終章 Revival
目を開けると、霧は晴れていた。
今まで聞こえていなかった吹奏楽部員の声が、フェードインしてくるかのように耳に入ってくる。みんな、楽しそうにご飯を食べていた。
そして、隣を見るとそこには、あっこ先輩がいた。
1人で、他の吹奏楽部員の人たちを眺めていた。
「——あっこ先輩?」
どうして一緒にご飯を食べないんだろう?
私があっこ先輩を呼んだ瞬間、あっこ先輩がぴくりと動いた気がした。
そして、何故かぎこちない動きで、こちらを振り返った。
「——咲希ちゃん!」
あっこ先輩が驚いた顔をして、私の名を呼んだ。
どうしてそんなに驚くのだろう?
「記憶が……戻ったの?」
「あっ……!」
言われてから気付くなんて、と思った。
なんだかおかしくて、くすくす笑ってしまいそうだったけど、それは我慢した。
「——はい」
私はあっこ先輩に向かって、にっこり笑いかけて言った。
「——記憶が、戻りました」
どうして記憶が戻ったのかは、よく覚えていない。
真珠が眩しく光って目を閉じ、目を開けた時には中庭が霧でいっぱいになっていて、また何かが眩しく光って目を閉じて、目を開けたら中庭は元どおりになっていて、記憶も戻っていた。
霧が立ち込めていた時、何があったのかはよく覚えていない。
でも、霧の正体は分かる気がする。
あの霧はきっと——私の記憶だ。
私は一昨日の夜、人身事故に遭った。
そして私は、死の国の手前にある花畑まで行った。
その時、川の守り人だと名乗る人が教えてくれたのだ。
『貴方はまだ、生きられます。つまり、死の国に来るのは、まだ早すぎるのです。早く現世に戻ったほうがよいでしょう』と。
どうやったら戻れるのですか、と尋ねると、川の守り人は言った。
『ここから現世に戻るのなら……霧の道を使うしかないでしょう。戻りたい場所を、強く念じるのです。そうすれば、貴方の記憶が現世への架け橋になってくれます』
分かりました、ありがとうございます、と言って、さっそく試そうとした時、川の守り人は『ちょっと待ってください』といった。
『覚えていてくださいね。現世に戻ってきたら、霧の道に向かって手を差し伸べるのです。そうしないと、貴方は記憶を失ってしまいます。霧の道に手を差し伸べれば、記憶はきっと、貴方の元に帰ってきます』
忘れないようにしなくちゃ、と思いながら、ありがとうございます、ともう一度告げ、私は戻りたい場所を強く念じた。
すると、本当に霧の道が現れたのだ。
私は霧の道を渡って……その後の記憶はない。
目が覚めたのが今朝だったから、昨日はきっと、眠り続けていたのだろうと思う。
でも、よく覚えていないが、なんだか幸せな夢を見ていたような気もしている。どんな夢だっただろうか……?
「咲希ちゃん、みんなに声をかけにいく?」
あっこ先輩の声で、現実に引き戻された。
「かけにいこうと思います」
「じゃあ、行こっか」
はい、と言って、私は車椅子を動かした。
大切な人に、伝えたい言葉があった。
私は車椅子を押して、吹奏楽部員の元へと向かった。あっこ先輩が車椅子に手を添えて、ついてくる。
「吹奏楽部の皆さん」
私は近付いて、声を掛ける。
一気に吹奏楽部員の目線が上がって、私を見る。
「——咲希!」
楓が絞り出したような声で、私の名を呼んだ。
それがきっかけだった。
「よかった……!」
「咲希ちゃんの意識が戻ったんだね!」
「大丈夫だった?」
「すっごく心配してたんだよ!」
吹奏楽部員の人たちが、一気に話し出した。私に向けた言葉もあれば、周囲の人と話す声も聞こえる。
全員が静かになるまで待って、私は話し出した。
「ご心配をおかけして、すみませんでした。私がここに戻って来ることができたのは、皆さんがいたからだと思っています。本当に、ありがとうございました」
私が話し終えた後、一瞬間が空いてから、再び全員が一気に話し始めたのは、言うまでもないかもしれない。
「まあ、せっかくだしさ、咲希ちゃんも演奏に参加する?」
そう言ったのは、あっこ先輩だった。
「——あっこ!」
凛先輩と千尋先輩が、同時に叫んだ。
ようやくあっこ先輩の存在に気付いたらしい。
千尋先輩があっこ先輩のところまで来て、あっこ先輩の肩を掴んで揺らした。
「もう!『親戚が昨日亡くなって休むから、代わりに指揮お願いしてもいい?』なんて言って!嘘だったの?もう!」
え?
あっこ先輩、そんな嘘を吐いていたの?
私はびっくりして2人を見ていた。
千尋先輩は怒った口調で言っているけど、言いながら笑っているから、きっと本気で怒ってはいないんだと思う。むしろ、肩の荷が下りたような顔をしている……気がする。
あっこ先輩は悪びれずに笑って、「ごめんね、千尋」と言った。「詳しいことは後で話すから」と言って、ひらりと千尋先輩の言葉をかわす。
「まあ、今は車椅子だし、完全に怪我が治ったわけじゃないみたいだけど……そのぐらいなら、ね」
あっこ先輩はそう言って、いたずらっ子っぽく笑った。
「うちがおまじないをしてあげるよ」
あっこ先輩がそう言った途端、目の前に光の粉が舞った。
いや、よく見ると、光の粉が舞っていたのは目の前だけではなかった。
私全体を包み込んで、舞っていたのだ。
そして光の粉が消えた時——私を見て、その場にいる人たちが驚きの声をあげた。
「咲希ちゃん——怪我が治ってる!」
頰にあった傷に触れてみようとしたが、触れることはできなかった——傷は消えていた。
「——ない!」
驚きのあまり、声をあげていた。
「当然だよ!私のおまじないは絶対に効くんだからね?」
あっこ先輩は得意げに笑った。
「ほら咲希ちゃん、立ってごらん!」
あっこ先輩に言われ、戸惑いつつも、そっと地面に足を着ける。
そして、立ち上がった。
何事もなく、立ち上がることができた。
少し歩いてみる。走って戻って来る。その場でそっと跳んでみる。
(——なんともない!)
私は嬉しくて、もう一度跳んだ。
今度はさっきよりも少し、大きめに。
それでも、なんともなかった。
「あ、折角だから……はい!」
あっこ先輩が不意にそう言って、指を鳴らした。
ぱちん!という音が響き、その次の瞬間、多くの変化が起こった。
私の着ている服が入院服から舞台衣装——白ワイシャツと黒ズボン、そして黒い蝶ネクタイ——に変わった。
譜面台と椅子が1つ増え、譜面台に私の譜面が挟まっているスケッチブックが載っていた。
そして、椅子のそばに、私が日頃使っているバリトンサックスが現れた。私がいつも使っている小物入れも一緒だ。
「——ね?これでみんなと演奏できるでしょ?」
あっこ先輩はそう言って、微笑んだ。
と、あっこ先輩が急に、「あっ、いけない」と言って、自分の分の譜面台や椅子も魔法で出した。
その直後、宙を掴んで、自分のフルートを取り出したのを見たときは、流石に驚いた。
「本日は、私達の演奏をお聴きくださり、ありがとうございます」
いよいよ、本番が始まった。
「本日司会を務めます、現吹奏楽部部長 ダブルリードパート2年の髙橋凛と」
「次期吹奏楽部部長 サックスパート1年の西野楓です」
中庭に集まってくださったたくさんの患者さんたちに向かって、2人は礼をした。
「よろしくお願いします!」
わあっと拍手が湧く。
さっきまでは拍手を送る側になるはずだったのに、と思うと不思議な感じだった。
でも、まぁいいとしよう。
だって、大切な人達と、演奏することが出来るのだから。
1つの音楽を創ることが出来るのだから。
曲はどんどん進んでいく。
6曲中5曲の演奏が終わり、残るのはアンコール曲のみとなってしまった。
患者さんたちや付き添いの看護師さん達が、手を叩いて、口々に「アンコール、アンコール」と言っている。
アンコール曲の指揮者であるあっこ先輩が、深々と、何回も、礼をした。
「皆様、アンコールをありがとうございます」
司会者が話し出した。
「私達は、感謝の気持ちを忘れずに、日々、頑張っていきます。応援、よろしくお願いします」
再び、わあっと拍手が湧いた。
「最後にお送りする曲は——」
私達は一斉に、譜面の用意を始めた。
パートによっては席を移動したりしている。
やがて、司会を終えた2人が戻って来た。
あっこ先輩が腕を構える。
——さあ、最後の曲の、始まりだ。
曲の長さは3分半。
3分半など、あっという間に過ぎていく。
ああ、もっと演奏していたい。
このひと時が、ずっと続けばいいのに。
でもそれは、叶わない。
「永遠に続く歌はない」と何かの小説で読んだのを、不意に、思い出す。
曲は、終わった。
全員で1つの和音を——B♭の和音を響かせて。
そしてその余韻が残る中、チャイムが、こぉーん、とB♭の音を響かせて。
拍手が中庭に響く。
凛先輩の「起立!」と言う言葉で、一斉に立つ。
「気をつけ、礼」
そして、一斉に礼をした。
全員が一斉に、お聞きくださった皆様に言う言葉。
その言葉に、私は1人、密かに、吹奏楽部員全員への想いを込めた。
私は皆さんのことが大好きです。
私にとって皆さんは、とても大切な人です。
どのぐらい大好きで、大切かと言うと、霧の道の終着点に指定するぐらいです。
だから、私がここに戻ってこられたのは、皆さんがいたからなのかもしれません。
「ありがとうございました!」
ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました!
いかがでしたでしょうか?
評価、感想等頂ければ幸いです。




