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ひとりじゃなくふたり  作者: 三山 千日
七週間後の憂鬱

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32/51

謎の女と父の級友

 ◇


 ――この人、誰?


 法要のさなかにやってきて、しれっと俺の隣に座ったおばさ……いや、ご婦人ってか美魔女を、動揺と共に横目で盗み見る。


(てか、この後のご焼香の順番ってどうなんの? 俺、この人の前? 後?)

 この場で頼みの綱は『兄貴』だけ。美魔女から『兄貴』に目を向けるも、こっちはこっちで顔強張って、さっきよりもあからさまに緊張してるし。

(いや、何だよ? 何、メチャクチャ緊張してんだよ? 『兄貴』をバチバチに緊張させてるこの人、マジで何なのさ?)


 頭の中は疑問符だらけ。

 今は法要の最中だから、謎の美魔女に「アナタ、どなたスか?」なんて聞くわけにはいかない。

 ……とは言っても、この人の正体にまるで見当がつかないわけでもないんだけども。



 クソ親父の肉親――俺にとっての祖父母と伯父さんなら通夜葬式で会っている。

 確か、クソ親父のきょうだいは伯父さんの他にもいたはずだけど、その人なら今回の法要の欠席は確実だって『兄貴』が言ってた。

(肉親が欠席するんだから、他の親族も来る見込みはないな)

 肉親でないなら、この人は誰だよって考えたら、消去法で何人かは残るわけで。


(生前、クソ親父と仲が良かった人。深い関係にあったヒト。元本妻、それか――)

 ――愛人か恋人か。


 さすがに、元本妻だか愛人だか恋人との間にできた子――つまり、俺たちのきょうだいって線は消去していいだろ。

 だって、この人、若く見えるのは確かだけど、さすがにクソ親父と親子ほど年が離れているようには見えないし。



(あ゛ー、やめだ、ヤメ。考えるのきっついわ)

 さっきから脳内でチョロチョロと行き交う"愛"だの"恋"だのの文字が煩わしくなってきて、思考を停める。


 生前は親子らしい関係もロクに築けなかったのみならず、嫌悪の念さえ抱いていた男に関わる愛だの恋だの考えたくもねえ。アイツの女性遍歴を探るようでキモいわ。

 しかも最悪なのは、愛人の言葉と共に、ほんの一瞬だけ母ちゃんを思い浮かべちまった。最悪。ちょっと吐き気を覚えるくらい自己嫌悪してんだけど、俺。こんなの、精神衛生上、まったくもってよろしくないじゃねーか。

 それに、実父と関係のありそうな女性の続柄なんて、誰からの紹介も受けずに臆測するもんじゃない。相手の人に失礼だ。


 げんなり。お経聞きながら、果てしなく俗っぽくて、下世話なことを考えてしまった。キモ。

 俺はただ、このたった三人のご焼香の順番が知りたかっただけなのに。



 ◆


(これ、ご焼香の順番はどうなるんだ?)

 突然の来訪者の存在が気になるのだろう。ソワソワとその隣を窺う『弟』を横目で見ながら、俺は俺で仕様もないと言えなくもない疑問に悶々としていた。


 お焼香の最初は俺だと思う。施主だしな。

 問題は次だ。故人の子か。それとも、元とはいえ配偶者であるのだから、彼女になるのか。


(正直、ご焼香の順番なんぞ、どうでもいいんだが)

 愛人の子と別の愛人の子と元本妻という、複雑怪奇な間柄にある三人が揃った居心地の悪い空間で、詮無いことを考えでもしなければ、ストレスで胃痛が起こるかえずきそうだった。


 どうやら、高尚なお経を聞いても、俺の煩悩は消えることがなさそうだ。



 ◇◇


 ポクポクポクポクと一定のリズムを刻む木魚の音はそのままに、ご住職が振り向いた。

「それでは施主様から順にご焼香を」

(あ゛ーっ、来たーーー)

 困惑しているせいで妙に重く感じる頭を持ち上げ、助けを求めるべく隣を窺う。


(『兄貴ぃ』)

 法要中に情けない声を上げるわけにはいかないから、声は出さずに口の開閉だけで『兄貴』を呼ぶ。声なき声に気付いたかは定かでないが、相手はなんとかこっちを見てくれた。……見てくれたけど――

(真顔……っつか、その無表情なんなん?)

 『兄貴』の感情がまったく読めねー。何考えてんのか、ちっともわかんねーよ。


(あぁっ、目ぇ逸らしやがった。あっちの人見てる)

 俺に向いてた三白眼の黒い目がゆーっくりと動いて、俺の隣の人に焦点を合わせる。

 美魔女を窺うこと二秒。それから『兄貴』は何事もなかったかのように顔を前に向けた。


(おいぃ! 言うことなんもないのかよ!)

 『俺の後に来い』とか『あの人の次だからな』とかの指示はないんか?!


 そろりと立ち上がった『兄貴』をただ呆然と見上げていると、三歩前に出た『兄貴』とご住職がチラとこちらを向く。

 ――あ、俺が次でいいんだ?


 ――ホントに俺が先でいいんスか?

 隣の人に目をやるけど、こっちは微動だにもしない。

(ん、俺が先でよさそう?)

 恐る恐る胡座を解いて中腰になり、慎重に『兄貴』の後を追う。


 俺、今さぁ、めちゃくちゃ挙動不審じゃね?



 ◆◆


「それでは施主様から順にご焼香を」

 ご住職に声を掛けられ、ご焼香すべく立とうとして、隣から向けられる縋るような目に気が付いた。


(うん、凄く困惑してるな)

 俺と目が合った『弟』は、気まずげに瞳を右へ揺らす。

 隣の彼女が気になっているのは一目瞭然。気になると言っても、関心ではなく当惑だろうが。

 顰められた眉と小さく開閉する口が、何らかの助けを求めている。

 このタイミングで『弟』が俺に求めることなんて、ご焼香の順番くらいしかないだろうが、お生憎様、俺だって正解はわからない。


(俺の次はオマエの番と思うが)

 ゆるりと『弟』越しに彼女を見遣るも、あちらは正面を向いたまま微動だにせず。

(まあ、そうだよな)

 彼女の態度から察するに、ご焼香の順番は自分が最後と認識しつつも、こちらに指示する気は毛頭ないご様子だ。このまま俺が焼香台の前に立っても、『弟』が俺の後に続かない限り、彼女は動こうとはしないだろう。


(オマエは彼女の動向を窺ってから動きなさい)

 ――場の空気や相手の動向を読んで、どう動くか考えることも大事だぞ。


 所在なげな『弟』に特に何を指示することもなく、俺は焼香台へ向かう。立ち上がる際、こっそりと『弟』を盗み見ると、相手は期待を裏切られたと言わんばかりに唖然とした顔を見せた。……感情ダダ漏れだな。


 俺が立ち上がっても動く気配のない『弟』は今、きっと途方に暮れた顔をしているのだろうな。『俺、どうすりゃいいん?』と、今にも訊ねられそうだ。


 チラと振り返れば、『弟』はあからさまにホッとした顔で一度、彼女を窺い、それからようやっと立ち上がった。



 ◇◇◇


 『兄貴』の見様見真似だったけど、ご焼香は無事、済んだ。

 ちなみに、あの女の人は俺が焼香台の前に立つ頃に、やっと立ち上がった。


 焼香台から座布団までの短い距離を歩く間、こっそりと後ろの人を窺う。丁度、抹香を摘まむ白魚のような指を額の高さに留めて目を伏せ、抹香をおしいただくところだった。


(祈ってるみたいだ)

 ――あのクソ親父にも、こんなふうに安らかな眠りを祈ってくれる人がいたんだな。


 しみじみと感じていると、女の人がパッと開眼した。

 パラ、と抹香を香炉の中に落とすのだけど、なんというか――

(雑くね?)

 指に付いた抹香を擦り落とし、また無造作に抹香を拾っては落とす。

(や、食材に塩振るんじゃねーんだから)

 抹香をおしいただいていたときの気品はどこに置いてきたよ?

 最初の恭しさはどこへやら。半眼で抹香をくべる様はあまりにもおざなりなものだった。


(あれ? ひょっとして)

 元いた場所に座り直しつつ、眉を顰めて首を傾げる。

(この場にクソ親父を心の底から偲ぶ気でいる人間って、いないんじゃね?)

 ご焼香を終え、相変わらずの無表情でとっとと元の位置に戻ってきた女の人を目で追いながら、おおよそ故人にとっては喜ばしくないであろうことを半ば確信を以て考えた。


(わかっちゃあいたが、やっぱ人徳がほとほとねえんじゃねえか、あのクソ親父)



 ◆◆◆


 ちょっとのもたつきはあったが、三人だけのご焼香はつつがなく済んだ。

 続く読経を聞く間、それとなく隣を窺ったところ、『弟』は先のようにソワソワと身じろぐこともなく、おとなしく教本に目を通していた。教本の文字を追うその目は平然としたものだ。

 彼女が現れた直後はやや戸惑ったり、ご焼香の順番がわからずに混乱していたものの、今はどんな心境であるのかをその表情から読み取ることはできない。


(ああ、そうだ)

 俺はほんの少し前も、彼のこの、読めない表情を見たのを思い出す。

 それはクソ親父が息を引き取った数時間後のこと。葬儀場に現れた"あちら"の人々――祖父母と伯父を見たときの顔と酷似していた。


 ――目の前にいるこの人らのことなんて、どうだっていい。


 その場に現れた者にさして関心がないような、白々とした表情であるのに、眼だけはひどく冷えている。


 今の『弟』が葬儀のときほど冷えた目をしていないのは、それは彼女とクソ親父との関係がまだ判然としないからか、この一ヶ月半の間で本当に"あちら"のことがどうでもよく思えたからか、他に理由があるのかは俺にはわからない。

 『兄』としては、この子が"あちら"の人間と関わることによって、心を乱されることがないのが一番なのだが。



(さて、コイツをあまり混乱させることなく、彼女のことを説明するにはどうしたらいいものか)

 彼女とクソ親父の間柄を『弟』に教えるのは簡単だ。一言で済む。

 また、彼女と自分達との関係だけでなく、彼女がほぼ飛び入り状態で四十九日法要に参ったことからも、この人が少し変わった人であることにも気付いたろう。


(ただ、()()については伝えるべきか)

 彼女と俺達の関係はわりとデリケートなもので。殊更、あるひとつの事柄については、『弟』に伝えるべきか迷うところだ。

(どうしようか……ねえ)


 思考すべく、そっと目を伏せ、頭を垂れる。だが、答えが出る間もなく、読経が終わってしまった。



 ◇◇◇◇


 ご住職の読経とお説教が終わり、出されたお茶をいただく。

 ご住職は最初、施主の『兄貴』と時候や交通手段、墓参りの頻度などの無難な話をして、『兄貴』の隣にいた俺には新しい学校には慣れたかと訊ねてきた。


(前にご住職と会ったときに、俺が転校する話をしたんだったな)

 けれど、前回――クソ親父の初七日の日にご住職と話したのは、学校の話題というよりも、もっと別のことだった気がする。

(ああ、そうだ。ご住職にただ、『まだ落ち着かないでしょう?』とだけしか訊かれなかったんだっけ)


 相手の質問の示すところは多分、父親を早くに亡くした俺を気遣うものだったのだろう。『ご家族を亡くされたばかりで心許ないでしょう』とかそんなニュアンスで訊ねたはずだ。

 でも、俺はご住職の意図を汲んだ上で、わざとクソ親父の死から話題を逸らした。

『そうですね。落ち着くヒマはなかなか。今は新しい学校に転入する準備で毎日、慌ただしく過ごしてますから』って。

 だって、俺にはクソ親父のことで、他人に聞かせられるような話はないからさ。


 ご住職は的外れな俺の返事を聞いて、ほんのちょっと黙ったから、俺が故意に話題を逸らしたことにも気付いたろう。それでも穏やかな表情を歪めることなく、軽く頷いたのだった。



(俺みたいなガキとのちょっとした会話まで覚えているなんて、ご住職も大変だ)

 一ヶ月ほど前の会話を軽く振り返りながら、俺は新しい学校に少しずつ慣れてきたことを簡単に話していく。


「このひと月半は君には大変なことだったろうけど、つつがなく過ごせているようだね」

 ――本当によかった。

 両手で包み込むように湯飲みを持ち、噛み締めるように紡がれたご住職の安堵の言葉に、俺は軽く首を傾げる。

(他人なのにやけに親身っつーか)

 俺がまだ中学生のとき、母ちゃんの訃報を知った当時の担任教師が見せた、憐れみの目とは少し違う。どっちかと言うと、数年暮らしてた施設の先生たちが俺に向けてた保護者代理の目に近い。

 坊さんってのは職業柄、誰に対してもわりと親身になるもんなんだろうか?


 俺との会話はひと通り終わったと判断したらしく、俺たちから少し離れた場所に座るあの女の人と話し始めたご住職をそれとなく観察しつつ、少しだけぬるくなったお茶を啜った。



 ◆◆◆◆


 手許には緑茶と茶請けの一口饅頭。渋味と甘味が絶妙な組み合わせのそれらの味を楽しみつつ、ご住職と『弟』の会話に耳を傾ける。

 『弟』は前回の初七日の際に、転校する旨を話したからか、学校生活について訊ねられていた。親ほども年の離れた大人相手でも『弟』に緊張した様子はなく、会話はスムーズに交わされる。


(人見知りしないのもそうだが、大人と話すのに慣れているんだな)

 そういえば、『弟』の祖父と母親のお墓参りの際も、彼は地元の高齢者と気軽に話をしていたことを思い出す。

 老女に下世話な好奇と懐疑を含む目を向けられても、素知らぬ振りで笑みを絶やさず応対してみせた子だ。柔らかに笑みつつも、さりげなく『弟』の様子を窺っているご住職の目にも動じることはない。


(しかし、何だろうな、ご住職のこの眼差しは)

 違和感。

 親をなくしたばかりの思春期の子どもを気に掛けた慎重な眼差しというよりも、どこか懐かしいものを見るような目をしている。ともすれば、親身になって見守ってくれているような雰囲気さえ感じられた。

 一介の住職が檀家の子どもに向けるには、些か違和感があるような。

(気のせいか? いや……)

 『弟』もご住職の様子に違和感を覚えているようだ。相手の視線を受けて、小首を傾げていた。


 何ともいえぬ奇妙な感覚に脳裡で疑問符を浮かべながらぬるくなった緑茶を啜っていると、ご住職はふと俺達の斜向かいに座る彼女を窺い、声を掛けた。



久慈(くじ)さん、お久し振りです」

「ええ、暫く振り」

(!)

 今日、初めて交わされた二人の会話に目を見張る。

 クソ親父が世話になっている寺のご住職と、あいつの死後に初めてその姿を見せた元配偶者――久慈(くじ) ()のり。

(この二人は知り合いだったのか)



 ◇◇◇◇◇


「クジさん、お久し振りです」

「ええ、しばらくぶり」


 カタリ

 ご住職とあの人――クジさん? が声を掛け合うのを聞いた瞬間、そばで小さな音がした。音に振り向けば、お茶を飲んでいた『兄貴』が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてる。

(どした?)


 『兄貴』が動揺したのは一瞬で、すぐに何ともない風を装ってはいたけど、その目は探るように会話中の二人を窺っていた。

 他の大人たちは『兄貴』の反応に気付いていない様子で、最後に会ったのは何年前かとか、元気そうで何よりとか話してる。


(『兄貴』、この人らが知り合いっぽくて驚いてんのか? そんな不思議なことかね)

 俺はこのクジさんとやらが何者かも、クソ親父がわざわざ自分の世話を頼んだとか言うこのお寺もご住職のこともよく知らないから、二人が知り合いでも『兄貴』ほどの驚きはない。

(この人もこのお寺の檀家とかそんな感じじゃね?)

 まあ、うん。俺にとっちゃ、どうでもいいことだ。



(それにしてもキレイな人だな)

 出されたお茶と饅頭をモソモソ食べつつ、ご住職とクジさんの会話に合わせて各々に目を向ける。

 クジさんはタッパがあって体の線は細いけど、か弱いとか頼りない印象を微塵も感じない。常に姿勢が正しくて、しなやかな動作と無駄のない美しい所作が成す技なのかな。


(舞台に立つ女優さんとか、ランウェイを歩くモデルみたい)

 なんつーか、魅せ方を知ってる感じ。

 黒い礼服を着ているから肌の白さが映えて、表情も何を考えてるんだか分からない真顔のままだけど、それが余計に浮き世離れした、近寄りがたい存在のような印象を与える。

 他に惑わされず、地に足ついた強さを持つ、キレイな女性。その凛とした姿にあるものを思い浮かべる。

(ユリ……いや、ちょっと違う。あ、そうだ)

 例えはちょっと悪いけど、俺はその花をクソ親父のお通夜と葬式のときに見た。ユリよりも真っ白で、花びらの端がヒラヒラと派手なその花。

(えーと、カサブランカ?)

 そのカサブランカみたいな人相手に、ご住職は親しげに話し続けていた。



「日本にはいつお戻りで?」

「昨日戻りました。偶にはアトリエに風を通さなければと思いまして」

「ああ、アトリエ。今夏は気温も湿度も特に高いので、作品の管理も大変でしょうね。人の体にも障る酷暑になるそうですので、滞在中はどうぞご自愛ください」

「お気遣いどうも。ああ、今度、何点かお持ちしてもよろしいでしょうか」

「やあ、それは楽しみですな。ただ、残念なことに、お盆の辺りは時間が取れそうになく」

「それでしたら、今回は暫く滞在する予定ですので、お盆参りがひと段落したらお知らせ下さい。こちらからお伺いしますわ」


 二人の会話にそれとなく耳を傾けるが、クソ親父の話はあまり出てこない。

 あれ、もしかしてこの人、ウチとは部外者かも?



 ◆◆◆◆◆


(わりと親交が深いんじゃないか)

 寺のお手伝いさんと思しき女性が淹れ直してくれた二杯目のお茶を飲みながら、ご住職と彼女の話に適当に相槌を打つ。

 今聞いた分でも、ご住職は彼女が外国暮らしなことと、彼女の本業にも関わっていることがわかった。


「それにしても」

 ご住職の声のトーンが低くなり、その目がふいに俺と『弟』に向けられてから、彼女を改めて窺う。

「惜しい人を亡くしましたな」

「……痛み入ります」

 彼女はお悔やみの言葉に軽く俯き、頭を下げる。

 その声に抑揚はなく、機械的ですらあった。感情が読めないというよりも、その声に故人への思いは込められていないとさえ思えるほどに。


 隣で微かに椅子の軋む音が聞こえた。『弟』が椅子の背に軽く凭れ、手持ち無沙汰に手を組んでいる。どこか、心ここにあらずといった表情である。

(さっきもこんな顔をしていたな。何処だったか。そうだ)

 ここに来る道中に見た顔だ。

 あまり馴染みのない場所を訪ねて、迷いこそしないが、どこか疎外感を覚えたような寂しそうな顔。

 何故、今、『弟』はそんな顔をしているのか、俺にはなんとなくわかる。


 ――『弟』は自分だけがクソ親父のことを知らないと自覚したのか。


 幼少の頃からずっとその言動に振り回されてきた『兄』()だけでなく、ご住職も彼女もクソ親父(あの男)の人となりを知っているらしいと彼らの会話で察し、自分だけが自分の父親について何も知らないことに彼は気付いたのだ。それゆえに、この場でひとり抱える疎外感を持て余している。


(そんな顔、しなくてもいいのに)

 この子が知るとおり、あの男は知らないままでいる方がいいことばかりの碌でもない奴だ。少なくとも、俺達、『兄弟』にとっては。

 だから、あの男のことを大して知らないからと、『弟』が寂しい思いをする必要はまったくなくて。


(ただ、知っておいてほしいこともあるにはあるけれども)

 いつか近い内に、居心地の悪そうな様子のこの子に、然るべき説明はせねばなるまい。

(さて、どこから説明したものか)



 考えあぐねていると、ふと視線を感じた。ご住職が俺に顔を向けている。

「実はね」

 空調の風音と外から聞こえる蝉しぐれだけが耳に届くような沈黙の後、泰然としたご住職の声が告げる。

「私と君達のお父上と久慈さんは級友だったのですよ」


(ああ、それで)

 クソ親父が死後、こちらのお寺さんの……いや、こちらのご住職の世話になるのを決めた理由がわかった気がした。



 ◇◇◇◇◇◇


「私と君達のお父上とクジさんは級友だったのですよ。クジさんとは中学の頃で、彼とは小学生から高校まででした」


 ご住職は『級友』と一言でクソ親父とクジさんとの関係を示したけど、その親交の程度は全然違いそうだ。

(小学生から高校っつったら十年以上は一緒にいたってことじゃん)

 まあ、親交の程度によっても縁の深さは多少違うだろうけど。クソ親父とは級友ってよりも、幼なじみって言う方が合ってる気がする。

 ご住職はともかく、あの男はご住職を少なからず信頼してたんだろうな。でなきゃ、"あちら"の菩提寺とは違うお寺さんに向こう何十年分の法要を世話して貰おうなんて思わないだろうし。


(皮肉だな)

 あいつの生前は父親らしいことはおろか、その人となりさえクソ要素以外はロクにわからなかった。それなのに、あいつが死んでからの方が少しずつだけど新たな情報を得られるなんてさ。


 『兄貴』の方が俺よりもクソ親父のことを知ってるだろうに、俺と同じくらいかそれ以上にあの男に良い印象がないこと。"あっち"の人らもあの男を避けてたっぽいこと。縁のあるらしいクジさんの存在。あの男と級友だというご住職の存在――それらの事実を知る度に、俺の胸の奥の方をモニャリモニャリと見えない手で探られているような不思議な気分になった。

 まるで、自分のルーツを暴こうとしているかのような、自分でもこれが良いことなのか悪いことなのかもわからない気持ちの悪い感覚だ。


 軽くうつむいて、二杯目のお茶の入った湯飲みを意味もなく手でこね回す。

 早く、このわけのわからない時間が過ぎればいいのに――とお茶を吹き冷ますふりをしてため息を吐くと、『兄貴』が身を乗り出す。


「ご住職から見て、父はどんな人間でしたか」

 声に釣られて窺った『兄貴』の顔は、興味に駆られたわけでもなければ、さして深刻そうでもない。薄い愛想笑いに"社交辞令"の四文字が脳裡に浮かぶ。

 『兄貴』の問い掛けにご住職は一度、天井を向き、こう答えた。


「奔放なようで、その実、思慮深い」



 ◆◆◆◆◆◆


 ご住職の言に一瞬、耳を疑う。

 どんな不愉快にも堪え、愛想笑いを崩さぬ技を身につけておいて本当に良かった。俺をしごきあげてくれた"あちら"の方々と厳しい社会生活に感謝する。


(人間、誰しも多面性はあるし、視点が違えば見えるものも変わるしな)

 彫像を鑑賞する視点が少し違えば、まったく違う形に見えるように。微笑む女の絵画が観る者によって、女がどんな感情で以て笑うのか、感じ方が変わるように。俺の識るあの男が、ご住職には違って見えても不思議はない。


 クソ親父が奔放だったのは間違いない。

 社会的にも規則にも人間関係にも……性にも、アレは奔放だった。――だからこそ、俺と『弟』がいるのだ。

 薄い愛想笑いの口端が歪んだ微笑にならぬよう、口まわりの筋を固めるのに苦労する。


 空の湯飲みを無駄に口許に持っていく俺の隣、『弟』が消え入りそうな微かな声で呟いた。

「思慮」

 譫言にも、疑問にも、皮肉にも聞こえるその音が、俺にはこの子がこう言っているように聞こえる。

 ――思慮(それ)って、どーゆー意味?


 きっと。きっと、俺達は今、揃って同じような顔をしている筈だ。

 それがどんな顔かは、自身の顔も隣の『弟』の顔も確認していないからわかりはしないが。



「その、『奔放なようで』『思慮深い』男のことだけれども――」

 『弟』の斜向かい、彼女が不意に声を上げる。


「"チガヤ"」


 そのたった三文字に、うなじを逆撫でされ、心臓をきつく握られた感覚を覚えた。

 耳奥に残るのは彼女の低い声。そして、脳裏を掠めるのは遠い日にいた"あのひと"の姿。


「永代供養なさいな」

「は?」


 唐突に、何を言っているんだ、この人は?

2025年の初投稿です。

今年も『兄弟』の活躍を見守っていただければ幸いです。

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