"あっち"だか"あちら"だか
※閲覧注意
毒親(親族)の話題です。
それらの要素が苦手な方は自己責任のもと、閲覧のご判断をお願いいたします。尚、その上で本作においてご気分を害されましても、当方は責任を負いかねますのでご了承くださいますようお願います。
◇
もうじき駅に着くぞ、と起こされた時、『兄貴』がまーだ缶コーヒーを飲んでいないことに気が付いた。
「飲まんのならちょうだい」
『兄貴』からひょいと取り上げ、なんら抵抗なく手中に収まったそれのぬくもりに笑う。
貰った時は缶の表面に汗を掻くほど冷たかったのに、今は文字どおり『兄貴』の人肌に温まってるとかウケるんだけど。卵とか殿様のわらじじゃねえんだから、大事に抱えんなって話。
初夏の日の当たる窓辺にいたせいで、カラカラに渇いた喉に甘苦いばかりで香りのない、ぬるい液体を流し込む。
(うん、余計に喉が渇いたわ)
「そういやさあ」
舌にまとわりつく微妙な味に眉を顰めつつ、隣に声を掛ける。
「このコーヒーと同じくらいこれまで触れられてなかったけどさ、"あっち"は行かんでいいの?」
『あっち』――その一言で『兄貴』が固まった。
◆
「"あっち"は行かんでいいの?」
俺が飲まずにいた缶コーヒーを微妙な顔で飲みながら尋ねる『弟』に、思考が止まる。
「"あっち"?」
「そう、"あっち"。今日は"こっち"について来てもらったから、次は"あっち"なんだろ?」
あー、ああー、やはりそういう意味か。
"あっち"とはつまり、クソ親父の実家。
◇◇
自分が"あっち"の人らにとって、喜ばれたり有り難がられるものじゃないのはわかってた。
もしそうじゃないなら、今頃、俺は『兄貴』と一緒にいなかったろう。
こちとら願い下げだって人らなんだろうなってのは、これまでにあったことと『兄貴』の態度でわかる。
つくづく変な家だよ。
"あっち"の人らには一度だけ会ったことがある。
親父の葬式に来た、爺さんと婆さんとおっさんの三人。
男二人は親父と似てた。顔とクソさが。
婆さんは上品そうな人だったけど、終始無言で、汚ぇもんでも見るような冷たい目を向けられたことしか覚えてない。
どうやら俺には、毒みてぇな人らの持つ、ロクでもねぇ血が混じってるらしい。
◆◆
"あちら"はとにかく血筋を重んじる奴らばかりで、あとは性別と一族にとっての有用性を基準として、勝手に人をランク付けする。
クソ親父がいたずらに手を出した住み込みの家政婦と、出張先で遊んだ和菓子屋の店員――それらを母に持つ俺と『弟』は、奴らにとってはランク外……いや、それ以下の鼻つまみ者、ただの"家の恥"でしかない。
クソ親父は当然クソだが、その生産元もまた碌でもないのだと『弟』はわかっている筈だ。だからこそ、先の質問にやんわりとかぶりを振る。
「オマエが"あちら"に、無理に行く必要はないよ」
"あちら"が『弟』に興味を持たなかったことは僥倖だ。
『弟』が自ら進んで"毒"に飛び込むことはない。
◇◇◇
「それとも、行きたいのか、"あちら"に」
勧めかねるが、と『兄貴』の曇りに曇った眼が無言で訴える。
「最低限知っときゃいい人らには挨拶もしたし、必要な話もされた。そこで自分が歓迎される身じゃないのはわかったけど、それでも俺が必要なときは行かなきゃだろ」
今までは何度も『兄貴』が庇ってくれたけど、『兄貴』ばかりに負担はかけさせらんねーし。
「オマエは頼もしいな」
優しい人は微かに笑む。
◆◆◆
(現状、この子が"あちら"に行く必要はない)
真実、血に拘る"あちら"のことだ。『弟』の存在は早くに認識していた筈である。そして恐らく、危機管理の一環で、この子の置かれた環境も定期的に調査し、把握していたことであろう。
それにも拘わらず、クソ親父の死期が迫るまで"あちら"は『弟』を秘匿し、放置し続けた。
クソ親父が俺に送りつけた手紙による告白で、『弟』の秘匿は解かれたものの、それでも"あちら"は"家の恥"のレッテルを貼ったこの子に家の敷居を跨がせたくはないらしい。クソ親父のささやかな遺産を手切れ金として、"あちら"との関わりを絶たれている。
一見すると散々な処遇に思えるが、"あちら"のタチの悪さを知る俺に言わせれば、『弟』にとっては悪い話ではない。
同じ"家の恥"でも、俺はそうもいかないが。
◇◇◇◇
駅中を見回し、やっとみつけたゴミ箱に持て余していた空き缶を捨てる。
昼間、海と山に囲まれた町で手渡された缶コーヒー。それが苦手な『兄貴』から、わりと平気な俺の手に渡り、最後は遠く離れた地の夕焼け色に染まるゴミ箱に辿り着くなんて、コイツも長旅をしたもんだ。
(そうだ。それでいいんだって)
「『兄貴』、次からは"あっち"に呼ばれたら俺も行くから」
「わかった」
いンや、これはわかってねーな。
「『兄貴』が呼ばれた時もだからな」
「わかっ……た?」
いつも眠たげな切れ長の目が、ふいに見開かれた。
つまりはさ、『兄貴』が持て余すものなら、俺も一緒に持てばいいんだ。




