留守番と差し入れ
◇
明日提出の宿題がようやく片付いて、時計を確認する。午後九時すぎ。
(『同僚』、もう始まってら)
『兄貴』が毎週見てる検事ドラマの冒頭を見逃した。
(まあいいや。どんな事件も最後にゃちゃんと解決するんだろーし)
一話完結型は一度見逃しても他の話の展開に影響があまりないから、ストレスが軽くて助かるよな。
それに番組自体は抜かりない『兄貴』がしっかり録画してる。
(後で『兄貴』と録画したやつを観よう)
一人よりも二人で見る方が絶対に楽しめるしな。
(てか、『兄貴』、なかなか帰ってこんな)
いつもの残業ならそろそろ帰ってくる頃だが、今のところ『兄貴』が帰ってきそうな気配はまったくもって感じられない。
こりゃ、マジモンの残業じゃねーか。
「ありゃま、『兄貴』ご苦労さまじゃん。あらら、こりゃま大変だ」
今まさに頑張って仕事をしているだろう『兄貴』を思うわりには、あまりにも間抜けな拍子で呟きつつ、ゴロリと床に寝転がる。
宿題を終えて(つーても他の教科の宿題はまだあるんだ。ちょっと疲れたから今はしないけど)ひと休みのつもりで大の字になってみたが、すぐに起き上がった。
なんだ。いや、その……うん。留守番、そろそろ飽きたなーって。
◆
倉庫から会社に戻り、作業用に当てられた会議室への荷物の運搬を終えて企画担当の部署に戻ると、オフィスの入り口付近で篤志が差し入れを配っていた。
「差し入れです。どれでもお好きなものをどうぞー」
差し入れに群がる人々の中央で、篤志が声高らかに呼び掛ける。人混みの隙間から声の大元を窺えば、何種類かの食べ物に占領されたデスク二台とその傍らで、ご機嫌顔で差し入れを手渡しする篤志の姿が見えた。
差し入れの内容は、鰻の蒲焼き入りのちまきとおにぎり数種と惣菜パンと菓子パン。篤志の紹介によれば、いずれの品も有名店のものらしい。
丁度、食事時にでてきた味も量も申し分ない差し入れは、現場にいた人達からも概ね好評なようだ。軽食にもってこいだと喜ぶ声と、差し入れを用意した篤志へ感謝を述べる声がオフィス内でちらほら聞こえた。
ただ――
「いやー、ヨソから応援に来た人達も含めて、けっこうな人数いるでしょう。何か力がつくものをったって、数を用意するのもなかなか難しくて。馴染みの店をいくつも回ってかき集めてきましたよ。自分、気も機転も利いてるでしょ」
篤志は感謝の声や差し入れを褒められたことに、随分と気を良くしたらしい。誰に訊かれるでなく突然大声で彼の周りにいた人間に語り始める。
正直、今、この場にいる篤志以外の人間はこの多忙なさなかに他人の自己アピールに付き合う暇も余裕もない。それでも彼を労う声もあるにはあるが、ひっそりと眉を顰める者とため息を吐く者、小さく舌打ちする者がいたことも確かだ。
ちなみに、俺は半分呆れつつ篤志の自分語りを聞き流した。そんなの聞くだけ無駄だし。
それにこれから能天気なお坊ちゃんを駒としてコキ使うのだ。自分がやりたいことをきちんとこなして、自分とまわりの人間の機嫌が戻ったのならば、何よりではないか。
◇◇
風呂、メシ、宿題――今日せんといかんことは大体やっちまった。他の宿題もTVも今はどうでもよくって、明日の弁当の仕込みとかもまあ今じゃなくてもって……ううん、つまり何が言いたいかって――
(ひとりはつまらん)
留守番もひとりでいることも慣れてないわけじゃない。
これでも、施設に入る前――まだ俺がひとりじゃなかった頃は、母ちゃんの仕事のシフトの関係とか忙しいときは夜でも家に一人きりで留守番してたし。留守番慣れてっし。
(けど、さ……)
思い出すんだ。
部屋に俺一人。家族で住むような広い空間に、俺一人きり。
俺以外の人間――例えば、爺ちゃんとか母ちゃんとか――が何時間か前まで部屋にいた形跡とか、匂いとかの気配も少し残ってるのに、部屋には俺だけしかいない。
いやに静かで、静かすぎて耳の奥がキンと鳴って。
で、ふと考える。
――ちゃんと帰ってくるんだよな?
爺ちゃんも、そして母ちゃんも、最後は帰ってこんかったし。
俺を置いて急に……本当に急に帰ってこなくなって、何日かして逝っちまった。
(……『兄貴』は?)
いつか俺を置いてっちまうんかな?
施設にいた頃は俺と似たような思いした奴らもけっこういて、それにいつでも人の気配があって、賑やかで煩くて、おかげで気が紛れたんだ。
けど、『兄貴』に拾ってもらって、この土地に来て、この部屋に住むようになって、留守番をすることもあって、久々に思い出した。
ひとり、取り残される感覚を。
◆◆
旧知の俺はともかく、現場にいる人のどれくらいかは篤志を見る内に、その目立ちたがりな態度と言動に反感を買ったようだ。
「個数揃えられなかったら複数の店でって、普通に思いつかない?」
「差し入れはありがたいし、確かにおいしかったけど、いちいち『自分がー』って大っぴらにアピるの、恩着せがましい」
「そもそも、この残業の発端はあの人なんでしょ?」
「自分が代表してる企画のトラブルで他部署まで巻き込んでおいて、悪びれもせず、頭下げるのは人任せってどうなの?」
「ってか、若いのに鰻屋が『馴染みの店』って、自慢かよ」
「この差し入れも実は、別の気が利く人が彼に提案してたりして」
上機嫌な篤志を遠まきに見、あるいは差し入れを貰ってしばらく経ってからその時の様子を振り返りながら、社員達はヒソヒソと篤志への呆れや妬み、疑心などの悪口を囁きあっていた。
(文句なしに旨い差し入れさえも霞む悪評ぶりだな、篤志。いや、恐れ入る)
今の今まで篤志に対するネガティブな噂が社内に蔓延していたのだ。差し入れひとつでこれまでの悪評が消え、手の平を反すように篤志への印象が好転するわけではない。
そんなことはハナからわかっていた。わかってはいたが現状、篤志の外聞がどうであろうと作業効率にも仕事の進捗にも関わりがないので、俺の知ったことではない。
(だが、進行中の企画にしろ機嫌にしろ外聞にしろ、大事なのはこれからなんだぞ、篤志)
イマイチ、企画の代表者を任されて担っているという自覚の足りない旧知に向け、いい加減にしっかりしろよ、と人知れず呟いた。
◇◇◇
――今よりもちょっと昔、留守番中って何してたっけ?
静寂を紛らわす音源をオーディオからテレビに変えるも、それを大して見るでなく考える。
遊んで、宿題して、ゴロゴロしてたことしか思い出せない。
(ガキんちょの俺、もっと、有意義な時間を過ごせよと)
じゃあ、有意義な過ごし方ってなんだろう?
残ってる宿題をすること? 一理ある。
部活に打ち込む? いかにも青春だよな。
趣味を見つけて没頭する? スキルアップしそう。
バイトする? 社会勉強兼小遣い稼ぎできてお得じゃん。
(ああ、でも今は――)
昼間、『兄貴』の帰りが遅いって知らされた時もちょっと考えてたんだ。
ウチに帰ってくる人のために、留守番してる自分がなにかしてあげられるんじゃないのかなって。
それはさ、自分を置いて逝かれるなんてカケラも思ってない、世話されるままに甘えてたガキんちょだった俺が、ひとりになった瞬間からずっとずっと悔やんでいたことだ。
シトシトパタパタ
真っ黒な窓の外に視線と意識を向ける。雨は今も降っていた。
(湿っぽ)
外からの風も、俺の気分も。
(こりゃあかん)
ジメジメすんのは嫌いだから、立ち上がって台所へ向かった。
ジッとすんのが退屈なら今の俺ができることをすりゃいいんだ。
◆◆◆
黙々、黙々、もくもく。
品物の詰め替え作業に没頭する。
途中、俺を含めた数人が途中で運搬に回ったせいで一時は作業の人手が減少したり、現場総員での荷物の移動、差し入れの到着(プラス差し入れ係の篤志による強引な声掛け)による半強制的な休憩などのタイムロスはあったものの、なんとか商品の詰め替え作業は終盤に差し掛かっていた。
作業の手を止めぬまま、それとなく周囲の人達の様子を窺ったところ、皆、手の速さが作業開始時よりも各段に上がっている。
体が単調な作業に慣れたのも大きな理由だろうが、各々で効率化を図って作業工程の調整やコツを探るなどの試行錯誤を繰り返したようだ。
(あと、差し入れ効果もあるかもな)
部署内で作業中の者の大半は、差し入れを食べた直後から作業速度を各段に上げた。……併せて、表情も修羅のようになっていたが。
「差し入れは良いんだけど、やっぱり、篤志の態度と言動が癪に障る」
「篤志に関わると無駄に消耗する。目を付けられない内に、さっさと仕事終わらせよう」
残業時間が経つにつれ、降って涌いた残業への不満を漏らし始める人が一定数現れるのはいつものことだが、今回はそれ以外の要素にも不快を囁く声も聞こえ、そして時間経過とともに少しずつ増えていった。
不満の元は言わずもがな、篤志についてだ。
愚痴愚痴と文句を垂れる人の多くは、ふと思い出したかのように作業の手を止めたかと思えば、敵意を込めて残業の発端とされる篤志に剣呑な眼差しを向けていた。
俺には今更、篤志を敵視する気はないが、その気持ちはわからなくもない。見るからに喧しいからな、アレは。特に今回に限ってだが、こんな残業を寄越されたことには、そこそこうんざりしているし。
なんなら、今すぐに仕事を放棄してでも社屋から駆け出して、家族孝行に土産を引っさげて『弟』の待つ自宅に帰りたい。……俺はちゃんとした大人でいたいから、任された仕事を投げ出すような真似はしないけれどもな。
(篤志のことはどうでもいいが、この仕事をとっとと終わらせたいのは同意だ)
きっと、それに類似した帰宅願望は、この場にいる誰もが抱いていることだろう。
企画に携わる人々は企画を成功させるべく邁進し、応援の人達は残業からの強い脱却願望に突き動かされつつ課せられた作業を進める。
総員、差し入れにより回復した士気を奮わせ、人によっては残業への不満とか篤志への言い知れぬ反感をバネにして、もしくはそれらすべての要素を起爆剤として、現場一丸となって仕事に打ち込んだ。
仕事に取り組む姿勢は、現状の不満を隠すことなく大いに愚痴り合いながらか、黙々と只ひたすらに手許に集中し没頭するかで各々違いはあれど、作業の迅速さは詰め替え待ちの品物が減るにつれ顕著に増していった。
残業という戦において、差し入れと|篤志|《鞭――どちらも現場の士気向上の立役者となったようで、いやはや、人気者は大変だ。
◇◇◇◇
トントン、トントントントン
(なーにやってんだかな、俺)
黙々とゴボウと人参を細めの拍子木切りにしながら苦笑する。
これは唐辛子を利かせた甘辛のキンピラにする予定。
一方、コンロでは弱火に掛けられただし汁の中で玉葱とインゲンがクルクルユラユラと泳いでる。こっちは味噌汁。
調理台の隅にはゴマ和えにしたほうれん草もできてる。
(一日に二度も晩メシ作ってら)
いや、違うちがう。これは晩メシじゃあないんだ。
『兄貴』がどっかでメシ食うなり、弁当買うなりしててもいいよ。今、俺がこうして作ってるモンはただの作り置きだから。
俺の気紛れで作る気になっただけ。今日中に『兄貴』が食う必要はないんだ。こうして前もって作っておけば、弁当のおかずにも、献立の"もう一品"にもなるんだし。
(ハハ、言い訳考えてら)
『兄貴』の分のおかずを作る言い訳を。
名目なんざどうでもいい。いつ出すものかもどうだっていい。
今も頑張ってる人の助けになれば。
腹の足しになれば。癒しになれば。元気になれば。
ほんのちょっとでもいい、明日を生きる糧になれば。
これが、今の俺が『兄貴』にしてやれる精一杯だから。
◆◆◆◆
篤志は差し入れを配り終えると、頃合いを見計らったかのようにタイミングよく現れた暮内氏に連れられ、部署を後にした。
部署を出る前に聞こえた二人の会話によれば、篤志は出荷準備が完了した品物を順次、各店舗に配送する役目を任されたようである。
(積み込み、運搬、荷下ろし……ご自慢の筋肉とスタミナの使いどころじゃないか)
どうせ企画担当者の篤志には何かしらの仕事をさせねばならないのだ。無駄な仕事を増やすことに長けたオツムを使わせるよりも、体力と筋力にモノを言わす仕事をやらせる方が断然役立つ。但し、篤志が暴走して、あらぬ場所に荷物を持って行かないよう注意が必要だが。
このまま順調にいけば、商品の詰め替え作業はあともう一息で終わるだろう。後は荷物を車に詰め込めば、別部署から応援で集められた社員は御役御免で解散だ。
(頼む。このままおとなしく作業を終わらせてくれ)
俺はもう帰りたい。
(本当は夕方に土産を買って帰るつもりでいたのにな)
お菓子でもいい、夜食でも飲み物でもいいから『弟』と一緒に楽しめるものを持って帰って、今晩、ゆっくり話をしたかったんだ。
――俺に気を使いすぎていないか?
ここに呼び出されていなければ今頃、どうしても訊きたいことを聞けていただろうに。
(アイツは今、どうしているかな)
この時間だから食事はとうに摂ったはず。晩ごはんは何にしたろう。
一人気楽にインスタント麺とか。それとも実験的におもしろい料理を作って食べていたりして。
なんとなく、トンカツが載ったラーメンを食べる『弟』を想像してしまう。
(しまった。ラーメンの口になった)
家にカップ麺かインスタント麺はあったかな。ないかも。
(帰りに買うか)
ついでに『弟』へのお土産も。
さっき差し入れを食べたというのに、腹がグウと鳴った。




