電子世界の非日常
――午前八時。
現実世界では多分、通勤ラッシュもいい時間帯だろう。
それなのに、この電子世界の駅前商店街は閑散としている。
ニセモノの東京湾から吹きつける海風が激しい。学生服姿で電車を降りた俺、大澄春人は、いつも通り、この商店街を通り抜けてニセモノの学校へと向かっていた。
ここは作られた仮想現実なのだから仕方が無いが、それにしても、駅前は気味が悪い程に静まり返っている。
元の世界でフルダイブ型のインターネットデバイスが普及を始めた頃、俺達はこのネット世界に閉じ込められた。
フルダイブというのはつまり、人間の意識をそのまま仮想現実の電脳空間に転移させる技術だ。
本来ならば、メニュー操作一つで現実に戻れる筈のシステム。しかし、何らかの不具合が発生したのか、俺の意識はこの世界に閉じ込められたままだった。
世界同時多発的に発生したこの現象は、数万もの人々をこの世界に閉じ込めたまま、未だ解決の糸口は見えない。
「よう、相変わらず時間通りだな」
コンビニ前で顔見知りの男に声を掛けられた。
井上と名乗る彼は、元の世界では品川の商社に勤めるサラリーマンだったという。
二人で入った店内は静謐に満ちていた。例の如く、店員の姿は見えない。
「さてと……」
井上は無人のレジ前に立つと手を翳す。宙に現れたウインドウをタッチすると、煙草の箱が卓上に立体化して現れる。購入完了の小気味いいサウンドが響いた。
俺も慣れたもので、同じように乳飲料と総菜パンを選択する。《会計完了》の表示が目の前に浮かび、レジスターがチンと音をさせて開く。
無人の卓上が輝き、丁寧に袋詰めされた商品がオブジェクト化。俺はそれを手に取って出口に向かった。
万引きは出来るかもしれないが、どんなペナルティが発生するか分からない。だから、俺達はあくまでも日本国の法律をこの世界でも固く守っていた。
「どうせ暇だろ? 話でもしようぜ」
井上はコンビニを出てすぐの喫煙コーナーで待ち構えていた。
「最近の調子はどうですか?」
「どうもこうもね……こんな日常生活の真似事、いい加減飽きてきたよ」
俺より一回り年上の井上は、余裕ある動作で煙草に火をつける。
程なくして咥えた先から紫煙が上がり出し、深く息を吐いてみせる。心底タールを楽しんでいるのが眼に見えて分かった。
「それ、美味いんすか?」
聞くと、井上は苦笑しながら咥えていた煙草を手でつまむ。
「雰囲気だけでも楽しまないと。退屈で死にそうなんだよ」
彼が一服している煙草は日常生活を再現したVRゲーム《ホームランド》内に登場するアイテムで、現実世界には存在しない銘柄だ。そして、この眼の前に広がる駅前の街並みもまた、複数の地図アプリを基にして再現された世界……だそうだ。
他にも気象管理データベースのサーバーや、インフラの中枢システムなど……共有化されたネットワークデータを基に、この現実そっくりの世界は出来上がっている。
「は~あ。アップデートは転移した時から止まったままだからな。いい加減、違う銘柄が吸いたいよ」
井上が吸い殻入れの網目に短くなった煙草をこすりつける。
その動作だけで、指の間に挟められた煙草は光に包まれて消え失せた。
「この焼きそばパンだって同じですよ」
俺も朝飯の総菜パンを頬張りながら答える。それなりにソースの味はするから割と好きなんだけどな。
「いつになったら救いは来るんだろうな……あーあ。今日もいい天気だなぁ」
井上は演技がかった口調で空を見上げ、朝の陽ざしに目を細めていた。
青空は憎らしい程に澄みきっていて、視界右上の時刻表示が見えにくいったら無い。
「じゃあ、そろそろ会社に行くよ。君も勉強がんばれよー」
「授業なんて無いんすけどね」
「はは。現実と違って笑えないぜ……いつまでこんな事やってんだろうな、俺ら」
家に帰っても俺一人、家族なんていやしない。この世界は地図アプリのサーバーと同期しているせいで、細かな家々までも忠実に再現され過ぎている。それが余計に辛かった。
俺は寂しさを紛らわす為か、授業も無いのに学校に通っている。
ここから歩いて数分足らずにある天空橋高校。しかし、俺の母校は始業チャイムが鳴った所で授業が始まる事は無い。同じ理由で迷い込んだ極少数の生徒達は自習に勤しんでいるが、それはいつか元の世界に戻った時の為らしい。受験に間に合うかなんてわからないのに……
そんな現実逃避をしながら、俺は教室の隅っこで寝たりぶらぶらして暇を潰すだけだ。
俺は何の為にこの世界にいるのだろうか。ここ最近はそんな自問自答をしてばかりだった。
コンビニ前で井上と別れ、足を踏み出そうとした、その瞬間である。
「――――何だ?」
突如、気味の悪いサイレンが空を覆った。
周囲を歩いていた数人もその場で立ち尽くしている。
「この音……動画で聞いたぞ」
有志によって投稿されているこの世界のニュースサイト。そこで見た映像を思い出した。
確か、遥か海の向こうの海外の街でもこのサイレンは鳴っていた。
転移事件後まもなく存在が確認された、自律兵器型敵性戦闘体――アンネームド。
奴らは人類の生存エリアに侵攻し、人間を襲い、消滅させる。
この世界で消滅した人間は現実世界でも死ぬらしい。遅れて転移してきた者達の証言によって、それは知られていた。
故に、アンネームドはこの世界の人類にとって、最大の脅威となっているのだ。
「まさか……でも、ここは東京だぞ」
奴らが西日本に上陸したのはつい数週間前の話だ。関東に襲来するまでに有志連合の撃退作戦が始まる、そう聞いていた筈だった。
「何で……何でだよ。奴らがもう東京に来たって言うのかよ」
「見ろ――戦闘機だ!」
井上が空の一辺を指さした。
雲一つない青空。数機の戦闘機から成る編隊が西へ飛んでいく。
その鬼気迫ったジェット音は、否が応でも非情な現実を叩きつけてくる。
「どうするんだ? これってニュースでやってたやつだよな」
「ええ! 敵です。奴らが来たんです!」
井上がヒステリックに叫び、俺も負けじと言い返す。
轟音を撒き散らし、また別の戦闘機が空を横切っていく。
「クソ! 西日本だけの話じゃなかったのかよ。解放軍は何をしていたんだ」
羽田の空港には解放軍の戦闘機部隊が常駐しているが、それこそ全戦力を空に上げているんじゃないかと思うほどの数だった。
「奴らはどこまで来てるんだ? どこか見える場所があれば……」
「井上さん!」
俺は、右往左往していた井上に向かって声を張り上げる。
「学校だ。天空橋高校! あそこの屋上なら空がよく見える!」