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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

よみがえりし五感 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 突然だが、この数字を見てくれ。どう思う? 感じた限りのことを教えて欲しい。


 ――ふむ、黒い鉛筆で書かれた数字の3ね。


 オーケー。君もまた大勢と感覚を共有するお仲間ってわけだ。


 ああ、バカにしている響きに聞こえちゃったらごめんよ。ちょっと私の友達に変わった人がいてね。数字の3を見ると、青を感じるというんだ。他にも7が赤紫、9がオレンジと話していたっけな。

 こんなある種の刺激に対し、本来感じるものにくわえ、違う感覚も一緒に得られる現象を「共感覚」と呼ぶらしい。

 この異常は、他の人と比べることによって初めて認識されるもの。少数派ゆえに隠す人も多いらしいが、病気と違って、日常生活にさほどマイナスの影響を与えないとか。


 他者にはない、己だけの感覚。人が人なら、のどから手が出そうなくらい、欲しがりそうなものだね。

 でも、それは同時に自分が元から持っているものに、別れを告げることでもある。積み重ねた時間とのおさらばだ。もしもすべてを放り捨ててまで欲しがり、仮に得られないとしたら自分には何が残るのか……ちょっと怖くならないかい?

 欲しい感覚、いらない感覚。それに関する昔話を最近、仕入れてね。興味があったら聞いてみないかい?

 

 

 むかしむかし。ある村で友達と木登りをしていた少年が、手を滑らせて真っ逆さまに落ちてしまった。

 身体中をしたたかに打ちつけた彼は、特に右足に強いしびれを覚える。追って、少し土や体に触れただけでも、うめいてしまうほどの痛みが走り始めた。おそらくは足を折っている。

 友達に肩を貸されながら家まで着いたものの、日が暮れてからは痛みが増してくる一方。布団の中で歯を食いしばりながら、彼は痛みを呪う。


 ――あのとき、手が滑らなければこんな目に遭わなかったのに。もっと足が丈夫だったら、こんな目に遭わなかったのに。痛みなんか感じなかったら、こんな目に遭わなかったのに……。


 その心の中に、自分の落ち度への呵責など一分もない。自分をこのような羽目に陥らせたもの、すべてが敵に思えていた。

 自分の気分を悪くするものなど、消えてなくなればいい。

 目を閉じて横たわりながら、彼は痛みが響いてくるたび、頭の中で恨み言を吐いていた。



 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。はっと目が覚めてみると、すでに家の中には陽が差し込み出していた。

 先まで自分が苦しんでいた痛みは、すっかり引いている。最初こそ、そのことを喜んだ少年だったけど、やがてすぐ自分の変調に気がつく。

 尻とつながる、付け根より先の脚から感覚がなくなっている。言うことは聞いてくれるものの痛みはおろか、床や地面を踏んだ実感が湧かない。付け根にかかる身体の重みだけが、伝わってくる。

 針でつついたり、火元へ近づけたりしても同じだ。血が出たり、産毛が音を立てたりはすれど、それに伴う痛みかゆみ、熱さは完全に麻痺していた。

 

 少年が不快に思うものは消えたが、それは危険を感じることができないも同じだった。

 痛みという叫びを聞いてもらえなくなった足は、自らの悲鳴を別の手段で訴えなくてはならなかった。

 出血、青タン、おかしな方向へ曲がる指……。そうして他の人に認知されたり、少年自身が動きに違和感を覚えてもらったり。

 でもその必死ささえ、少年には自分の動きを妨げる邪魔者に過ぎない。痛みがないのをいいことに、彼の拳はいままで以上の強さで足を叩き続ける。完全に八つ当たりだった。

 

 日を追うごとに、彼の身体から感覚がなくなっていく。

 左足、両腕、胸部に頭部。石などが身体のとこにぶつかったとしても、彼はまったく痛がらずに済むようになっていた。手足のだるさもなくなった彼は、文字通り血へどを吐くまでの全力疾走ができ、鬼ごっこでも無類の強さを誇る。

 初めて立つ、周りよりも上の立場。その心地よさに得意になる彼だったけど、感覚の喪失は止まらない。

 

 身体の触覚が奪われると、今度は嗅覚がやられた。嫌な臭いをかがずに済むようになったが、それは糞尿をはじめとする、悪臭のもとを避けづらくなることでもあった。

 続いて味覚。彼は自分の食べるご飯を、いささかも味わえなくなっていた。自分の望み通りに動く、木の舌に取り換えられたかのようで、怖気が走ったとか。

 そしていよいよ耳まで聞こえなくなり、彼はようやく本格的に恐れを感じ出した。

 もう自分の名を呼ぶ声さえも分からない。相手が何を思い、何を自分に向けてくるのかは、目にする表情としぐさ、文字で判断するしかなかった。

 すでに彼も、このままで終わるはずがないとうすうす感じている。いよいよ最後に残された視覚。これが奪われるときが来るのだろうと。

 両親にはすでに、不安はあふれるほど伝えた。その答えをあえて顔に出さず文字にもせず、母親がぎゅっと抱きしめてくれたのは、思いやりゆえだったのかもしれない。

 もう彼には、その肌のぬくもりすら感じることはできなくなっていたが、ひとつはっきり分かることがあった。

 母親のお腹は、大きく膨らんできている。その中に自分の弟か妹がいるであろうことが。

 

 

 それから数日後。

 彼はニワトリの声で目を開いたが、そこには眠るときと変わらない、暗闇が広がるばかりだった。


 ――ああ、ついにやられた。


 ここがこれから、自分が永久に過ごす檻となるのだろうか。覚悟ができていたせいか、心にあふれるのは、恐れよりも諦観の方がずっと強い。

 まずは家の中を自由に歩けるようにならねばと、彼はゆっくり立ち上がる。床も壁も、感触がなくなって久しい。

 手足がどこで止まるのか、それによって判断するしかなかった。

 

 

 だが寝床から起き、左へ歩いて三歩目。長く感じていなかった針を刺す痛みが、足裏全体に広がった。

 同時に、暗闇の中だった視界が開いていく。そこは見知った家の中ではなく、ようやく人ひとりが歩けるような、細い崖の上だったんだ。

 いや、むしろ岩の橋と呼ぶべきか。壁も手すりもなく宙に浮かぶそれは、どことなく硫黄の臭いを漂わせている。それが広げた扇の骨のように、五股に分かれて伸びていた。

 橋下をのぞくと、はるか下にいくつもの尖った岩が槍のように突き立っている。穂先たちの間には、しきりに泡立つ紫色の海が顔を出していた。


 不意に取り戻された五感。いくらまばたきをしても、目の前の景色は変わらない。そして自分の背後には、同じく槍と海が待つ絶壁が横たわるばかり。進むしかなかった。

 まず五股の中心の道を進みかけて、彼は悲鳴をあげる。

 前方から無数の針が飛んできて、顔と手足に突き立ったんだ。厳密には、そう感じる痛みだったが、食らった場所はじんわりと血がにじんでいる。

 引き返す彼は他の道を試すと、四つのうち三つで同じような「歓迎」を受けた。無事でいるのはひとつだけ。進むならここしかなかった。


 その先も道は枝分かれを増やし、彼の前に立ちふさがった。

 間違った道を進もうとすると、吹き付けるのは針ばかりでなく、激痛が走る見えない吐息だったり、身体を吹き飛ばして、下の槍の海へ叩き込まんとする強風だったりした。

 幾本もの道を選ぶうち、すでに彼は全身が血だらけになり、まとった服も半分ボロになっている。

 そして、先ほどから自分の後ろをついてくる足音があるんだ。いくら振り返っても主を見せないそれは、先へ進むにつれて音の大きさを増していく。

 けれど、ためらってはいられなかった。正しい道を進んでも、吹きすさぶ風は傷だらけの肌を、容赦なく苛めてくる。ここまで風を防げるような場所はなく、どうにかここを出る道を探るよりなかったんだ。


 そしてついに50を下らない、道の分岐点に少年はたどり着く。そのいずれの道も、何十歩か先に、白い光が漏れ出てきているのが分かった。恐らくは出口だ。

 はやる気持ちを抑え、彼は慎重に道を選定していく。ここでは間違った道に一歩踏み込もうものなら、身体の皮の一部が勝手に剥がれ飛んだ。かすかに肉も張り付けたまま飛んでいくそれは、更なる血を彼に流させる。

 久方ぶりに味わい続けた痛覚に、歯の奥を食いしばりながら、ついに彼は正解であろう道を見つけた。歩いて行っても、肌をはがされる感覚はない。


 歩く。血をぽたぽたと垂らし、後ろからついてくるだろう者に、目印を残しながら。

 追ってくるその足音は、さらに力強さを増す。一歩ごと、軽く彼の身体が跳ねるほどだった。明かりが近づくにつれ速さも増していき、とうとう視界いっぱいに広がった時、足音の主は確かに自分の肩へ飛び移った。

 そうしてぐぐっと大きく踏み込むと、そのまま前方へと跳びはねていったんだ……。

 

 

 彼は改めて目を覚ます。しきりに自分の耳を打つのは赤子の泣き声だ。

 見ると、両親の姿へくわえ産婆や他の村人たちも集まっている。それが子供を取り上げているのだと、少年にも分かった。

 見える。みんなの姿が。

 聞こえる。みんなのざわめきが。

 臭う。血をほのめかすお産の香りが。

 感じる。いま自分が床から身を起こしたのが。

 分かる。かまどでは麹の匂いがする甘酒を作っていたのが。それを察した舌がつばきを沸かせてくるのが。

 彼は。彼の五感が、いちどきに戻ってきていた。

 

 のちに振り返って、彼は語る。

 あの夢で自分は、生まれ出る弟を胎の外へ導くための、使命を負っていたのだと。

 いまだ汚れを知らない世界より、外へ出る道を探るには、純そのものの感覚がなければいけない。

 ゆえに神様は自分から、俗で汚れた五感をいったん奪った。そしてもう一度生まれた直後に戻すことで、弟を助けさせたのではないかとね。


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