第一章―旅立ちの日―3
子供達や若手の剣闘士が訪れる広場に入ったフェニードルは、持参してきたゴムボールを放り投げて、ティティを遊ばせた。ティティはぼってりと太った体型ながらも、どんくさい走りをしてボールを必死に追い掛ける。直ぐにバテてしまうティティのことを考えれば、甘やかして食事を与えすぎた自分の甘さが思い出された。
ティティと遊んでいた時、空気を震わすエンジンの音が耳に入った。フェニードルはげっそりと疲れた顔をしてティティを呼び戻し、絶叫に似た悲鳴を上げながら広場に突入してきた女性を容易く躱す。
「ぎゃっふ!」
「……やっぱりリリアナか」
ベンチを押し潰しながら幾つものパイプが刺さった小型な機械に乗っている年若い女性――リリアナ・ゼフは、木に顔面をぶつけて涙目を浮かべていた。彼女は武国きってのトラブルメイカーだ。黙っていれば可憐な顔をしているが、女性には珍しく化粧っけもなく、日夜機械油に汚れた生活を送る年中繋ぎ姿の女性だった。
リリアナは頭に巻いたバンダナを直しながら、呆れた顔で自分を見ているフェニードルとティティを振り返った。
「ぬはは。まーたやっちゃったぁ」
「またじゃねぇよ。ったく、また警備隊から苦情くるぞ」
「苦情来るんだったらうちの工房に越させなきゃいいんだよー」
「どうやって?」
「取り合えず家の前で警備隊を埋める装置を作る」
「安否が不明になるような気がするんだが……」
頭が痛くなるのを感じて、フェニードルは陽気に笑う彼女を片目で見る。リリアナは武器職人が主流の武国には珍しい機械工学技師だ。リリアナの親は元々機械やロボット生産が主流の国『メルトダーシュ機国』と呼ばれる場所から来た移住者だ。リリアナのような機械や錬金術に興味を持つ人間は武国では珍しく、彼女自体肩身の狭い思いをしてきた。
だが、リリアナは頭がいい。フェニードルは微かに口許を緩めて笑い、彼女の元に歩み寄った。
「お前は相変わらずなようで」
「えっへん。フェニ君もティティも相変わらずだね!」
少女のように笑うリリアナは、小柄な体躯に合わない乳房を揺らして飛んだ。また下着をつけていないらしい。豊満な胸の膨らみは派手に暴れて、繋ぎを押し上げていた。
……まあ、馴れてはいるけどな。
フェニードルは穏やかに微笑みを浮かべて、リリアナの代わり映えのない明るさに安堵を覚えた。
「ねね、フェニ君」
「ん?」
「なんかさ、昨日の夜から上層部の動きがいつもと違うなぁ、って思うんだけど、フェニ君はどう思う?」
リリアナは団栗のように丸い瞳を向けて、フェニードルの反応を窺った。
彼女の素朴な疑問に首を傾げたフェニードルは、昨晩の様子と聞いて心当たりがなかった。昨日のフェニードルは上層部にある闘技場で夜中まで戦闘をしたが、特に変わった様子はなかった。変わった様子と言われれば、大総統部に在籍する人間が観覧席から突如居なくなったことだった。
フェニードルはそれがおかしい物だったのか認識はしていなかったが、首を振ってリリアナの疑問を一掃した。
「……なかった、気がするな」
「そっかぁ。なんか昨日の夜、上層部の人通りが自棄に少なくてさ。人っこ一人居なかった感じ? いつもだったら剣闘士のプロピーがお供引き連れて巡回してるのに、昨日は居なかったんだよねー」
「……は? プロピジェンが居ない?」
上層部に住む剣闘士でフェニードルの同業者でたるプロピジェン・ブレンデルが居なかったとリリアナは言った。
そう言われてみれば、フェニードルも彼を見ていなかった。普段なら闘技場で自慢の剣を振るう彼が珍しく闘技場に足を踏み入れてなかったことを思い出して、フェニードルは柄にも合わない思案顔で再び首を傾げていた。
「ただでさえ輝光賊が来てるのにねー。まあ、私には関係ないけど」
リリアナは呑気な顔で笑いながら機械を叩いて、興味がなさそうに鼻唄を口ずさんでいた。
ティティが自分を呼んでる。フェニードルはティティの声に意識を戻して、リリアナが作った機械から離れた場所で再び遊び始めた。
暫くの間ボールでティティと遊んでいたフェニードルは、風が自分の元に吹いてきたのを感じた。リリアナは既に居ない。フェニードルは優しく包み込む風に身を委ねて、声をかけた。
「そう急かすなよ。本当、この国の風さんはせっかちだな」
――この国に余所者の香りがするよ。
「余所者な。そりゃあ居るだろうな。閉鎖的な国ではないだろうし」
――剣闘士の数が昨日の夜から減ってるんだ。
「……減ってる? どういうことだ?」
フェニードルは自分の頭の中に語りかける風に話し掛けながら、顔を怪訝そうに顰めた。
その時だ。風に混じって鼻をつくアルコールの香りがした。
バッと勢いよく背後を振り返ったフェニードルは、見知らぬ熊のように大柄な男が千鳥足で広場に入ってきたのに気付いた。