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まるで全ては回想の様に

作者: 黒森牧夫

 馴染みの恐怖が背筋を濡らすと、後はもうお定まりのパターンだった。漠然たる焦燥が私の脳髄を溶かし、現前せざるものどもの不在がこの上も無い強迫性を帯び、私はまたしても反復される存在の陥穽に足を取られた儘、為す術も無い狂笑を口元の端に浮かべて、崩落の瞬間を待望して彷徨い歩いた。顔を持たぬ古い恐怖は今だに無貌の儘私を嘲弄し続けていたが、何年も何年も反復を続けている内に、それは何時の間にか得体の知れぬ変質を遂げ、より陰湿で柔軟性と創造性を欠いた悪質なものと化してしまった。言うなれば老朽化し腐敗臭を放ち始めて来ている様な感触があった。時折ぞわりと冷たい官能の色を見せる夜の端からどぷどぷと生の腐汁が溢れ出し、生温い重い大気と悍ましい混淆を遂げていたが、黒ずんだ頽落の気配はまるで根でも生やしたかの様にずっしりと夜の底に沈澱し、明晰な視野の閃きを一筋たりとも逃すまいと云う底意地の悪い決意を誤魔化そうともしなかった。私はそれに対する嫌悪感を隠そうとはしなかったが、反吐の出そうな酷い湿っぽさが終始私の皮膚に纏わり付いて来るので無闇に苛立ちが募り、憎悪の焦点は生まれるや否や片端からどんよりとぼやけて行ってしまい、例によって徒労感ばかりがぐるぐると渦を巻いて何処へも行き着かなかった。鬱々と歩き続けている内にも、星々は分厚く流れる濁雲に呑まれて私の視界から去り行き、蒸し返された出口の無い吟味と、未完成のヘラクレイトス的な哄笑とが共々に私の胸中を塞いでしまって、閉塞間は高まり行く一方だった。二十五世紀に亘って人類に挑み続けて難問がまたぞろ押し掛けて来て、がっちりと骨身にまで食い込む程に私を捕えているのは判っていたが、既に数え切れぬ程の敗北を喫して来た私には、それに抗う気力と創造性すら疾うに失せており、最早個別的な事例を列挙したり形式の組み替えをしてみたりすることすらせず只々空回りを黙認し、己が思考が陵辱されるが儘に任せていた。のっぺりと広がる狭苦しい地平は数々の生活の障壁によって更に阻まれ狭められ、世界を無惨にも不様に不恰好に切り取り、歪め、圧し潰し、分断する幾つものバベルの塔達が、単なる多産に生存の目的があるものだとして地上を(ほしいまま)にし、失われ忘れられたものどもは酸き放題に虐げられ弄ばれていたが、私は只手を拱いて望見しているばかりで、身の潰れる様な無力感に(ほぞ)を噛み乍らも、それでいて無駄に終わると判り切っている試行錯誤を更に重ねてもう少し足掻き反逆してみようと云う気にもなれずに、黙々と狂笑の導火線をきっと固く握り締めた儘、当ても無く歩き続けることしか出来ずにいた。

 何かの下卑た陰謀を企み有無を言わせず強引に押し進めようとしているかの様な毒々しい凶空(まがぞら)が頭上に低く覆い被さり、私は急かされる儘に、()だ歩いたことの無い道を探し求めた。背筋を鋸で断ち切られる様な喪失の快感や、美と恐怖の渾然一体となった陶酔、物言わぬ絶望の確かな重みや、軽薄への反動としての探索心の物狂おしさを既に知ってしまっている肉体は、思わず知らずの内にそうした快美を、強烈な力の感覚を求めて渇え、吼え猛ていたが、私は苛立ちや不快感、意地や失意から来る悲しみに任せて、それに気付かない振りをし続けた。

 始めから失われていた美と喪失、共感と痛恨、恐怖と法悦の数々が飽きもせずに空回りを続け、自身とそれら全ての空しさをじわじわと増幅させていて、その為に私の歩調は一向に緩まなかった。目に映るあらゆる新しい角度も、舌や鼻や皮膚に感じられるじっとりと重くピリピリした雨の前の大気も、全く情緒の欠片も無い散文的な雑音のうねりも、生命と風景が織り成すあらゆる悪夢も、意識的な努力はしてみるのだが一向に私の興味を惹くには至らず、私は己が身を蝕み続けるものの正体を知らない儘、陰微な夜の中で無防備に自分を誤魔化し続けた。

 夕方まで吹き荒れた大風はもうすっかり収まっていたが、上空ではまだ動きがあり、厚い鈍重な雲を吹き飛ばすどころか新たな群れの数々を押し流して来て、濁った暗空からそこだけすっぽりと切り抜いたかの様に不自然に宙に浮かんでいる新月への蹂躙を延々と繰り返していた。東の地平から立ち昇る瘴気染みた汚ならしい光は無数の反射板を得て、まるで空全体が火膨れを起こしたかの様に醜怪な凹凸が浮かび上がり、私はその余りの下劣さに胸のむかつきを覚えた。奇形的な退化を続ける昏い風景は嫌悪感ばかりを私に募らせたが、時間の経過と共にそれは立ち往生を繰り返した分だけ、糜爛し、腐敗し、表面的には仮令穏やかなものと見えたとしても、より悪性のものに変化して来ている様に思えた。加齢と共にどんどん鈍磨して行く己が精神が、その頽落に対して何等有効な対抗策を講じ得ていないのが何とも腹立たしかったが、憤激は、曾て自らの言語を探して盲滅法手当たり次第に数々の世界へ探りを入れて行った時よりも更に呆然自失の態で所在無さ気にうろうろまごまごと何時までも落ち着かず、己が拳を叩き付けるべき如何なる形をも見出せない儘、無力で、滑稽にすらなれぬ退屈し切った暴君に甘んじているより他に無かった。私とて、何等の対症療法をも試みなかった訳ではない。だが、生み出されたと言うよりは人工受精と帝王切開で無理矢理取り出された根の深い言葉達は、最初の呼吸を始めるや否や直ぐ様空しく宙を漂って、自律と統制の取れた高潔さも秩序と調和に支えられた美も、それどころか、怜悧に繊細に磨き抜かれた官能と陶酔さえ失い、全て低俗な賦活剤と化した音楽は、その神秘の悉くを無体にも剥ぎ取られて死んだ魚の様にだらりと私の頭の上に横たわり、拙い乍らも確実に自分自身の手で設計し、組み立て、彩色し、その生長を見守り続けて来た逆説と矛盾に満ちた壮大な宇宙そのものは、疾うの昔に指摘されて来た行き詰まりを終には解決することが出来ずに、時に惑乱し時に空しく荒れ狂い、この耐え難い時間が傍らを通り過ぎてくれるのを、まるで泥棒か詐欺師か何かの様にこそこそと身を潜めて凝っと待っているだけで、私の助けになってくれそうなものは、私の側にはもう何ひとつ残ってはいなかった。気懈い絶望が白蟻の様に自らの土台を貪婪に食い尽くし、無残にもぼろぼろに崩れ去って行っていることは自覚していたが、破壊の喪失と云う毒でさえ、繰り返し服用しなければやがてはその効力を失い、無害な気の抜けた記憶の残骸に成り果ててしまうこともまた理解していた。私は目や耳や皮膚や頭蓋の中に届くあらゆる刺激に等しく感興を覚える振りをし乍ら歩いていたが、それは自らの無能と誤りによって被験者を死に至らしめてしまった医学者が、ぐったりとなって早や硬直が始まろうとしている死体に電流を通して、何とか生き返りはしないかと無駄を知りつつ必死になって誤魔化そうとするのにも似て、何処か白々しい、寒々とした感触を覚えさせずにはおかなかった。適切な発現形式を終に見付け出せなかった愚かな生は、その衝動の赴く儘に完成を求める余り、徒らに死と親和性を増し、何の見通しも立っていないにも関わらず、功を焦り、確かな手応えを漁り回って無闇に気焔を上げ、果てには堕落した悍ましい領域にも秘密めかした目を向け、或いは容易には到達することの出来ぬ不可思議な全一の境地へと飽く枯れ、或いは美と感ぜられる細部の差異に熱中することによって時間を埋め尽くそうと試みたが、結局のところ暫くするとあの図々しい強大な力、何もかもを腐蝕し、分断し、引き摺り下ろしてしまうあの没落のトランペットの音が高らかに響き渡り、私のあらゆる努力には大局的に見て何も意味も無かったことを、さも厳かに告げ知らせに来るのだった。反復される衰退は単なる欠如態としての虚無を肥大化させ付け上がらせてしまっており、それに付け込んでより陰微で嫌らしい一団の勢力が力を伸ばし、あらゆるものを取り込もうとしていた。迫りつつある夜闇に乗じてそれはより具象的で実感を伴うものに成り行き、私の世界はそれにつれてその視野に於て急速に拡大すると共に、その偏光の度合いに於ては急速に狭まり行くのだった。私の精神はどんどん下卑た調子っ外れのものと化し、物事の地平が溶けた絵の具の様にどろどろに曖昧になって行くのを、只阿呆の様に惚けて黙然と眺めていた。

 夜は局部的な緩急を見せ乍らも焦眉と切迫の度合いを持続させて行き、頭の中で執拗に繰り返される数々の律動は、飽きもせず空回りの足踏みを続けていた。失われるべきであったものどもの影が脳裏をちらつく度に、私の心は、子供が何時までも傷口を弄繰り回す様にじくじくと痛み、化膿して行ったが、それは失われるべきであったものどもがまだ残って私の心を縛り続けていると云う意味に於てではなく、寧ろそれらが始めから永久に失われていたものであったが故に絶対的に私の心を縛り付けていると云う意味に於てであった。私は、現実と呼ばれる事象の実相に余りに近寄り過ぎた為に却ってその形を見失い、物事を本来の純粋な姿に留めようと腐心する余り、我々の感覚がそれぞれ粗雑で鈍感であることをすっかり失念してしまい、視野拡大症に陥って自らの依って立つべき地点を宇宙の深淵へと放り込んでしまったのだった。今までそれこそ数え切れぬ程反復され尽くして来た取っては投げ取っては投げの試行錯誤は、既にその行為自体が目的化してしまったかの様に強固な強迫性を帯び、昇っては沈み昇っては沈みを延々繰り返す太陽と月の様に、大局的に見れば緩やかに破滅と没落へと至る道を、その律動に少しずつ微妙な変化を加え乍ら描きつつも、壊れたレコードめいた途絶した不完全な生を何時までも再生していた。凶暴に噛み締めた歯の隙間からは空しい溜息が洩れ出るばかりで、歌うべき歌も詠唱すべき祈りも無く、頭上の星々は街の燈火に毒されて昏く、踏み締めるべき道は何とも頼り無気で実在感が希薄だった。私が居るのは、一個の世界ではなかった。世界に成り損ねた何かもっと別なものだった。世界の胎児が生き腐れてぼろぼろに崩れ掛け、絶叫を上げ乍ら悪臭を放つ残骸と成って、私の前に横たわっているのだった。

 鬱勃とした不満と焦燥の塊と化して私は歩き続け、そして何ものにも出会わなかった。ピザの上の溶けたチーズと具の様に分かち難く絡まり合った名前が、形容詞が、関係性が、感覚が、印象が、ふと思い付いた楽想の様に唐突に何処からともなく現れては一瞬形を成し、そして永久に消え去って行った。世界は疾うの昔に状況によって遠近の差はあれど本質的には平等な、あらゆるものに対して開かれた事象の集積体へと分解してしまっていて、私に認識されるや否や片端から私の手許を擦り抜けて、元の構築された混沌へと融合してしまい、要するにあらゆるものが私の傍らを通り過ぎ、私に向けて一瞥だにくれようとはしなかった。私は静かに壊れつつあった。仮令この儘決定的な契機が訪れることが無かったとしても、やがては精神が自重によって体勢を崩し、まともな姿勢を保っていられなくなって、より解き明かし難い、しかしより解き明かす価値の無い獣染みた存在へと頽落して行くことは必至だった。自らを二つの歯車の間に挟まった小石の山の淵から引き上げるべく使用して来たどんな刺激も疾うにその新鮮さを取り戻す力を失い、魔力は薄れ知覚力は鈍り、思い返せば既に幼少期から私の精神の上に影を落としていた暗い破滅のムードが、起こるべきことは既に起こり尽くしてしまって、後は長い長い単調な道が先へ伸びているだけだと云う、ゾッとさせられる戦慄を伴った実感が、高みへ、深みへ、自らの地平を拡大しようとする私のあらゆる試みを、自分の頭の髪の毛を掴んで自分の身体を引っ張り上げようとする様なものだと、無情にも宣告を耳元で繰り返すのだった。絶望と呼ぶには余りにも空虚な既知感と疲労が、眼前に広がるあらゆる認識の光景から曇りの無い純然たる生気を奪い去ってしまい、主たる成長期を過ぎても尚余剰を求める疑念の蠱惑に心乱し乍らも、私は、物心付いた時からずっと続けて来た立ち往生を、その夜も、そのまた次の夜も続けることになるであろうと云う事実を、苦い自覚と共に溜息に変えた。この老人染みた達観もどきが、私の生来の気質に由来するものなのか、それともそれこそ数え切れぬ程試行錯誤を繰り返して来た大胆な推論の当然の帰結なのか、今だに判然としなかったが、今となっては私にはそんな区別はもうどうでも良く、そのどうでも良くなってしまっていると云う事実そのものが、何か私の無知無力を決定的に証明しているものの様にも思われた。破局を待望する声が天地に満ちみちていた。それは耳を聾せんばかりに唸り、呻き、悶え足掻いていたが、既に生者と死者との境界に長らく身を置いてしまっている敗残兵の身には、それを聞いたからと云って何をどう出来るわけでもなく、徒らに懊悩を増すばかりで、その不明瞭な呟きの中に憤りと諦念を混ぜ、こってりとした現在を引き伸ばして行くより他、することが無かった。

 何時しか時刻は深更から真夜中を過ぎ、その日付けの頁をひとつ捲っていた。だが人為的な区分による計測が変化しようとも、地べたを這い摺り回る様な下卑た絶望は、退屈と焦燥の色を益々濃くして行くばかりで、日常生活と云う名の暴力に日々虐待され無感覚に成り切ることも出来ないもっさりした肉体は、半ば本能に衝き動かされているとでも言うかの様に盲目的な行軍を止めなかった。変化への秘かな期待は、そろそろプライドに起因する自制心を保ち続けておくことが出来ず、意識の前面に身を投げ出して大っぴらに駄々を捏ね始めていた。そして、それを宥めようとする声もいい加減飽きが来てしまっていて、その対応も目に見えて粗略で投げ遺りなものへと堕していた。私は何か叫び出したかったが、叫びたいと云う衝動が喉元の当たりを痙攣でも起こしているかの様に不規則に出たり引っ込んだりを繰り返すばかりで、結局のところは何も出て来たりはしなかった。私が針路を選ぶ際の判断の基盤を成す様々な事実/要因、この世界が私との関係に於てその様なものとして切り結ばれてここに確かに存在していると云うこと、互いの存在に気付かず、そして恐らくはその大多数が自らの存在さえ自覚せずに現れては消えて行く枚挙(カウント)不可能な眼差し達が交錯する中で成立し、確定したかどうかも定かでない儘に、さざ波を立てる時間の大海の中へと没して行く無数の事象達、あらゆる事象の根源を成す原理としての恐怖、一度(ひとたび)形を得たものが自らに忠実であろうとすること、忘れ去ろうとした執着の数々、これらの思考や感情の背後に在って沈黙を続ける生命、その生命をも包摂する、一晩たりとも動きを止めない宇宙の姿、様々な階層でそれぞれにホロンを成し、各自独立している様に見え乍らも、しかし何処かでひとつに繋がりそうな予感を捨て切れない異貌の時間達、視野狭窄的で型に嵌った印象の陰影、圧迫され、窒息させられる様な湿度の高い風景、満天の星々や溶鉱炉の様な夕焼けや春の山道や雪に埋まった道や美術館の一室や無人の港や汗を吸ったベッドの上や、その他至る所に(ちりば)められた諸々の啓示の残響、身震いがする程不快な頭痛、ドブ川の流れる音、電球の灼ける音、何処かの換気扇の稼動音、遠くの車道から微かに聞こえて来る車の音、生温い風に押されて揺らめく大気の身じろぎ、私の耳の脈動、私の靴がアスファルトを蹴る音、毒々しい光をぼんやりと身に受けた奇怪な雲の緞帳、夜がぶちぶち音を立てて炭化して行く。

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