔ぶれなんだもん、会話が続くだけ御の字っしょ。


(おもれーのは、クソ親父の法事なのに、アイツの話題がこれっぽっちも出ないことだな)

 でも、それでいいんじゃねーの。少なくとも俺はそう思ってる。だって、変な緊張感が緩んできて、ごちそうの味がちょっとずつわかるようになってきたところで、メシがまずくなる話とかいらんし。

 ともあれ、今の調子ならこの後の車の旅も少しは楽になるんじゃねーかな。


(いや、なるか?)

 うん。やっぱり、まだ気が重いかも。

(せめて、迷ってもすぐにリカバリーできるように、経路の予習をしとくか)

 デザートが出されるまでのひと時。美のりさんが席を外している隙に、スマホの地図アプリを確認する。俺と同じタイミングでスマホを取り出した隣の人の気配を感じながら。



「なー、『兄貴』さ、モノは相談なんだけど」

「どうした」

 『兄貴』もまた、この後の墓参りまでの"冒険"が不安なんだろう。横目で相手のスマホを盗み見れば、やっぱり、地図アプリを起動してた。


「美のりさんの車を『兄貴』が運転してみねえ?」


 頑ななまでに我が道を往く美のりさんよりも、方向音痴ではあるけど、助手である俺の言葉を素直に聞いてくれる『兄貴』の方が運転手としてはまだマシそう。そう判断した上での俺の提案に、『兄貴』は眉間に皺を刻んで瞑目した。

 小難しい顔をして腕を組み、うなだれたかと思えば天井を仰ぎ、しばらくの間、葛藤した『兄貴』は、おもむろにスマホを操作する。


「善処してみる……が」

「善処て、なにをさ」

「一応、彼女に運転代行の提案はしてみる、が」

「語尾に『が』付けすぎてね?」


 半眼で『兄貴』に注目してたら、相手が俺にスマホを見せてきた。車のカタログのサイトだ。

 スマホの画面に映し出されているのは、見覚えのあるセダン。

「これ、美のりさんの車の色違いじゃん。価格も載ってんね。えぇと……え? は? え、マジ?」

「うん。はい」

「あの……さっき俺たちが乗ってた車の価格、桁がおかしくね? 見間違い?」

「恐らく、見間違いでも勘違いでもないと思うぞ」

「いや、ええ? 現実では滅多に見ねえ金額なんだけど。マジでかー」



 『兄貴』は狼狽する俺を神妙な顔で覗き込んだ。

「……わかるな、『弟』よ」

 低く、囁きに近い音量で訊く相手に、こっちまで思わず眉間にシワを寄せて、無言で頷く。

 スマホを手許に戻し、表示していたものを隠すように画面を暗転させた『兄貴』は、非常に気まずそうに目を伏せた。


「『お兄ちゃん』はあれを運転するのはなるだけ避けたいです」

「そ、そうだね」

「オマエがどうしてもと言うなら頑張るが、万一……」

「まんいち」

「……」

「……」


 ふいに訪れた沈黙の中、『兄貴』の顔がどんどん青ざめていく。

 俺は固唾を呑んで、後に続く言葉を待つが、相手の口はなかなか開かない。……いや、『万一』の先に続くセリフなんて、危惧しかないだろうよ。そんなん、声に出すのも不吉すぎる。


 高級車というプレッシャーに『兄弟』ふたりしてひとしきり(おのの)いてから、俺はようやっと力なく首を横に振った。

「『兄貴』、運転代行の提案は忘れて。俺、運転もできんし、事情も知らんクセに、身勝手なこと頼んでた」



 ――車のハンドルを握っている時は、同時に誰かの命を背負っているものと思いなさい。


 これはずっと前に、母ちゃんから言われた教訓だ。

 自動車事故を起こした際には当然、事故の原因となった運転手が責任を負う。

 自分が痛い目に遭うだけならまだいい。事故に巻き込まれて破損した物がの弁償も大変なことだけれども、何よりも恐ろしいのは、誰かを事故に巻き込んでしまった場合だ。


 ――運転には自分が事故の加害者になるリスクがつきものなの。アクセルを踏んだ瞬間、事故を起こすかもしれない。その事故で、誰かの自由や未来、最悪の場合は命を奪ってしまうかもしれない。

   だから、車に関わることで無茶や軽率な真似は絶対にしないこと。


 生前の母ちゃんに口酸っぱく言われてたってのに、俺ときたら、自分がまだ免許持ってないからって、すっかり失念してた。

 見知らぬ土地、他人が所有する――壊したら弁償できるかも難しそうな――車、おまけに同乗者もいるという、不安要素のオンパレード。そんなの、日頃あまり運転をしない『兄貴』にとって、相当なプレッシャーになることくらい、ちょっと考えればわかるのに、俺ときたら無責任に、無茶なことを頼んじまってた。反省。



「ホント、ごめん」

「いや、オマエは悪くない。俺こそ、不甲斐ない『兄』ですまない」

「謝んなよ。こんなん仕方ないって。『兄貴』が一度は頑張ろうとしてくれて、俺は嬉しかったよ。道案内、ふたりでがんばろうな」

 とうとう手で目を覆ってしまった『兄貴』を宥めつつ、先が思いやられる旅への不安に、思わず天井を仰ぐのだった。



 ◆◆◆◆


「……」

「……」

 カチャカチャと空いた皿が取り下げられ、代わりにデザートのカットフルーツが置かれるテーブル。

 『兄弟』ふたり無言のまま、それとはなしに給仕の仕事を眺める。

 なんとなく気まずい沈黙がいたたまれない。


 自分は運転ができないわけではないのだが、運転し慣れていないのは事実だ。そんな拙い運転手が同乗者がいる上に、乗り慣れない人様の車を運転し、万一、事故を起こしてしまったら。想像するだけでも胃が痛みそうだ。


(事故による損害が、金でどうにかなる分はまだいい……いや、よくはないけども。それよりも恐ろしいのは、俺のせいで人――特にこの二人に苦痛を強いてしまうかもしれないことだ)

 それを考えると、運転代行はどうあろうと避けた方がよさそうで、『弟』だって理解してくれている。……とはいえ、滅多にないコイツの頼みごとを二つ返事で引き受けてやれない己の不甲斐なさを思うと、どうにも意気消沈してしまう。


「あー、あのさ。気に病むことないって、マジで。俺が免許持ってたとしても、あのゼロがズラッと並ぶ価格を見たら、ビビって運転できねえもん。仕方ないよ」

 沈黙が気まずいのだろう。『弟』が俺にやっと聞こえるくらいの小声で早口に告げる。


「気を遣わせてすまない。だが、俺が不甲斐ないのは事実だから――」

 心配かけまいと微笑みを『弟』に向けようとしたところで、ハイヒールの音が近付き、戸がカラリと開く。久慈さんだ。

 彼女は澄ました顔で入室するも、自分達の顔を見て、眉を顰めた。



「どうしたのかしら。あの人の位牌でもお寺に忘れたの?」

 一体、この人の目に俺達がどう映ったら、こんな質問ができるのだろう?


「いえ、忘れてはいません」

「あら。忘れておいた方があの人も毎日、お経が聞けて良かったかもしれないわよ。なんなら、私がご住職に預けに行きましょうか」

「ご冗談を」

 生前のクソ親父に散々振り回されたこの人が言うと、冗談なのか本音なのか判別できないから困る。


 なにはともあれ、『兄弟』での先程の会話は久慈さんにとってはあまり気持ちのよい話題ではなかろう。彼女に感づかれないよう、『弟』に目配せしつつ、誤魔化すことにする。

「お墓に花と何を供えようかと、二人で考えていたところでして」

「そうっス。四十九日くらい、酒とか食い物とか供えた方がいいかもなーって。なあ、『兄貴』」

 咄嗟に誤魔化す俺の隣で『弟』も勢いよく頷き、話に乗ってくれた。


「ふぅん?」

 片眉をつり上げ、首を傾げる様は、どう見たって俺達の発言を訝しんでいる。

 『兄弟』揃って誤魔化し笑いを顔に浮かべたところで、久慈さんはふいと顔を逸らした。

「花はともかく、お供えはいらないわよ」

 きっぱりと不要と言い放つ彼女に、思わず『弟』と顔を見合わせる。


「あ、そっか。今の墓参り事情って確か、カラスとかに荒らされないように、敢えてお供えは控えてる所もあるんだっけ」

「それなら俺も聞いたことがある。あと、暑くて花がすぐに干からびたり腐るからと、供花に造花を使う人もいるそうだ」

「あらそう。じゃあ、供花もいらないわね」

「おっと?」

「潔すぎ」


 参列者の少ない四十九日法要に、供花もお供えもない墓参りというのは、流石に故人が哀れではないか。

 『兄弟』揃って呆気に取られて言葉を失っている中、彼女はしれっとした顔で告げた。

「あの人だって生前、一度として、花もお供えも上げなかったもの。その意向に従ってやっているのよ」


 誰の墓に、とは明言しなかった。それでも久慈さんが坦々と告げた言の裏に潜む"あのひと"の影を察し、俺はそっと瞼を伏せる。


(アレは終ぞ、手向けることはなかったのか)

 今になって久慈さんから聞かされたクソ親父の"何もしない"愚行の事実に、胸中のみで舌打ちとため息を連ねた。



「『兄貴』?」

 ふいに場に訪れた沈黙と薄ら寒い空気を感じ取ったらしい。『弟』が気遣わしげに俺を窺う。

 コイツには今の俺がどんなふうに見えているのやら。目が所在なげに泳いでいた。

「すまん。ちょっと考え事をしていただけだ」

 眉間に寄っていた皺を伸ばすように指で擦り、安心させるべく笑むと、相手は怪訝げながらも軽く頷いた。


 どうにもぎこちない雰囲気の中、構わずマイペースにデザートを食べていた彼女が俺を呼ぶ。

「そうそう、チガヤ、この後のことだけれど」

「はい」

 供え物から話題が逸れたことに安堵したのもつかの間、綺麗な所作でメロンを一口大に切りながら彼女は信じられないことを俺に命じた。


「ここからお墓まで、貴方が運転なさい」

「……はい?」



 ◇◇◇◇◇


 運転席のシートに姿勢良く収まり、両手で顔を覆って俯く男が一人。深呼吸に合わせて、肩がゆっくりと大きく上下してる。


「運転前の儀式かなんか?」

 助手席から折り目正しく座る、運転席の『兄貴』に訊ねれば、モニョモニョとくぐもった声が聞こえた。

「自分はVIP専属のドライバーだと暗示を掛けている」

「マジすか」

「運転歴は十五年。安全運転と快適な移動を信条に勤めてきた」

「美のりさんから運転手に任命されたの、ついさっきなんだけどな。ちなみに最近、車に乗せたVIPは誰?」

「人気アイドルグループ」

「ほーん?」

「……のグッズ付き飲料を積載量ギリギリまで載せた」


 それ、あれだろ。この間、『兄貴』が夜遅くまで残業するハメになったトラブルの元凶のコラボ商品のことじゃね?


「社用車とはいえ、安全かつ迅速な運転をしたばかりだから、今だってなんとかなるし、する。ダイジョウブだ」

 自己暗示はいいんだけど、大丈夫だって自分に言い聞かせるのに片言の棒読みで言うのは若干、怖ぇな。プレッシャーをめっちゃ感じてそう。


(実際、運転すんの、スゲー緊張してんだろうな)

 『兄貴』、美のりさんに運転を命じられた時、すんげーうろたえながら、それでも運転を避けたい理由を必死になって挙げ連ねてたくらいだし。

 それでも強引に運転代行を押し通されちゃってたけど。



『運転するからには細心の注意を払いますが、不慣れゆえに事故を起こすかもしれません。正直、不安です』

 振り返るのは、ついさっき、デザートを食べていた時のこと。

 運転代行に指名された『兄貴』はかなり渋ったけど、美のりさんき『何事も経験よ。事故を起こさないよう努めなさい』って一蹴されたもんな。

『それにこの車、もう何度も事故に遭ったし、修理も何度だってしたから今更よ。逆に、カスタムしてやるわ』

 そう豪語されてしまったら、そりゃあ『兄貴』も返す言葉に困ろうよ。


 二人の会話を傍らで聞いてた俺は、なんで、美のりさんはそこまで言って『兄貴』に運転代行させようとしてんだろって不思議に思ってた。

 だって、運転が不慣れな人間に愛車のハンドル握らせるって、普通は不安で避けたいもんじゃね?

 そう疑問に思ってたら、その答えも出してくれたし。


『さっきので思い知ったけど、助手がうるさいと気が散って運転に集中できないのよ。だから、後部座席から道を覚えることにするわ』

 だって。……いや、美のりさんが運転を譲る理由、俺のせいじゃん!


 ここまで美のりさんに言われたら、『兄貴』ももう断れないと思ったらしい。そういうわけで、コイツは今、自分に熟練ドライバーと暗示させようとしてるってわけだ。


 『兄貴』が熟練ドライバーなら、俺は優秀な助手としてしっかり勤め上げにゃあな。

 さあ、プレッシャー増し増しで胃がキリキリしそうな旅の始まりだ。



 ◆◆◆◆◆


 隣には頼りになる『弟』がいるとはいえ、ボディに傷一つ付こうものなら修理代が怖い車を運転するだけでも胃が痛い。その上、縁が少なからずあり、海外で名を馳せる高名画家というVIPが後部座席に控えるというのもプレッシャーだ。

 頼むから、運転しやすい道であってくれよ。


「じゃあ、取り敢えず向かうのは駅だな。まずは店から右折で出よう。そんで、一つ目の交差点を左折で頼む」

「了解。すまない、道に出る時に手間取るぞ」

「ん。『兄貴』が安全と思うタイミングで出て構わんよ。さ、初ドライブ楽しもうぜ」


 慎重に駐車場から車を出し、公道を往来する車が途切れたのを見計らい、ブレーキを緩めて発進させる。

 社用車とは形も踏み心地もやや異なるアクセルに怯みつつ、急加速しないよう加減するのに神経を遣う。


「これ左折な。で、三つ目の交差点を右折するからそのつもりで」

「わかった。えーと、左折のウインカーはこれか」

 ウインカーを作動させたはずがフロントガラスにウォッシャー液が掛かる。

「……まあ、まずは視界をクリアにすんのも大事だしな」

 笑いを堪える上擦った声で皮肉かフォローかわからないものを隣から掛けられた。

 ……前途多難だ。無事にたどり着くのか、これ?

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