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ひとりじゃなくふたり  作者: 三山 千日
馴染みつつある日常

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17/51

気怠い午後

※閲覧注意

 毒親(親族)の話題です。

 それらの要素が苦手な方は自己責任のもと、閲覧のご判断をお願いいたします。尚、その上で本作においてご気分を害されましても、当方は責任を負いかねますのでご了承くださいますようお願います。

 ◇


 五限目の授業って、なんでこんなに眠いんだろ? あくびをかみ殺して、小さくため息を吐く。

(あー、授業つまんねー)

 白字で埋まった黒板から窓の外へ顔を向けて、空を見る。空の色は濃い青で、雲ははっきりくっきり真っ白だ。

 絵に描いたような真っ青な空と白い雲、眩しく光る太陽は見るだけで爽快な気分になるけど、今の眠気に負けそうな目にはやや痛い。


(夏になったな)

 先週、絶え間なくしつこい雨を降らしていた梅雨の雨雲がやっと去った。

 梅雨の間は肌寒さと蒸し暑さを取っ替え引っ替え繰り返していた不安定な気候も、太陽が顔を出してからはちょっと暑いくらいで安定している。校内での夏服率もかなり高くなってきた。

 ぶ厚い雨雲を追い払った夏の日差しは、邪魔ものがいなくなったからか日増しに強くなり、今はジリジリと日に晒された肌や地面を焼いている。

 いつの間にかセミも鳴きだしていたし、街にはかき氷と冷やし中華の字もちらほら見るようになってきた。夏が到来したってわけだ。


(俺、こっちに来てまだちょっとしか経ってないのに、もうすぐそこまで夏休みが来てるんじゃん。時間経つの早すぎ)

 クソ親父が死んでこっち、本当に目まぐるしすぎたせいで、なんか浦島太郎になった気分だ。

(ケド、今回はまだマシだ)


 前回は――母ちゃんの時は酷かった。

 事態が飲み込めず、感情も追いつかずに茫然としている間に過ぎたあの日。

 なにもかもがよくわからないまま、母ちゃんだけでなく色々なものを失い、環境も日常も一瞬で変化したあの頃。

 今日みたくミンミンとセミが鳴きだした頃のことで、当時の俺はどうしようもなく孤独だった。

(あの時よりは断然マシ)



 夏になると思い出す。

 ある日、突然寄越された最悪な報せ。信じたくない現実。ただ寝ているだけにしか見えない、母ちゃんの死に顔。

 人々は揃って暗い顔をしていて、腫れ物に触れるような態度を俺にとる。香典袋とお悔やみと親への陰口と愚痴を無責任に残して、厄介ごとは御免とばかりにそそくさと俺の前から去っていく。

 そうして、母ちゃんの忌も明けない内に、俺はひとりになった。



 ◆


 根詰めで凝視していたモニターから目を離し、椅子に背を預ける。

 軽く吐息すると、蓄積した疲労と昼食の満腹感からくる眠気がジワリと体と脳を侵す。

(眠……)


 チラと一瞥した窓の外。ビル群の隙間から覗く青が、疲れた目にやけに沁みる。

(ああ、夏だ)


 今は空の青さで季節を実感したが、この他にも夏の到来は随所で感じられた。

 通勤バスや社内や施設内の利きすぎる冷房だとか、外回りから戻った奴らが汗を掻きながら「暑い」と音を上げては冷たいものを一気飲みする様とか、毎週……下手すると毎日のように誘われるビアガーデンとか。

 そういったことで夏を感じるのが、いかにも社会人らしい。



(梅雨明けはまだだが、季節はすっかり夏だな。……時の流れが早すぎやしないか)

 自分の体感では晩春からいきなり盛夏になり、その間にあったであろう過ごし易い初夏の記憶がさっぱり抜け落ちていた。


(実際に、気候変動の影響で快適に過ごせる時季はほんの僅かだったんだろうが、俺の場合は単純に多忙故だな)

 クソ親父関連で春からつい先日まで、季節の移ろいを悠長に感じていられないくらい慌ただしかったのは確かだ。決して、年を食って月日の流れを早く感じるようになったからではない……筈。


『弟』(アイツ)だってきっと、今年の夏はあっという間にやって来たと感じているだろうさ)

 彼は俺と同じかそれ以上に、慌ただしい日々を過ごしたのだから。それに――


(気疲れもあるだろうな。慣れない土地での新生活だけでも大変なのに、その上、俺にも気を遣ってくれているのだから)

 今朝も見た台所に立つ『弟』の姿を思い、人知れず吐息する。



 ◇◇


 眠たい目が眺めるのは、どう見てもお経でしかない漢詩が書かれた黒板ではなく、窓の外に広がる青空。

 耳を傾けるのは、先生による漢詩の解説ではなく、セミの声。

 そして、俺の意識は授業ではなく、今日のようなセミの声と眠気を誘う読経を聞いたある夏の日――母ちゃんを納骨した日に向いている。

 あの日、俺は、俺をひとりにした男を見た。



 憂うつなくもり空、にじむ汗、草ボウボウの墓、その前でお経を読む坊さん。

 納骨には俺以外に立ち会う人間はいない。親戚はいるにはいるけど、遠方住みの年寄りと俺の引き取りを拒否した人らがここに来るわけがない。それに、()()()()()は行方さえ知らん。……知ったところで、ここに呼ぶかは怪しいが。


 納骨式はつつがなく終わり、坊さんに着いて山を降りる。

 ――和尚さん、今日も暑いね。袈裟ってやっぱ暑いよな。汗かくのに、麦茶の一杯も用意しなくてすみません。

 ――いいよ、いいよ。水なら持っているのだから。それよりもね、お墓や法事のことでわからないことがあったら、いつでも寺に相談しておくれよ。……おや?


 農業用の急な坂道。慎重な足取りで山を下っていた坊さんが、ふと足を止め、右手に広がる景色に目を遣る。

 それに倣って見るものは、麓に広がるみかん畑と民家の屋根、国道を挟んだ向こうに広がる海――ウチの墓参りで見慣れた景色。そして、防波堤の手前に、見慣れぬスーツ姿の男が一人。

 誰だろうと疑問に思うよりも先に、ドキリと心臓が大きく跳ねた。


 男が道から墓のある山の中腹を仰いでる。

 遠くて顔ははっきり見えない。けど、その姿を目にした途端に、ずっと昔から胸の中で燻っていた火がブワリと膨れた。


 ()()が何か、知っている。

 俺が出席したどの葬式にもいなかった男。

 俺のそこまで長くない今までの人生で、ほんの何度かだけしか顔を見たことがない男。

 それでも、アレが誰だかくらいはわかる。


 その軽薄な笑顔で母ちゃんを何度も騙し、最後の最後まで弄んだ男。

 そうは認めたくないが、そうだと繰り返し教えられた、俺の父親。



 ◆◆


 長く住んでいた土地を離れて、知らない町に移り住むことになった『弟』。

 彼と共に暮らすのは、生まれた時から傍にいた家族でもなければ、数年間、寝食を共にした親しい人達でもない。『兄』と称するものの、実態は出会って間もない――互いに人となりをよく知りもしない――大人の男と同居している。

 未成年の彼が頼れる人間は現在、同居人()の他におらず、今更、かつて過ごした土地と生活に戻ることもできない。

 それが今の『弟』が置かれている状況だ。大人でも同様の状況にあれば、戸惑わずにはいられないだろう。


(もし、俺がアイツと年齢も立場もまったく同じ状況にあったならば、同居する保護者に気を使わねば見捨てられる、路頭に迷うはめになると危惧するだろうな。それに――)


 それとなく視線を移し、上司を見遣る。

 昼休みに聞いた話によると、上司の子どもは現在、気難しい年頃らしい。話の端々から察するに、その子の年は『弟』とそう変わらない模様。ということは――

『弟』(アイツ)は今、思春期真っ只中なんだよな)

 単に親を亡くした子どもというだけではなく、ちょっとの気の迷いで道を踏み外してしまうかもしれない、多感で不安定な年頃でもあるわけだ。


(アイツのこれからの将来と人生を守る役割を担う保護者として、責任重大だ)

 心なしか『弟』お手製の弁当を収めた胃が重みを増した気がする。



 ◇◇◇


 まぶたの重さが増しに増してきた気だるい五限目。

 眠い意識に交互にチラつくのは、いつだかの夏に会った男のクソな言動。


 うとうとうと、ミンミンミン、うとうと。

 セミの声がより眠りへと誘う。


 ――残念。


 セミの声に混じり、あの男の声が聞こえた気がした。



 どこで母ちゃんの死を知ったのやら。母ちゃんの墓のある山の麓までは来たが、とうとう墓前までは足を運ばなかった男。

 名前を聞かない限り、俺を見ても息子と気付かないのはいつものこと。一度として触れた記憶のない父親。

 山の麓から母ちゃんの墓を仰ぎ「残念だな」とだけほざいた野郎は、ようやっと俺に向き合ったかと思えば、父親面して札束の入った封筒を差し出した。


 ――これを渡しておこう。

 『これ』とだけ言われたものが、香典なのか養育費なのかわかんねえ。だから、訊いてやる。

 ――なんすか、これ。あんたにまく塩代?


 金を押し付けるべく俺の手首を取った――それが初めての接触だ――男の手の生ぬるさと、曇り空から金を持たされた手に小さな雨粒が落ちた感触は今でも鮮明に覚えている。



 ◆◆◆


 昼下がりという時間が齎す気怠さと、仕事による疲労、弁当とその他の要因による胃の重みを持て余しつつ顧みるのは、まだ長いとは到底言えない『弟』と過ごした日々だ。


(アイツは本当によくやっている)

 一五歳といえば、まだまだ子ども。だが、『弟』は慣れぬ土地での生活を始めてから、文句ひとつ言わず、いつも気さくに笑い、家事もこなしている。

 だが、俺は?


 なんとはなしに眺めていた窓の外、視界の端に白い雲が流れ込むのを目で追いながら、己に問い質す。

 ――『弟』と出会ってから今日まで、俺はアイツに兄らしいことをきちんとしてやれただろうか。

 ――優しくできたか、困らせてはいないか、苦労させてはいないか。


 ひとり親に育てられるも、親に死なれてひとり遺され、他人と共に過ごしていた子どもがどんな思いでいるのか。俺も少なからずその気苦労を知っているのに、『弟』への配慮に欠けていたなと今になって悔やむ。


(アイツが笑ってくれるから、現状にひとりで勝手に満足してしまっていたな)

 外を流れる雲の、あまりにも冴えた白さが疲れた目に痛い。

 雲の白さを言い訳に、ふいに胸中に去来した罪悪感を遮るように窓から目を逸らした。



(俺はあのクズじゃない)

 再びパソコンに向かい、カチャカチャとキーボードを打つ。普段通りのパフォーマンスを意識することで、平静を保とうと努める。


(大丈夫。まだアイツと暮らし始めたばかりじゃないか。こうして己の力量不足に気付けてよかっただろ。焦らずきちんと、アイツと向き合えばいい)

 規則的なタイピング音に合わせて、自分に大丈夫だ、と言い聞かせる。


(大丈夫。俺もアイツもアレのようにはならない)

 大丈夫、だいじょうぶ。俺達なら大丈夫だ。


 ――決めただろう。俺はアレにはならず、()()()()のようになるのだ、と。



 ◇◇◇◇


 ミンミンと、相変わらず聞こえるセミの声。けど、セミの声に混じり、どこからかにわかにヒソヒソクスクス、人の声が聞こえた。

(なんだ? どした?)

 そういや、お経みたいな先生の説明がいつの間にかなくなってる。

 頭の中は疑問符だらけ。うつむいてた顔を上げ、教壇に目を遣る。見えたのは今まさにこっちに向かってオーバースローで振りかぶる先生の姿。


「あ゛っ」

 コンッ!

「痛って!」

 ドッ!


 我ながら間抜けな声を上げて両腕で頭をガードしようとした瞬間、白チョークが視界に飛び込み、頭に直撃した。次いで教室中に湧き上がるみんなの笑い声。標的を見事に射止めた先生への感嘆もちらほらと聞こえる。


(えー?)

 なーんか、教室の様子がおかしいと思ったら、俺の居眠りがバレちまってたのか。

 俺、イビキ掻いてたんかな? ヨダレ……は垂らしてないか。どのくらい寝てたんだろ? うわ、みんなに見られてら。

(恥っず!)


 多分、俺、顔赤くなってるだろうな。おもむろにチョークの当たった頭を掻き、どうにも締まんねー顔で誤魔化し笑いをする。

 気怠さも眠気も吹っ飛んだ。


 あー、まいった。居眠りなんかするもんじゃねーや。

 先生に『居眠り小僧』で覚えられちまうわ、罰として漢詩読まされるわ、先生のピッチングフォームがやたらと良かった上に命中したせいで、しばらくはクラスに居眠りのこと忘れてもらえなさそうだわで、もー散々。

 けど、おかげでクソ親父に向いてた意識を逸らせたから、まあいいか。



 ◆◆◆◆


 どれくらい入力作業をしていたのだろう。隣の同僚が席を立つ気配と音で、集中が途切れた。

 ふと吐いたひと息が思いのほか長く、肩と腰にじわりと乗っかる重みが、作業時間の長さを物語る。

 達成感のある心地良い疲労感とは違う気だるさに、またため息が出た。


 疲労感と凝った体をほぐすべく、本日二度目の休憩所に向かう。

 お茶とチョコバーで英気を養うかと、自販機のラインナップを見て、視線がある一点で止まる。

「このコーヒー」

 いつぞや、『弟』の知人に渡されたのと同じ物だ。


「熱っ」

 苦手とわかっていながらなんとなく買ってしまった缶コーヒーは、先日貰ったものとは違い、熱い。

 冷房で体が冷えたからと熱いものを選んだが、手に取って改めて品物も温度も誤ったものを買ってしまったと後悔した。諦念のため息ひとつ。


 一口飲んだコーヒーは、やはり苦手な味だった。

 真っ先に感じたのは強い苦味。熱い液体が舌全体に広がって感じる、乳脂肪特有のくどいまろやかさとぬるつき、微妙な甘み。

 缶コーヒーを飲む度に舌の両端に感じる、火傷とは違うチリチリとした刺激は何由来のものなのだろう。こればかりは何度飲んでも慣れず、うんざりする。


 缶コーヒーとはこういうものだと知っているから、今更がっかりすることはない。ただ、飲み進めるごとに、次はないな、と飲む気が減退していった。

(淹れたコーヒーは好きなのに、何故、缶コーヒーだけ駄目なんだろうな)


 残り三分の二にして早くも"リタイア"の四文字が脳裏に浮かぶ。

 手中でぬるくなっていくだけの缶を持て余していたのは今も、そして、前回、同じ缶コーヒーを渡された時も一緒だ。

 ただ、あの時は俺の"苦手"をかっ浚ってくれた頼もしい奴がいた。『弟』だ。


 そのささやかながらも俺にとっては大切な思い出が、昼下がりの気怠さと胃の重さを軽く払ってくれた。

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