イノセント・クレイジー
ベリル・イーラムはそこそこ大変な人生を歩んでいる。
アルコール中毒で暴力を振るう父から、母と一緒に帝都へ逃げて来たのは七歳の時だ。
ベリルは子供だったが、朝から晩まで必死に働いて家計を支えた。
学がなく、痩せっぽっちなベリルに選べる程、仕事はなかった。だから、与えられた仕事は何でも誠心誠意尽くして取り組んだ。
そんなベリルの姿に街の人達は次第に心を打たれて、彼女達親子を気にかけてくれるようになった。
母は、年々ベッドから起き上がることがなくなっていった。体ではなく、心の方に問題があった。
母はいつも自分の人生を嘆いていた。
緩やかに心を壊していく彼女を、ベリルに止める術はなかった。
ベリルは母に、感謝も謝罪もされたことがない。
その理由は分からない。
万に一つの可能性だが、ベリルが気に病まないようにしなかったかも知れない。もしくは、単純にそれをする意味がなかったか。
……後者だろう。
知りたくもないが、予想がつく。
だから、ベリルは愛してほしいなんて望まなかった。
ただ生きるのに必死だった。
十歳になると、ベリルは近所の食堂で働かせてもらえるようになった。
食堂は、いわゆる『お袋の味』を提供する店で、安くて、量が多くて、まあまあ美味い。
本当のお袋の味を覚えていないベリルが、今後それを言う機会があるとしたら、食堂で自分を雇ってくれている女将のものだ。
食堂には、多くはないが軍学校の少年達も通っていた。
寮生活をしている彼等は自炊が義務付けられていたが、「美味い飯が食いたい」と寮を抜け出してはこっそり食べに来ていた。
軍学校には、十歳から入ることができる小等部なるものがあるらしく、幼い頃から過酷な訓練をしている男の子達がいる事実にベリルは驚いた。
彼等は、十八歳になったら軍学校を卒業し、正式に軍に入る。
上京したてのひょろい若者と、彼等は腕や首や腿の太さが全然違った。
短く刈り上げた髪は、最終学年になるまで伸ばすことが禁止で、頭部にある傷を目立たせることもしばしばあった。
記憶を辿って思い返してみても、彼等は強面が多かった気がする。
雇い主の女将は悪い人間ではないが噂好きな人で、ベリルの状況を言いふらすところがあった。
「可哀想」と言い、優しい自分に酔っているだけで悪気はないのだ。多分。
こちらとしては、自分達親子のことを他人に聞かれたくないが、働かせてもらっている身で強くは言えなかった。
そういうわけで、三度以上来店した者は漏れなくベリルの身の上を知っていた。
話を聞いた七割はベリルに同情する。
残りの三割は、無関心だったり「自分の方が不幸だ」という謎の自慢をする。そして、その中には稀にベリルを叱る者もいた。
「そんなに可哀想だと思われたいのか」
言われたときは内心、鼻で笑っていた。
同情でお腹は膨れない。可哀想と思われたところで何が得られるというのだ。
「お前、子供なのに結構苦労してんだなあ」
ナイジェルに一番最初に言われた言葉も、大体皆と同じようなものだった。
ベリルはこんな言葉には慣れていた。傷付くとか怒るなんていう感情はない。
しかし、彼の言葉から感じるものは他の人と違った。
同情や侮蔑の色が一切なかった。
可哀想だと言って眉根を下げる人間よりも、ナイジェルはずっと好ましい人間だった。
ナイジェル・オリバーは、九人兄姉弟妹の六番目として生まれた。
オリバー家の子供は、十五を過ぎると家を出て働くのが決まりだ。
裕福ではないが、両親が健在で家族仲も良い。普通の家である。
──しかし、ナイジェルが普通ではなかった。
彼はとても喧嘩早く、しかも腕っぷしが強過ぎるものだから、しょっちゅう誰かに怪我を負わせていた。
「売られた喧嘩は、買う以外の選択肢がない」
ベリルには理解不能な持論があるナイジェルは、自分から喧嘩を吹っ掛けたことはないらしい……真偽は不明である。
そんなこんなで、将来オリバー家から犯罪者を出さない為に、十になった途端、年端も行かぬナイジェルは軍学校に突っ込まれた。
軍学校は通常の勉強をする学校よりも学費が安い。
兄と姉達は、「そのくらいならば」と金を掻き集めた。
そして、ナイジェルの寮生活が始まった。
ベリルもこの頃には午前中だけ学校に通っていた。
女将に頼み込んで時間を融通してもらい、三年間通った。
十四歳になったばかりの冬の日の朝、母がぽっくり死んだ。
とても天気の良い日だった。
葬式をあげる金なんてなかったから、大家の老夫婦に祈りの言葉を読んでもらい、簡素過ぎる葬式で母を弔った。
母の死は、女将によって早々に拡散された。
そして、また要らぬ同情の視線がベリルを差した。
泣かない少女を人々は「気丈だ」と言ったが、真実は違う。
ベリルは母が死んで、ほっとしていた。
同時に罪悪感も、抱いた。
愛していないわけがない。
愛しているのだ、今も。
でも、年頃の女の子達のように髪飾り一つも買えないことや、いつまでも大人になり切れない甘ったれの母を養うことに、心底疲れていたことも事実なのだ。
十七歳になったベリルは、母の容貌を受け継いで美しく成長していた。
「……あの、何ですか?」
仕事帰りに待ち伏せし、無言で付いてくる男は常連客のブロンコだった。
前々から目付きと、おかしな言動が気になっていた男である。
「ああ、ベリルちゃん……ようやく気付いてくれた……!」
話しかけてしまったことを後悔した。
怖くなって彼に背を向けたが、腕を掴まれ路地裏に引きずられてしまう。
悲鳴を上げると口を手で塞がれた。
「可哀想に」「僕がいるからね」などと、訳の分からないことを繰り返す男にベリルは、以前教えてもらった『女でも十分な威力になる』という護身術を以て、男から逃げた。
「くたばれ……っ」
いつの間にか帰ってきた狭い借部屋で、ベリルは人前で決して使用しない言葉を吐いた。
荒っぽい軍学校に通う彼等に影響を受けていた感は否めない。
絶対、彼等のせいである。
食堂なんて辞めるべきだと思う反面、辞めたくない理由の人物が頭に浮かび、ベリルをみっともなく未練がましい女にさせた。
男に人生を振り回される哀れな女の末路を、間近で見て生きてきたくせに……これが『血』というものなのだろうか。
屑で碌でなしの父と、己だけが可愛い母。
その血を、自分が引いている事実だけで絶望するには十分だった。
嫌なことあったからといって、仕事は休めない。感傷は金にならないからだ。
ベリルは、翌日を気にしないで思い切り泣く、ということさえできない。
「どうしたの! その顔!」
「……」
小さく悲鳴を上げるベリルに、ナイジェルは気まずそうに目を逸らす。
顔の半分をガーゼで覆ったナイジェルが、軍学校の友人レイと食堂を訪れたのは、前回の来店から約二か月ぶりだった。
週に二度は通っていた彼等が来られなかったのは試験を受けていたからだそうだ。
「ドジったんだよなあ?」
彼を茶化すように、レイがにやにや笑う。
途中で聞いていられない程、痛そうな内容だった。
話すのは、ナイジェル本人ではなくてレイである。
「見事な引きずられ方だったよなあ。今こいつ、すっげえ平気な顔して飯食ってるけど、口の中ぐっちゃぐちゃだから」
あっははは、と愉快そうに笑うレイと、無言で食事をするナイジェル。
彼が今日、話さないのは『口の中ぐっちゃぐちゃだから』だろう。痛そうだ。
ナイジェルは、いつもより食べるのにかなり時間がかかっていた。
そして、食べているのは普段は絶対頼まないリゾットである。
「まあ、見た目より悪くねえよ。な?」
「……」
ナイジェルがレイを睨む。
お前が言うな、とでも言いたげな視線だ。
こんな二人だが、決して仲が悪いわけではない。
むしろ逆だ。口の悪さは、仲の良さを表している。
齢十の頃から結託してありとあらゆる悪ふざけをする、軍学校の伝説の悪餓鬼共だ。
喧嘩大会なるものを内輪で開催して賭けをしたり、校内の空き教室を勝手に自分たちのサボり部屋にした話は、まだ可愛い方だ。
喧嘩を吹っ掛けてきた上級生達をやり過ぎなくらいに返り討ちにして、子分にしたり、軍学校で飼育している鶏をさばいて食べたり、寮室内で花火をしたり、夜中に校内に忍び込んで肝試しをしたりと、上官を憤慨させた。
でも、少し羨ましいとも思う。
いや、彼等のように破茶滅茶したいわけではない。
上官に死ぬ程怒られても、信念や矜持を貫く姿勢とか、面白いことを妥協しないところとか、信用できる仲間がいることを羨ましく思う。
視界の隅には、ベリルをじっと監視しているブロンコが映った。
昨日のことを誰かに言わないか心配しているのだろう。
しかし、よく来れたものだ。
もし、ベリルが女将に話していたのなら、ブロンコはこの店に来た途端、警邏に突き出されていただろう。
ベリルが昨日のことを誰にも言わないのは、食べにくそうに食事をしている男に知られたくないからだった。
女将の誇張話を聞いた彼に、『ベリルに隙があったからだ』なんて思われたら耐えられない。
「俺、先戻るわ」
話ができないナイジェルに退屈を覚えたのか、レイは友人が食べ終わるのを待たずに席を立った。
そして、何やらナイジェルに耳打ちした。
ナイジェルが顔を歪めたので、きっと何か意地悪を言ったのだろう。
「レイ、お会計する?」
「おう」
「……ねえ、ナイジェルに優しくしてあげてよ。怪我してるんだから」
釣銭を渡す時にこっそりレイに言うと、彼は「ふうん?」と目を細めた。
「もう、そんな意地悪な顔しないで!」
ベリルの気持ちに、レイは絶対気が付いている。
いつも揶揄う目でベリルを見てくる、この男が苦手だ。
「はあ? 地顔なんだけど。それより、お前に熱視線送ってんのがいるんだけど、大丈夫か? あれ、目がやべえよ」
レイの言葉に、びくっとベリルの体が震えた。
「だ、大丈夫……」
「眼球と鳩尾と金的」
「え?」
「あぶなくなったら思いっ切りやれ。いいか? 躊躇すんな」
まるで心の中を読めるみたいな男だ。
「ナイジェルに相談しろ。あいつも絶対、あの男に気付いてる。じゃあ、ごっそさん」
「……」
レイがベリルに(珍しく)優しい……。
ナイジェルは、レイと比べものにならないくらい優しい人だから、恐れていることにはならないかも知れない。
「あの、ナイジェルに相談したいことがあるんだけどいい?」
休憩をもらったベリルは、ナイジェルの向かいの席に腰を下ろした。
「ん」
リゾットをちびちび咀嚼しているナイジェルが頷く。
「あ、頷くだけでいいからね。痛いでしょ? ゆっくり食べながら聞いて」
「……」
こくりとナイジェルがまた頷く。
「昨日の帰りに、ちょっと怖いことが遭って……でも、女将さんに知られたらきっと普通より大袈裟になっちゃうから、こっそり自分だけで対処したいの。昨日は掌底打ち? ほら、ナイジェルが前に、教えてくれた……あれで逃げることができたんだけど、」
話している途中で、ガタンと椅子の音を立てて、ナイジェルが立ちあがった。
彼の視線の先にいるのは、正しくブロンコだ。
これには、慌ててしまう。
「ま、待って、ナイジェル。ね、お願い、座って?」
どうどう、落ち着いて。
スプーンを手に握らせ、席に着かせる。幸い、彼は大人しく従ってくれた。
ベリルも席に座る。
そのタイミングで、ブロンコが席を立った。会計をして、店から出るのだろう。
ようやく、あの目に見られないと思うとほっとする。
ナイジェルが、会計中のブロンコを殺しかねない目で見てるので「こら」と小さく注意した。
情の厚い男だが、すぐ熱くなるのは考え物だ──なんていうのは、表向きである。
内心は、自分の為に眼光を鋭くするナイジェルにもう一度恋しそうなくらいにはときめいていた。
「ナイジェル、ありがとう」
感動して、ついお礼を言ってしまったベリルにナイジェルが首を傾げる。
「あの、怒ってくれたんでしょ? ……嬉しかったの」
今度は合点がいったのか、彼が頷く。
こんなこと思うのは、絶対に、絶対に内緒だけど──彼が静かに首を傾げたり、頷く様子を、可愛く感じてしまう。
「でね、さっきの続きだけど、また護身術を教えてほしいの」
ベリルは自分でブロンコを捕まえるつもりだった。
ふんっ! と拳を作るベリルを、ナイジェルは据わった目で見ていた。
(は? 何言ってんだこいつ)
ナイジェルは、ベリルを危険な目に遭わせた男を死なない程度にぶっ殺すつもりだった。
というか、今もそうする気満々である。
寮を抜け出して入った食堂で、ナイジェルはベリルと出会った。
お互いに十二歳になったばかりの頃だ。
「可哀想」と言われていい気になっている子供だと、上級生の(後にパシリになる)男に言われて話してみれば全然違った。
彼女は、大人だった。
きっと早くから、大人に成らざるを得なかったのだろう。
同情も、賞賛も、ましてや説教も、彼女の軸を決して揺さぶらない。
誰にも頼らないで生きると決めている目とは裏腹に、なよく頼りない肩をしている少女。
明確な時期は分からないが、きっと初めて会った時から彼女の目にナイジェルは魅入られたと思う。
十四歳の時、彼女の母が亡くなった。
ベリルは何も言わなかったが、荷を下ろしたことに罪悪感を持っていた。
この時、ナイジェルは自分がベリルを幸せにしてやりたいと強く思った──恋を自覚した瞬間である。
悪友のレイが、帝国陸軍第一支部を目指すと言った時には、ナイジェルも便乗して目指すことにした。
第一支部といえば、実力至上主義の軍のトップ。
高給取りの花形だ。
ナイジェルは、肩書しか見てない女を心底軽蔑しているが、ベリルのことは肩書で釣ろうと考えていた。
矛盾である。
十七歳になって、卒業まであと一年というところで第一支部の選抜が始まった。
地獄のような二か月間だった。
化け物みたいなレイとは違い、ナイジェルには実力以上のものが必要とされた。
無理がたたり、最終選抜で大怪我した。
失明も、後遺症もないのが分かると上官共は遠慮を溝にぶん投げて、残忍とも言える試験内容を告げてきた。
何の為の軍学校だったか、ナイジェルはこの瞬間に分かった。
クソ野郎の上官や、卑怯な先輩共の酷しい訓練や私刑に比べたら、第一支部の選抜は公平で意味がある真っ当なものだ。
──だから、耐えられる。
選抜が終わり、後は結果を待つだけになったナイジェルは、レイを誘ってベリルに会いに来た。
二か月ぶりのベリルは、なんだか酷くか弱く見えた。
何があったのか──彼女を見る怪しい男がいると気付いても、怪我のせいでうまく話せずもどかしい。
「弱ってるところを狙うのは狩りの基本だ、うまくやれよ」
レイの煽り顔に苛々しながら、食べた気がしないリゾットを啜っていると、耳打ちされた。
(……うぜえ)
会計に向かうレイの背中を、ベリルが小走りで追いかける。
翻った紺のロングスカートから細いふくらはぎが見えて、自分以外に見ている奴がいないかと見渡せば、あの男がベリルを視姦していた。
(よし、殺そう)
ナイジェルは男を備に観察した。
──右利き。
右肩に変に力が入っている。きっと筆圧が高く、ペンをすぐにダメにするタイプだ。
小刻みに速い貧乏ゆすりと、爪を噛む癖……情緒不安定で何かにストレスを感じている?
そんな男は世の中にたくさんいるが、ベリルを見る目がとにかく危ない。
何とかしなければ。
──さて、この男をどう料理するか。
物騒なことを考えていると、お喋り婆から休憩をもらったベリルが自分の向かいの席に腰を下した。
「あの、ナイジェルに相談したいことがあるんだけどいい?」
好きな女に頼られて嬉しくない男は、男に非ず。
すぐに、ベリルが安心できる環境を整えよう。
そう決めたナイジェルに、ベリルは「護身術を教えてほしいの」と、小さい手で拳を作った。
(そうじゃない……っ! そうじゃないだろ! そういうのは、俺にやらせておけよ!)
ナイジェルは叫んだ。
──心の中で。
ベリルに簡単な護身術を教え、寮に戻ったナイジェルはすぐに準備に取り掛かった。
(時間がない)
黒い上下の服をクローゼットから引っ張り出して着替える。
顔を隠す黒い布はポケットに突っ込んで、黒いキャップを被る。
忙しないルームメイトに、レイが「手伝ってやろうか?」と言ってきたので、有難く金を要求すると断られた。解せない。
休みは今日までだ。
次を逃したら休みは一週間も後になる。
一週間もベリルに怖い思いはさせられない。
──つまり、やるなら今日しかない。
「おい、殺すなよ」
にやにや笑う男を睨む。心外だ、殺さない。
「瞳孔開いてんだよ、馬鹿野郎」
「……」
レイの言葉にナイジェルは空咳を一つ落とし、キャップのつばを前に戻した。
いけない、冷静さを欠いては成功するものも失敗する。
(──冷静に。そして、確実に)
食堂の裏口から、胡桃色の髪を二つに縛った少女が出てくる。
セピア色の瞳で左右をきょろきょろ確認する様子は、とても不安げだ。
大路地に出ようとした彼女の肩に、伸ばした男の手は──空振りした。
ブロンコは『たった今』自分に『何』が起きたのか、理解できないでいた。
自分の手は、確かに彼女──ベリルに届くはずだった。
前日のことと今日の態度を許してあげようと思って伸ばした手は、あっという間に後ろ手に纏められ、口も塞がれた。
そして、体は冷たい壁に押し付けられている。
『声を出したら殺す』
目の前の紙には、汚い字でそう書かれていた。
こくこくと頷く。
目線の先に大路地に出る彼女が見えた。
しかし、すぐに視界は暗転した。
(落ちた)
ナイジェルは意識がないブロンコを確認してから、麻袋に雑に突っ込んだ。
訓練で担ぐ砂袋より大分軽い。
抱えると少し顔の傷が引き攣った感覚があったが、これくらいなら想定内だ。
大丈夫だ、走れる。
(よし)
ナイジェルは闇に紛れて走り出した。
目的は歓楽街──金は、もうすでに女の手に渡っている。
「ブロンコの奴が警邏に捕まったそうだよ、怖いねえ。真面目そうに見えたんだけど」
女将が大きな溜息を吐きながら、開店のプレートをベリルに渡す。
「え? ブロンコって……あの、食堂の常連さんの、ブロンコさんですか?」
プレートをかけなければならないが、それどころではない。
「ああ、そうだ。なんでも、素っ裸で若い女に抱き着いたらしいんだ。変態だよ」
いつかやると思ってたんだ、と言う女将に曖昧に頷いたベリルは、プレートをかけに外に出た。
ブロンコが捕まった……。
もし勾留が解けたとしても帝都は警邏隊が優秀だし、軍本部や軍学校があるから犯罪は多いが、監視の目が多い前科者は居付きにくい。
安心はしたが、被害に遭った女の子がとても心配だった。
きっと、怖い思いをしたろうに。
自分のように傷付いていなければいいと思う。
ベリルが心配するのは当然、ブロンコではなかった。
詰めていた息を吐いて、空を見上げる。
気持ちのいい澄んだ青色が視界いっぱいに広がった。
ナイジェルの瞳の色だ。
その日の夕方、来店したナイジェルにブロンコが捕まったことを伝えると、彼は目元を和らげ、ベリルの頭を撫でてくれた。
そして、レイはなぜか隣の友人を見て大笑いしていた。
あれから三週間も経てば、ナイジェルの傷はかなり癒えてきていた。
ガーゼが小さくなったナイジェルと、なぜか満身創痍のレイの来店をベリルが迎える。
二人揃って、怪我をしているのを見るのは久しぶりだ。
昔はやんちゃした二人が、揃って腕や足を吊って食堂にきていた。
「ふふ」
懐かしさでベリルは笑みが零れる。
三日前には怪我などしていなかったレイは、一体何の悪さをしたのやら。
「ベリル、受かった。これ……」
まだ全快ではないが、話せるようになったナイジェルが一枚の紙を差し出してきた。
受け取った紙に書かれていたのは──
【帝国陸軍第一支部 合格通知】
「え、あ、『受かった』って、あの第一支部!?」
「他に何があんだよ」
レイが言うなり、ナイジェルがレイの傷の位置をど突く。
「……ッ! ナイジェル、クソ、てっめえぇ……っ」
傷を押さえて沈んだレイに「黙れ」とナイジェルが冷たく吐き捨てる。
今日も、仲が良い二人である。
ベリルはほっこりしながら、水の入ったグラスをテーブルに置く。
「それにしても……第一支部かあ。すごいんだね、二人とも」
「いや、大したことなかった。余裕だった。なあ、レイ」
「ああ。俺はな……おいっ! 傷を突くな!」
「……おめでとう」
自分はうまく言えただろうか。
第一支部所属の男は信じられないくらい女性から人気がある。
舞台女優、お金持ちのお嬢様、物凄い美人──そんな人達からアピールされる人生がナイジェルを待ってる。
「寂しいなあ……」
ぽろりと本音がベリルの口から飛び出た。
小さい呟きだったが、ナイジェルはそれを拾った。
「なんで?」
合格通知の紙を返してもらいながらナイジェルはベリルの目を真っ直ぐ見た。
まるでこれから出るベリルの言葉を、一つも取りこぼすまいとしているようだ。
「……第一支部に行ったら、きっとナイジェルはもう食堂に来ないから」
「勝手に決めんなよ」
「だって、第一支部だよ? きっと、美味しいご飯がでるんじゃない?」
「それが自炊なんだ」
「え!? そうなの!?」
思ったよりも大きな声になってしまったが、ベリルにはそんなことどうでもよかった。
「おう」と、彼が頷いた。
「じゃあっ! ……じゃあ、ナイジェルは軍学校を卒業しても……ここに来てくれて……私、あなたに、会えるの?」
もう、この台詞でベリルの気持ちは、ナイジェルどころか店内中にいる全員に知られたも同然だった。
食事をしていた客達(と、珍しく空気を読んで静かなレイ)が見守る二人がいる店内は、「しいん」と音がするようだった。
なんと、あの女将まで静かにしている。
「ああ、言ってなかったけど、俺はこの店の看板娘が目当てで長いことずっと通ってたんだ。だから、これからもその子がここで働く限りは通うつもりだ」
「……あの、看板娘って……?」
「お前」
「……嬉しい」
ベリルの瞳に水の膜が盛り上がる。
悲しい涙ではない。
「あー……家で飯作って待っててくれって言うのは、さすがにまだ早いか……いや、ごめん。えっと、しばらくはここに来るから、」
「──早くない、全然。それに……私、料理は得意なの」
ナイジェルの言葉を遮ったのは、ベリルの諾の返事だった。
「わかった。ここに通うのは卒業までだ」
次の瞬間、店内に割れんばかりの拍手が起きた。
【完】