妖精姫は赤獅子将軍に差し入れをする
朝食後、自室に引き上げたレオナルドはまだ体がふわふわしていた。
目の前にアーシャの笑顔がちらついて階段を踏み外しそうになるし廊下の花瓶に激突しそうになる。部屋の扉には実際に激突して扉が悲鳴を上げた。
心配で付き添ってきたクロイスは部屋に入るなりレオナルドの肩をがっしと掴んだ。
「レオナルド!しっかりしろ!お前が呆けると屋敷が壊れる」
「あ?ああ。クロイス……アアアアーシャは……俺のこと怖がってなかったよな?」
「ああ。むしろ楽しそうだったぞ」
「そ、そうか!そうか!!」
アーシャは俺を怖がっていない。それはレオナルドに希望を与えた。たとえ婚約者の義務として交流を図ってくれているのだとしてもちゃんとレオナルドに向き合ってくれるのだ。
俺が間違っていた。会わないように気を遣うのでなく俺を知ってもらって少しでも歩み寄っていきたい。
最初は十歳も年下の令嬢——それも〝妖精姫〟と呼ばれている美しい令嬢と婚約などきっと国王陛下に無理強いされたのだと思った。婚約式の時の震えた様子もそれを裏付けた。
この三日間レオナルドは顔を合わせなかったがアーシャたちの様子は気にかけていた。
侍女を含め彼女たちは使用人の少ないこの屋敷でも不満一つ漏らすことなく使用人の皆にも好意的に接していたが、時折レオナルドの予定を聞かれ、会いたいと言われたそうだ。国王陛下に無理強いされて震えるほど怖いのにちゃんと婚約者としての義務を果たそうとしている。なんていい子なんだ。無理しなくてもいいと伝えようとした矢先、朝食にアーシャが現れたのだった。
「お前、これから騎士の訓練に向かうんだろ?」
はっ!そうだ!「荒っぽい訓練なんか見たらアーシャが『やっぱり怖いわ』とか言わないかな?」
「いや、大丈夫だろ。むしろ格好いいところを見せてやれよ」
クロイスはアーシャが口先だけでなく心からレオナルドのことを好ましく思っていると感じていた。
よかった。国のために十年も死地で頑張ってきた主人であり友であるレオナルドだ。妻となって支えてくれる人には彼の良さを分かってほしかった。
……が、「よし!頑張るぞ!」と腕まくりして張り切るレオナルドを見て、これから降りかかる騎士たちの受難を思いクロイスはそっと天を仰いだ。
自室に戻るなりアーシャはベッドにダイブした。
そのままベッドの上をゴロゴロ転げまわり身もだえる。
「やった!やったわ!私!頑張ったわよ!」
レオ様と食事した!レオ様にアーシャって呼んでもらえる!今日訓練を見学しに行く許可ももらえた!なんて素晴らしいの!
「アーシャ様、よかったですね」マリアナがにっこり微笑んだ。
「二人とも協力してくれてありがとう。私に付き合って早起きさせてごめんね」
「あら、私たちはアーシャ様の侍女ですもの。アーシャ様の幸せのために協力するのは当然のことです」
アーシャ様の男性の趣味は理解できないけれどアーシャ様が嬉しそうならそれでいい。マリアナはアーシャ様の望みをかなえるために努力するだけだ。
「アーシャ様、まだ気を抜いてはいけませんよ」
力強くセシルが言った。
「次は手作りの差し入れをもっていって胃袋をがっちりつかもう作戦です!」
ガバッとアーシャがベッドから起き上がりセシルの手をがっちりつかんだ。
「セシル凄いわ!天才!?」
「そうと決まれば厨房に行ってシェフにお願いしてきます!」
セシルは勢いよく部屋を出ていった。
シュヴァリエ侯爵邸の敷地内にある騎士たちの訓練所には屍が積みあがっていた。
昨日に引き続き訓練に現れたレオナルドは昨日の訓練が子供のお遊戯と思えるほど張り切っており、騎士たちは悲鳴を上げて団長に泣きついた。
重い鎧を着て何週も走らされ、鎧を脱いだ後も腹筋に背筋、腕立て伏せと続く。もちろんレオナルドも同じ量をいや、それ以上の量をこなしケロッとして実践訓練に入る。
一度に三人、五人を相手にして騎士たちの弱いところを指摘しながら打ちのめす。
団長は部下の泣き言を聞きながらも苦笑してレオナルドを見た。
彼はレオナルドが騎士たちに稽古をつけながらもちらちらと入り口を何度も気にするのに気が付いていた。
入り口からクロイスに案内され二人の侍女を伴った令嬢が入ってくるのが見えた。
「さあ、今度は七人だ!一斉にかかってこい!」
レオナルドの張り切った声が聞こえ団長は吹き出しそうになった。
訓練が一段落するとレオナルドはアーシャのところへすっ飛んで行った。
「レオ様汗が……」
「ありがとう」レオナルドがアーシャの差し出したタオルを受け取ろうとするがアーシャはなぜか渡さない。
「レオ様、屈んでもらえますか?」
訳が分からないままレオナルドが姿勢を低くするとアーシャは自らレオナルドの額の汗を拭いた。
ボンッ!と音がするぐらいレオナルドの顔が赤くなった。
アーシャはアーシャでこのタオルはレオ様の汗付きのまま貰っておこうなどど不埒なことを考えていた。
「あーゴホン!ウオッホン!」
咳払いにレオナルドは我に返り後ろを振り返った。
「ア、アーシャ、紹介しよう。シュヴァリエ侯爵家の騎士団長ルーシャン・ブレイクリーだ」
〝レオ様〟〝アーシャ〟ねえ……
ルーシャンは戦場でレオナルドの副官を長らく務めた猛者である。軍隊解散後シュヴァリエ侯爵家の騎士団長に就任した。歳は三十代後半で二人の子持ちである。
レオナルドの信頼厚いこの男はレオナルドに春が来たことを喜んだ。戦勝記念の夜会にともに出席したルーシャンはレオナルドが貴族のご令嬢方に怖がられ避けられる様を間近で見ていた。
目の前のとても可愛らしいご令嬢はレオナルドを怖がるどころかレオナルドと楽しそうに話をしている。見る目のあるご令嬢もいるんだなと嬉しかった。
ルーシャンと挨拶を交わした後レオナルドと楽しそうに話をしていたアーシャはふと思い出したように告げた。
「そうだわ!レオ様、差入れを持ってきたんです」と後ろに控えた侍女を振り返る。
その言葉に今まで団長の後ろで興味深々に窺っていた騎士たちから歓声が上がった。
訓練所の端にある椅子とテーブルのあるスペースまで移動し、マリアナとセシルが持っていたバスケットをテーブルに置く。
バスケットの中には大量のフィナンシェが入っていた。
「おい!手を洗ってこい!」ルーシャンが言い終わる前に我先にと駆け出していく。
「皆、まだまだ余力があるようだな」レオナルドは苦笑した。
「レオ様、お手拭きどうぞ」アーシャはかいがいしく世話を焼き(きゃあ奥様みたい)と一人で赤くなっていた。
フィナンシェは瞬く間に騎士たちのお腹に消えていく。
レオナルドはあらかじめ取り分けられた分のフィナンシェを口に運んだ。
「あの、お味は?」
「うん。美味い」
ぱあっとアーシャの顔が明るくなる。その嬉しそうな微笑みにレオナルドを始め全ての騎士たちが見惚れていた。
「このフィナンシェ、私もお手伝いして作ったんです!」
「え?アーシャの手作りなのか?」
もちろん料理などしたことのないアーシャにお菓子など作れるわけがない。アーシャがやったのは粉をふるいにかけることと生地を混ぜることだけだ。それもシェフの監督のもとに。それでも好きな人のために料理(の助手)をするのは初めての経験でとても楽しかった。
レオナルドはなぜか自分の分のフィナンシェを包み始めた。
「レオ様お口に合いませんでしたか?」アーシャが悲しそうに聞くと
「いや違う!!」レオナルドは強く否定した後小声で言った。
「今食べてしまうのが惜しくなったんだ。後でじっくり味わいながら食べようと思って……」
レオナルドの小声が聞き取れたルーシャンは吹き出すのを何とかこらえた。
戦時中のレオナルドは常に張りつめていた。大勢の味方の命を握っているのだから当然のことだ。
そしてレオナルドは兵士たちの前では常に堂々としており威厳を感じさせた。体格や厳つい顔つきのせいもあるが二十六歳の若者だとは思えない貫禄だった。
ルーシャンは初めて年相応に見えるレオナルドを見たのである。二十六歳の若者らしく照れたり嬉しそうに笑うレオナルドを見て鼻の奥がツンとなるぐらい嬉しかった。