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サヴァンになれずともシリーズ

鳥は飛べなくとも ~斎藤唯子と高石千佐斗、精神病棟にて~ サヴァンになれずとも外伝

作者: 雄野ひよこ

『続・サヴァンになれずとも ~斎藤唯子の失敗と時田巧の回り道』(https://ncode.syosetu.com/n8587hb/)の番外編です。

 高石(たかいし)千佐斗(ちさと)

 その栗色の髪の短いツインテールの、頭に包帯を巻いた、少女と見まごうほどのあどけなさを持った年上の女性とは、精神病棟で出会った。

 私にとっては初めての同性の友達であり、彼女にとって私は「生き証人」であった。




 12月24日。

 その日私は練炭自殺を試みるも失敗に終わり、警察に保護という形で署に連行された。ほどなくして仕事を切り上げてきた父に出迎えられ、何も言わずに車に乗せられた。行き先は精神病院だった。

 と言ってもいつもの町のメンタルクリニックではない。車は山奥へ山奥へと進んでいく。目的地が大病院で入院させられることは警察署で事前に聞かされていた。だけに気分が暗く沈む。父も怒っているのか、口数が少ない。


「警察に保護された時に一緒にいたという男の子は何だ?」

「あ……えーっと、時田(ときだ)(たくみ)君……作業所の副所長さんの息子さんで、私のと、友達の……たまたま家に来て私を起こしてくれただけで……」

「そうか」


 車内での会話はこれだけであった。

 夕焼けを反射して(きら)めく木の葉が(だいだい)色から深い紺色へ変わる頃、その大きな精神病院に到着した。車を降りて父の後ろを私は(うつむ)きながら、ただ黙ってトボトボ歩いた。

 外来室という所に入ると、目の前を(さえぎ)るように長い机が置いてあって、机の向こう側の扉からでっぷり太った男と中肉中背の男の白衣を着た二人組が出てきた。なんとなく太った方が偉そうだと思ったが当たりだった。彼は院長だと名乗った。

 父と院長の話を私はただ静かに聞いていた。私に口を出す権利などあるはずもない。自殺未遂はこれが初めてではない、前に一度高校でやってそのまま退学になっているから、その時かけた迷惑を思えば父には頭が上がらない。

 話はやはり入院する方向に進んでいた。不意に院長が私に尋ねてきた。


「新型コロナ感染防止対策として五日間隔離病棟に入ってもらいますがよろしいですかな?」


 はいと従順に返事しながらその言葉の意味の恐ろしさについて考えていた。五日間の隔離病棟、その(すさ)まじさはすぐにわかった。

 父は帰り、私は一人残された。外来室を出て待っていると看護師が来て9号棟という病棟の自分の部屋というところに案内してくれた。しかし部屋と呼ぶには……あまりにも粗末であった。

 四角い机と簡易トイレとベッドが置いてある以外には何もない。まだ囚人の方が文化的に暮らしていそうだと言える、シンプル過ぎる部屋だった。こんなところに五日間も隔離されると考えただけで頭がクラクラした。

 実際、この五日間は過酷を極めた。

 部屋は常に閉ざされていて、実に出入りしたのは検査の時の一回のみであった。それも当然自由に外を見物できたわけではない。

 簡易トイレは水洗式などではないから使えば部屋が臭くなるし、飲み水で手を洗わなければならなかったりする。この五日間は風呂にも入れなかった。

 そして何よりも(こた)えたのは、ナースコールすらない部屋で何か要望を言う時は、食事を運んでくるなどで職員が向こうからやってくる際を除けば、けっして開かない扉の前に立って訴えかけ続ける他なかったことだ。職員が聞いてくれることを祈りながら。


「すみません……部屋が寒すぎるんです……冷房の温度を上げてもらえないでしょうか……」


 そんな些細(ささい)な願いでさえ誰にも届かない。時折通り過ぎる幽鬼めいた人影に追いすがって私は叫ぶ。


「冷房の温度の調節をお願いします! 病人は布団にくるまってずっと震えて寝てろとでも言うのですか! 本当にお願いします!」


 しかし無視。これには参ってしまって、


「この人でなし共!」


 と扉を蹴って、後で反省する当たり方をしてしまった。

 すると後から慌てた様子で何事ですかと職員がやってきたのでようやく私は要望を伝えた。


「冷房弱中強の三つしかなくて後はオフだけです。今が弱なんですけどどうされます?」

「今で弱!? ではオフに」


 というやりとりがあった。それが必ずしも良い結果を生んだかというとそうではなく、その夜私は掛け布団をかけて寝たら、暑すぎて汗をびっしょり()いてしまった。夜中に目が覚めてしまったと後悔しても遅い。




 そんなこんなで五日が過ぎた。私は耐え忍んだ。そして扉の鍵が開けられ、私は恐る恐る部屋の外に出た。すると細長い通路があった。見渡して、それはすぐに目に留まった。

 栗色の髪の短いツインテールの、頭に包帯を巻いた少女。そう見える女性がすぐ横に立っていた。


「9号棟へようこそ! 斎藤(さいとう)唯子(ゆいこ)ちゃん」


 明らかに私へ向かって、彼女は話しかけた。


「あの、どうして私の名前を……」

「だって部屋の表札に名前が書いてあったし」


 私は急ぎ自分の今出てきた部屋を注視した。すると確かに扉の上に「斎藤唯子」と自分の名前が書かれていた。


「私、タカイシチサト。高い石に百千万の千に大佐の佐に北斗七星の斗で高石千佐斗。なんか強そうってことしか伝わってこない変な名前でしょー。まぁこれからよろしくね」


 そう自己紹介してVサインを作ってみせる千佐斗。精神病棟のイメージに対して場違いなほどの陽気さに私はつい警戒する。それがよっぽど顔色にも出ていたのか彼女は(とが)めた。


「そんなに(おび)えなくとも大丈夫だよ。何も取って食ったりしないから」

「す、すみません……あの、私に何か用ですか?」

「先輩として右も左もわからない後輩に色々ここのこととか教え込んであげよっかなーと」

「それはありがたいのですが……高石さんのお時間は大丈夫でしょうか?」

「さん付け禁止、タメ語でOK。私のことは千佐斗って呼んで。私も唯子って呼ぶから。遠慮しないで、ね」

「でも……」

「唯子ってば意外とシャイなんだね。もっとガツガツした感じの人かと思ってた。この人でなし共! とかさ」


 あの時の叫び声を聞かれていた? 私は途端に赤面する。


「聞こえたの?」

「だって部屋隣だし」


 慌てて隣の部屋の表札を確認してみれば、確かに「高石千佐斗」とあった。


「すごい音がしたからビックリしちゃって看護師を呼びに行ったよ」


 それを聞いて私は自分の部屋へと戻り、扉を閉じた。


「なんで? どうしたの?」

「穴があったら入りたい……」


 今まで知らず知らずに千佐斗に迷惑をかけ、なおかつ助けられてもいたことを恥じた。その場でうずくまる。


「隔離なんて最初はみんなあんなもんだよ。要望が通らず諦めるか通るまで叫び続けるか……惟子は後者だから我の強いタイプかと思ったんだけど」


 最悪だ。誰にも知られたくない本性を知られてしまうなんて……ますます恥じ入る。


「ねぇ、折角(せっかく)隔離終わったことだし外出よう。面白い物がいっぱい……はないけどあるよ。だから部屋に閉じこもっていないでさぁ!」


 その後千佐斗にしばらく説得され続け、ようやく私は再び部屋の外へ出た。


天岩戸(あまのいわと)を開ける時みたいにちょっとワクワクしちゃった」


 何が面白いのか千佐斗は子供みたいに笑いかけた。私は少し()ねて彼女から目線を外した。すると代わりに周囲を徘徊(はいかい)する一人の老婆(ろうば)が目に留まった。なんなんだろうあの人……と疑問を抱いていたら、千佐斗が意を()んで、


「あぁ、太田(おおた)さん? 趣味は9号棟のマラソン。邪魔しないであげてね」


 紹介した。隔離病棟時代に見た、度々幽鬼のように通り過ぎる人影は職員ではなくこの人だったのかと()に落ちた。


「それじゃあ唯子、案内するからついてきて!」


 千佐斗は私の手を強引に握って、駆け出した。私は引っ張られていく。最初に通路右手奥に進むとすぐ行き止まりであった。


「唯子も検査の時に通ったと思うけど、この閉ざされた扉の向こうのエレベーターから外へ出られる。逃げたくなったら頑張ってね」


 どう頑張ればいいのか。具体的な手段はこの時は言わなかった。

 次に通路の反対側へずっと歩いていった。すると開けた場所に出た。机と椅子がたくさん並んでいる。


「ここが食堂! みんなでご飯食べたりテレビ見たりオセロしたり談笑したり、(いこ)いの場だよ。唯子もくつろいでいってね」


 千佐斗は相変わらず明るい声色で説明する。時計を見れば午後三時半、天井に吊るされたテレビを前にしておやつを食べながら談笑する中年女性のグループが目に留まった。

 そういえばここは女性ばかりだ。男性はいないのだろうか……それとなく千佐斗に尋ねた。


「ねぇ千佐斗……もしかして9号棟って女性しかいない?」

「そうだよー。ここが華の大奥じゃ。と言ってもおばちゃんおばあちゃんばっかりだけどね。だから唯子みたいな若い子が来てくれるのは申し訳ないけどちょっと嬉しいんだ」

「千佐斗の方が若いでしょ……歳いくつ?」

「22だよ」

「え……4つも年上じゃないですか!」


 私が驚くと初めて千佐斗は笑顔を崩してムスッとした表情を見せた。だが私が驚いたことに対して機嫌を損ねたのではなかった。


「敬語禁止。一度タメ語で話したからには突き通してもらわなくっちゃ」

「でも、千佐斗さん……」

「さん付け禁止。ちょっぴりお姉さんってだけだよ。若い者同士気楽にやろうよ」


 そう言って千佐斗は私の肩に手を回してきた。そのまま歩きだす。

 食堂を抜けてくの字に曲がるとまた通路があってすぐ行き止まりだった。


「この先が浴室だよ。今は閉まってるけど週三回入れるよ。明後日の一時半からやってるからまたその時に一緒に入ろ!」


 千佐斗は背中を叩くと私の体から手を離した。


「じゃあ後は唯子の自由にしてていいよ。私は部屋に戻るから、何か用があったら声掛けてね。後で一緒にご飯食べよう。じゃあね~」


 そう言うと、千佐斗は鼻歌交じりでその場を後にした。高石千佐斗――悪い人じゃないみたいだが親切すぎて逆に怖いくらいだった。

 私には発達障害がある。人と上手く付き合えない。彼女とやっていけるか不安だった。

 その日の夜、私は初めて食堂でご飯を食べた。勿論千佐斗と一緒にだ。彼女はテレビを見ながらつまらないねと言いつつも爆笑していた。そのテンションの高さにはついていけない。

 そういえば彼女何者なんだろう……まだ名前とその明るい性分しか知らない。一体何の病気で、入院歴はどれくらい? それとなく聞いてみようと思ったが、先に千佐斗が席を離れた。


「ごめん唯子、私もう帰って寝るね」

「えっ、まだ早いんじゃ……」

「人には人それぞれの事情ってもんがあるから。じゃあねおやすみ!」


 あっという間に千佐斗の姿は小さくなっていく。人には人の事情がある、か……彼女の抱える問題と何か関係があるのだろうか、と私は憶測した。




 それからというものの、折角私は9号棟内を歩き回れるようになったというのに部屋で過ごすことが多かった。食堂はなんとなく馴染めなくて居心地が悪かった。

 千佐斗とは食事の時に顔を会わす程度だったが必ず向こうから話しかけてきた。いつも通り明るく。でも深い話はお互い避けていた。

 そこから一歩踏み込んだのは入浴の後だった。


「あーお風呂気持ち良かった!」


 そう言って脱衣所から出てきた千佐斗の横で、私はのぼせ上がって顔を真っ赤にしながら、ガックリと肩を落とした。


(わき)……()れなかった……」

「だから背中流すの手伝おうかって言ったじゃん。そしたらムダ毛処理する時間だって……」


 悔しいが千佐斗の言う通りかもしれなかった。まず人込みを避けて遅い時間に行ったのが良くなかった。私は一週間分の(あか)を落とすのに必死で、腋毛の処理にまで手が回らず、時間切れとなってしまった。彼女の申し出に遠慮しなければ結果は違っていただろう。


「うぅ……」

「次があるって! あんまり落ち込まないで」


 千佐斗は甲斐甲斐しく慰めてくれる。


「逆に考えるんだ。伸ばしたっていいさって。その方が特定の需要はあるから」

「特定の需要、とは?」

「マニアックなAVとか。私AVに出演させられたことがあるから多少知っているんだけど……」


 千佐斗がいきなりとんでもない話をいつもの明るい口調でしたものだから、周囲に聞かれていないか私はヒヤヒヤする。

 思わず私はしぃーっと口に指を当てるがまるで意味のわかっていない顔をする千佐斗。逆に彼女が心配そうに言った。


「どうしたの唯子、急に青ざめちゃって」

「その、ビデオとか、大声で話すようなことじゃないというか……」

「あ、今の、聞かれちゃマズイ系だった?」


 千佐斗は左掌を右手拳でポンと叩く。ようやく合点(がてん)がいったという風に。それから明るい口調のままで語り始めた。


「私、(そう)の時は自分のことでも他人事なんだよね。どんなに苦しかった経験もまぁどうでもいいかなと」


 ここが精神病院だったから「躁」とは躁うつの躁のことだと私でも推測できた。


「多分全てがどうでもいいんだ……だからここまでハイになれるんだ。気分を落ち着かせる薬とかも飲んでるけど効かなくなったねはい次って感じでさ」


 千佐斗の明るさが生来のものではなく病気から来るものだったとは。彼女の印象が一変した。

 私はふと頭に浮かんだ、聞いちゃいけないだろうけど聞いてみたくなる気持ちに駆られる質問を、恐る恐る投げかけた。


「じゃじゃあ……うつの時は?」

「……」


 沈黙が答えだった。それ以上私は聞けなかった。

 その報いか、私の恐れていた質問が千佐斗の口から飛び出した。


「唯子はどこが悪いの?」


 千佐斗にだけ喋らせて自分は隠すのはフェアじゃない。私は観念して重い口を開く。


「私は……希死念慮(きしねんりょ)


 自殺未遂をして精神病院に入院させられた話を私は語ってみせた。千佐斗は相槌(あいづち)を打ちながら聞いてくれた。


「そっかー唯子も色々大変だね」


 人と苦しみを分かち合う、なんて初めてで少しムズ(がゆ)いが、悪い気分ではなかった。


「それで主治医にはなんて言ってるの?」

「生きる希望なんてないのに、じゃああなた達がそれを与えてくれるんですか!? って言ったらあなたは病気なのでまず薬を飲んでくださいって言われて」


 千佐斗の質問に私が答えると、彼女はあちゃーと言いながら包帯を取った(ひたい)に手を当てた。


「いいかい唯子、早く退院したかったら死にたいは禁句だよ。死にたくないって言わなきゃ。すると医者は本当かなって疑ってかかって心理テストを仕掛けてくる。これが難しくってさぁ……見破るにはコツがいるんだけど」


 私は千佐斗のアドバイスを関心を持って聞いていた。


「今度見破るコツを教えてあげるね。じゃあ私は新しい包帯巻いてもらってくるから。またね」


 それで話をおしまいにして、千佐斗は一足先にその場を後にした。

 千佐斗のことが少し知れたのは良かったと思った。しかしまだ謎は残っている。その頭の包帯の理由とか……だが余計な詮索(せんさく)はお互いの為にならないとも思えた。

 もう少し親密になればもっと秘密を教えてくれるかもなんて淡い期待も抱かずにはいられなかったが。




 ある日の昼、私は一冊の本を読んでいた。保険証やお薬手帳が入っているからと父が家から持ってきた(かばん)の中に一緒に入っていたものだ。

 ふと本から目線を外すと、それを(のぞ)き込む千佐斗と目が合った。いつの間に部屋に上がり込んでいたなんて! 読書に夢中で気が付かなかった。本を閉じる。


「ごめんごめん、邪魔するつもりはないんだ。唯子、いつも部屋にいるから(ひま)なら食堂でオセロでも、って誘いに来たんだけど必要なかったね」

「別に……本ならいつでも読めるし」

「いいよ。好きなことするのが一番だし。だって本読んでる時の唯子、すごく真剣そうだったよ。ちなみになんて本?」

「死に至る病」

「よりによってそれかー!」


 千佐斗が全身使ってオーバーリアクションをする。それからベッドに座る私の横に腰かけた。


「でもこれ図書館で借りた本だから延滞が……」


 私が気にしていることを声のトーンを落として言うと、千佐斗は気にしない気にしないと笑いかけた。


「入院してるんだから仕方ないじゃんで済む話だよ」

「でも……」

「幸せになる秘訣(ひけつ)は、どうしようもなく図太くなることだよ唯子」


 幸せになる秘訣か……それを実践できていればここにはいない気がする。お互いに。


「図書館に通うぐらい本好きっていいなぁ。打ち込めるものがあるって素晴らしいことだよ」


 千佐斗が(うらや)ましそうに言ったものだから、私は聞いてみる。


「千佐斗には何かないの? 趣味」

「ないよ」


 即答だった。千佐斗は明るい声色で悲しいことを言う。


「私には何もないんだ。空っぽの人間。それが私」


 千佐斗は立ち上がって私を背にする。その背中がひどく小さく見えた。

 普通の人なら何か気遣ったことを言うのだろうが私は普通ではないためなんて言ったらいいかわからなかった。考え抜いた末に出した結論は、本貸そうか、という同好の士に引き込むことだった。しかし、千佐斗は拒絶した。


「私、一度読んだ本は読み返さない主義なんだ」


 何度も同じ本を読んで咀嚼(そしゃく)する私との違いが浮き彫りになっただけであった。


「なんかごめんね。気を遣わせちゃって。でも本当に私はどうしようもない最悪な奴なんだ。本当……」

「そんなことない!」


 慌てて私は言葉を紡ぐ。千佐斗がうつに陥らないようにと。


「千佐斗はいつも私に親しく接してくれているし、世の中そういう人はそうそういないんだから……!」


 すると千佐斗はくるりと身を(ひるがえ)し、ベッドの上の私の体に抱きかかってきた。


「ありがとう唯子。これからも仲良くしてね」

「私で良ければ……」


 千佐斗の体を抱き返そうとした時、彼女からそっと離れた。


「それじゃあいけない私が出る前に退散させてもらうね。またね唯子」


 そう言って千佐斗は私の部屋から出て行ったが、何か不穏な感じがしてならなかった。




 その日の晩ご飯の時、千佐斗が食堂に姿を現さなかった時点で不吉な予感はあった。しかし人には人の事情があるという彼女の言葉を思い出し、一人で静かに食べた。

 だが自分の部屋に帰った途端状況は一変する。扉の右の壁からドンドンと大きな物音がしたのだ。隣は千佐斗の部屋――彼女がこの音を出しているのだとしたら一体何が?

 私は真相を確かめるべく、自分の部屋を出て千佐斗の部屋の扉をノックした。


「ねぇ千佐斗、壁からすごい音するけど何やってるの?」


 返事がない。


「千佐斗、唯子だけど入っていい?」


 返事がない。千佐斗だって勝手に私の部屋に入ってきたじゃないか。意を決して私は扉を開く。すると壁に自分の頭をガンガン叩きつける彼女の姿が目に飛び込んできた。


「何してるの千佐斗……」


 想像を絶する光景に私は開いた口が塞がらない。千佐斗は頭を打ちつける度に何やらボソボソと呟いている。頭の包帯は赤くにじんでいた。危険な状態だ、やめさせないと!


「千佐斗……ちょっ!?」


 千佐斗の肩を掴んだ瞬間、物凄い力で跳ね飛ばされた。その時確かに聞いた。彼女が何を言っているのか。「死にたい」と言ったのだ、彼女は。

 このまま望み通り死なせてあげるべきか……(いな)、そんな判断をこの状況で下せるわけもなかった。


「待っててね千佐斗……すぐ看護師さんを呼んでくるから」


 頭を切り替え、私は千佐斗の部屋を出てナースステーションに急行する。そこで事情を説明すると数人の看護師がすぐに飛んでいった。遅れて部屋に戻った私が目にしたのは、二人がかりで取り押さえられて泣きわめく彼女の姿だった。


「死なせてください! 死なせてください!」


 千佐斗の叫びが痛切に響く。これが彼女の「うつ」状態ということだった。頭から血を流している。これでいつも包帯をしていた謎が解けた。


「だからあれほど躁状態の時に拘束しろと何度言えば……」

「すみません……」


 千佐斗の部屋の手前で職員の不始末を叱る職員がいた。ふと彼女のベッドを見れば物々しい拘束具が備わっていた。これで彼女が寝るのが早い理由もなんとなく察せられた。


「斎藤さんは自分の部屋に戻っていなさい」


 私はその場を追い出されてしまった。しかし自分の部屋に帰ってきても隣だから声はまる聞こえだった。やがて落ち着きを取り戻したことはわかった。どんな手段で、まではわからなかったが。

 千佐斗のことが心配だったが、どうすることもできないので私は一人寝た。

 翌朝、私は食堂で千佐斗が来るのを待っていると、彼女はやってきて離れた座席に座った。私は席を立って彼女の向かいの席に座る。


「千佐斗、もう大丈夫?」

「うん。昨夜はカッコ悪いところ見せちゃったね」


 千佐斗はバツが悪そうにしている。


「これで距離を置きたくなったら置いてもいいよ」

「そんな風に思うわけないよ」


 むしろ私は千佐斗に深い共感を覚えた。同じ希死念慮に苦しむ者同士だとわかって、より親しくなりたいと思った。


「千佐斗が言ったんでしょ。これからも仲良くしてねって」

「あはは、そうだったね……ありがとう唯子」


 千佐斗は微笑(ほほえ)んだ。いつもとは違う本当の笑顔を見せてくれた気がした。




 入院してからあっという間に二ヵ月以上経った。私達はまだここにいた。死にたいという気持ちがどこかで(くすぶ)り続けている限り、出られないというわけだった。

 その間、私は自分の部屋に千佐斗を招いておしゃべりしたり、食堂でオセロしたりして親交を深めた。

 今日は私は部屋で本を読んでいて、千佐斗は私のベッドの上で勝手にくつろいでいた。お互い一緒にいるだけで居心地が良かった。

 私は本から目を離して千佐斗に話しかける。


「ねぇ千佐斗、前に本貸そうかって言ったことがあったじゃない?」

「そんなことあったけ」

「以前本を勧めたら読んでくれた友達がいて、千佐斗でも同じことが上手くいくと思ってたみたいで……」

「唯子、シャバに友達いたんだ!」

「友達くらいいるよ……」

「そうだよね、ごめんごめん……女の子?」


 私は押し黙る。すると千佐斗は目の色を変えて飛び起きた。


「男の子!? 唯子やるじゃん。で、どこまで済ませた? Aまで? Bまで?」

「ごめん、ちょっと言ってる意味がわからない……」


 千佐斗のハイテンションさに私はついていけない。


「なーんだ、だから友達か……」


 千佐斗は勝手に納得している。私は言うべきか迷ったが結局言った。


「でも告白されたことなら一度……」

「ウソ、マジ?」


 流石に千佐斗も口に手を当て驚いた風だった。私は気恥ずかしくなる。


「それで告白になんて答えたの?」

「付き合うとか無理だけど友達としてなら……って」

「そっかー残念」


 と言いつつも口だけで本気で残念がる素振りは見せない千佐斗だった。急に彼女は私の前に立って、忠告した。


「でも男には気を付けてね。唯子が騙されて顔を涙でグチョグチョにするのは見たくないからね、私」


 声色はいつもと同じ調子だったが、目は笑っていなかった。千佐斗の経験則だと私は推量する。

 千佐斗は話を戻す。


「まぁ唯子には待ってくれている友達がいて良かったじゃん。彼のためにも早く退院しなきゃね」


 千佐斗に待っている人は? と聞くのは(はばか)られた。デリケートな話題は避けた方が賢明である、ということはここで学んだ。

 会話はそれで終わり、千佐斗は私のベッドへ戻り、私は読書を再開した。




 ある日の夕方、千佐斗は主治医の診察があるから私の部屋には来ないと思っていたら、やってきた。そして大胆な計画の一端を私に告げた。


「ねぇ、本気で死ぬって言ったら、見届けてくれない?」


 私は度肝を抜かれた。でも心のどこかで感じていた来るべき時が来てしまったのだなぁとも思った。

 計画は翌朝、遂行となった。

 廊下で年配の看護師一人と共に検査に向かう千佐斗を見つけると、私は黙ってその後をつけた。


「どうしたの斎藤さん?」

「えへへ、唯子は見送りに来てくれたんだよ」


 千佐斗が明るく茶化す。看護師は見世物じゃないとか言っていたが、何を言われようと私はついていくつもりだった。

 看護師がエレベーター前の施錠された扉を開けると、千佐斗が目配せした。私達は手を繋ぐ。


「いくよ唯子」

「うん……!」


 一二の三で猛ダッシュ。


「あ、コラ、待ちなさい!」


 看護師の声もすでに後方、私達は急ぎエレベーターに乗り込み、ドアを閉めた。


「で、どこへ向かうの?」


 ここまでは聞かされていたがこの先のことを聞かされていない私は質問した。千佐斗は躊躇(ためら)いなく屋上行きのボタンを押す。

 屋上か――死ぬとは聞いていたが屋上で、となると死に方は一つしかない。

 エレベーターは屋上に着いたが、まだ密室の中だった。私は突き当りの扉のドアノブを回そうとしてみるが、梃子(てこ)でも動かない。


「どうしよう千佐斗……これ鍵かかってる」

「こんなこともあろうかと、じゃじゃーん」


 千佐斗はどこからともなく小さな鍵を取り出してみせた。私達の着ている病院のパジャマにはポケットなんてないのに……

 いや、問題はどうやって出したか、ではなくどうやって手に入れたか、だ。


「昨日診察でナースステーションに入った時にくすねておいたのさ!」


 私から来るであろう質問を先読みして千佐斗が答えた。私は感心すらしていた。


「よく気づかれずに……盗めるね」

「事前に位置を何度も確認したし、私奇行で人の気を()らすのが得意だから」

「それでも流石に長いことなくなっていたらバレない?」

「だから診察の翌朝検査があるこのタイミングしかなかったわけ」


 思ってたよりも用意周到な計画だったことに気付かされる。千佐斗は今日死ぬためだけに今まで生きてきたのだろうか。


「鍵が開いたよー」


 千佐斗は開錠した扉のドアノブを回す。すれば私達は開放された場所に出た。

 一面には干された洗濯物。千佐斗はその群れを突っ切って駆け抜ける。私はその後を追いかけた。すると洗濯物を抜けてやけに高いフェンスが目の前に現れた。


「多分自殺防止の高さなんだろうけど、こんなの元運動部にかかればちょちょいのちょい……」


 千佐斗はフェンスに飛びついて器用に登り始める。あっという間に頂上で折り返し、フェンスの向こう側に立った。私はそれを止めなかった。

 もう止められない。千佐斗は覚悟の上である。だから私も覚悟した。友人の死を見届けるという。


「高いね」


 千佐斗が震える声で言った。


「怖い?」

「ううん。世界が見違えて見えるよ。ああ、生まれ変わったら鳥になってこの空を飛んでいきたいよ……」


 これは「躁」の時の千佐斗が言ったのか、それとも「うつ」の時の言葉か。きっとどちらとも違う、いつもとは違った雰囲気に彼女の本心が聞けている感覚があった。

 千佐斗のことだから何も言わずにひょいと飛び降りそうで怖かった。しかしそんなことはなく、彼女は振り返り、フェンス越しに私と対面した。彼女は口にした。


「唯子、最期だから何か聞いておきたいことはない? なんでも答えるよ」


 なんでも答えるか。途端に脳裏に様々な質問がよぎる。最近は頭の包帯も取れて安定してきたと思ってたのにどうして自殺を? とか、今までの人生でどんな辛いことがあったの? とか……違う、聞きたいことはそんなことじゃない。

 私は整理しきれない考えをまとめないまま、とにかく今一番言いたいことを口に乗せる。


「私は……千佐斗のことが怖かった……」

「唯子?」


 流石に千佐斗も意表を突かれていた。私は構わず話を続ける。


「私みたいな人間未満にも親しく接してくれるなんて何か裏があるんじゃないかって……でも本当にただ親しくしようとしてくれていたよね……千佐斗の表の顔と裏の顔をどっちも知って、深い仲間意識を覚えたの……この人は私と同じかそれ以上の苦しみを抱えている人なんだって。だからここまで親密になれたのだと思う」

「唯子……」


 言わなきゃ。今こそ聞くに聞けなかった、あの質問を――


「私は千佐斗のことを友達だと思ってる。千佐斗にとって私は友達?」


 千佐斗はハッとして顔を紅潮させる。少しの沈黙の後、彼女は照れくさそうに前髪を指で(いじ)りながら、口を開いた。


「ううん、ちょっと違うかな……私は唯子のことを生き証人だと思ってる」

「生き証人?」


 千佐斗も友達だと言ってくれる期待は外れたが、生き証人とはどういうことだろう。彼女は言葉を続ける。


「私、退院したところで誰も待っている人がいないんだよね。家族も友達も誰もいない。このまま誰からも忘れ去られていくことは死ぬことより怖かった。だから自分の生きた証を誰かに残したかった……唯子は私のこと、覚えててくれるよね?」

「勿論……!」


 やはり千佐斗は途方もなく孤独な人だった。その果てに私を選んでくれたのなら嬉しかった。

 ところが千佐斗は先程までとは打って変わって厳格な表情をして言った。


「唯子は待ってくれている友達のところに帰れ。いいね」


 急に突き放された気がした。でも最初から死にゆく千佐斗とこれからも生きていく私とでは歴然とした差があって、それに気づいていなかっただけなのだ。


「他に質問は?」


 千佐斗が少し顔を緩めてまた聞く姿勢に入った。私は慌てて質問を考える。この時間が少しでも長く続いてほしくて……結局のところ私はこの友達が死んでほしくなかったのかもしれない。


「じゃあ、どうして……」

「あなた達、何してるの? やめなさい!」


 突然後方から大声がして振り返ってみたら、職員が数名追いかけてきていた。


「時間切れだね」


 フェンスの方に向かい直せば、千佐斗はもう背を向けていた。


「待って、まだ話したいことが」


 私が言うより早く、千佐斗は飛び降りた。

 これが私達の永遠の別れになるはずだった――




「まさか転落防止ネットが下に張り巡らされていたとは、この高石千佐斗、一生の不覚」


 一週間の懲罰(ちょうばつ)目的の隔離病棟から出てくるなり、少しばかり包帯を巻いた千佐斗は、私の部屋に飛び込んできて深い溜息をついた。私は助かって良かったね、ともお気の毒様、とも言えなかった。

 でも実際こうして再び会えた喜びは何事にも代えがたかった。


「千佐斗、もう平気なの? 怪我(けが)は?」

「死ぬこと以外はかすり傷。でも問題は後のこと考えてなくてさーどう生きたらいいかわからなかったよ。ねぇ唯子、一緒に探してくれる?」

「ごめん千佐斗、実は……」


 私は千佐斗が隔離されている間に決まったことを話してみる。


「退院が決まったの」

「マジ? おめでとう! いつ?」

「3月中にはと」

「そっかー唯子は克服できたんだね」


 退院があっさり決まったのは千佐斗の飛び降りを見て本気で人が死ぬのは怖いと思った、ということを診察でよく話せたからかもしれない。だから彼女がいなければ退院することはできなかったと信じている。

 でも私一人退院したら後に残される千佐斗は?


「寂しくなるね……」

「別に。そのうちまた新しい子が入ってくるだろうしね。ここはそういう場所だから」


 強がりで言ったのか、それとも本当に気にしていないのか、「躁」の明るい仮面に隠されて判別がつかない。でも千佐斗は何度もこういう別れを経験しているのかなとも思った。


「でもいいなぁ、唯子は一抜けかー」

「千佐斗は退院の話とかは……?」

「できないよ。しても仕方ないけどね。どうせ待ってくれている人なんて私にはいないし」


 千佐斗は悲しいことを言う。そんな彼女に自分は何が出来るだろうか。




 私は退院までの残り少ない時間をできるだけ千佐斗と一緒に過ごした。でもそれだけじゃ足りなかった。そのことに気付けたのは退院前日の夜だった。


「唯子? いきなりどうしたのさ?」


 急に思い立って千佐斗の部屋に入ったが、彼女はベッドに拘束されていたものの「躁」状態で良かった。まだ間に合う。私は告げる。


「千佐斗、退院しても待っててくれる人がいないって言ってたじゃない。なら……私が待ち人になるよ」

「唯子が?」


 私は私の住所と電話番号を記したメモを千佐斗の机の上に置く。


「私の連絡先を書いたメモ、机に置いておくから千佐斗が退院したら絶対会いに来て。私待ってるから!」


 それを聞いた千佐斗は今にも泣きだしそうな目で、


「ありがとう、いつか絶対追いついてみせるよ~」


 とベッドの上でジタバタした。これが千佐斗の生きる目標になるのならば良かった。彼女には大切なことをいくつも教わった。その恩返しができればと思ったのだった。

 千佐斗はとうとう涙をこらえきれずにいる。「うつ」状態が近いのだろう。名残(なごり)惜しいが、私は今のうちに退散することにする。


「おやすみ、千佐斗」

「元気でね、唯子」


 その会話を最後に私は千佐斗の部屋を出て、扉を閉める。

 今だけはさよなら、私の最高の友達。

 涙が私の(ほお)(つた)うのを感じ取っていた。




 退院当日は千佐斗とは会わなかった。

 荷物をまとめて部屋を出ると私は看護師に案内されてエレベーターに乗り、一階で降りると父に出迎えられた。退院の手続きを受付で済ませると、父は私を車に乗せた。

 父は相変わらず無口であった。数ヵ月ぶりに会う娘にねぎらいの言葉一つないのが怖かった。自分は嫌われていると思った。

 車が走り出す。白亜の大病院が遠ざかって、みるみるその姿が小さくなる。やがて青々と生い茂る山の木々も抜けて、私達は自分の街に帰ってきた。

 自宅まで戻ってきて、約3ヵ月の入院が本当に終わったんだなぁと感じた。

 それからまもなくして、私は作業所通いを再開した。12月の後半から作業所に行くのをサボっていたためまた通うのには勇気が必要だったが、千佐斗の「何事も当たって砕けろの精神だ!」という言葉を思い出して行くことにした。

 すると作業所で私のもう一人の友達――時田巧君とも再会した。彼は私がいない間彼なりに出来ることを探して頑張っていた。私のことも気に掛けてくれていた。

 待つ人がいるということがこんなにも嬉しいことだとは思わなかった。千佐斗にも同じ喜びを味わわせてやりたいと思えた。

 しかし、入院期間と同じくらい時が過ぎて私が19歳になっても、千佐斗は私の元に訪ねてこなかった。電話さえなかった。

 今でも彼女はあの白く閉ざされた9号棟にいるのだろうか。明るく、されど空虚な笑顔を振りまきながら。私は遠く離れた山中の精神病院に思いを()せた。

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