第二章(一)王子現る
オリンポス鶴ヶ島商店街店は半年前にできたばかりだ。オーナーはまだ若い女性なのに鶴ヶ島で4店舗を経営するやり手だった。コンビニは商圏と商圏の奪い合いだ。商圏とは歩いて五分でいける範囲のこと。立地に恵まれた店の周りには他のチェーンも出店して来る。客数が見込めるし、相手を潰せば投資は十分に回収できる。
長く鶴ヶ島駅前のお客を独占していたフレンズ鶴ヶ島駅前店だが、この一、二年で他チェーンの包囲網が強まった。コンビニバトルオリンピック開催に向けた布石の意味もあるのだろう。努が店を任されて四年目だ。オーナーへの恩返しのためにも絶対に負けるわけにはいかない。
努は電話機を取った。かけた先は懇意にしている警察官がいる交番だ。
「あいつらまた来やがった。ひったくってくれ!」
開口一番の努の一言に電話の向こうの警官は驚く。
「努か! あいつらってオリンポスか?」
「そうだよ。またうちの店の前でチラシ配ってやがるんだ。何とかしてくれ」
「何とかしてくれって言われたって……」
「また道路交通法違反を理由に連れてけないのか?」
前回はそれを理由に追っ払ったのだ。
「分かった。ちょっと待ってろって。実は今確認しててな……あ〜ダメだ。やっぱり奴ら今回は許可取っているな」
さすがに同じ轍は踏まないか。
「だったら何か別の理由でいいから! うちの店の営業妨害だ。あんな嫌がらせみたいなことされて黙っていられるか!」
「分かったって。俺達ダチだしな。理由なんか後付けで良いから今すぐ駆けつけるぜ!」
「おおっ! 助かるっ!」
どうだ! これこそ地域密着だ。地元の人達との交流を大事にして来た自分の武器だ。このエリアにやってきたばかりの奴らとは積み重ねが違うんだ。
努は勝ち誇った。
「え? あ、あなたは!? 努、悪い。後でかけ直す」
「あ、おい!」
電話は不意に切られた。胸騒ぎがした。警官のコウちゃんとはよく飲みにいく親友だ。俺の頼みを無碍にするわけがない。男の友情は不変なんだ。
努は事務所のドアを開けて入り口の方を覗いた。あの王子様みたいな少年の周りに若い女の子達が群がっていた。店の前で人だかりが増えていく。入り口を完全に塞いでいた。
「くっ! 許せねえっ」
コンビニ戦争だといっても、勝負するなら正々堂々とやれと言いたい。相手の敷地内に踏み込んで妨害するなんて邪道もいい所だ。そっちがその気だからこっちも容赦しない。すぐにカンちゃんが来てしょっぴいてくれる。多少顔が良いからって調子に乗ってるから痛い目みるんだよ!
悪役の精神で努はふふふと笑った。
そこで電話が鳴る。
「カンちゃん! もう来るか!?」
「努……やっぱりこういうやり方良くないって」
「は?」
努はその場に固まった。カンちゃんのテンションの下がり幅があまりに大きかったからだ。何があった?
「先方はあくまでも正々堂々と勝負したいんだって。コンビニ同士のいざこざは商売の常だろ? 国家権力を巻き込むのはやっぱり良くないって。俺はやっぱりいけないよ」
「何だよその変わり身は!?」
「俺はこの町を守る警察なんだ。誰かだけひいきするなんてできないって。皆が大切なんだ。分かってくれって」
「カンちゃんのキャラじゃないだろ、それ!」
飯を奢ってもらえれば駐車違反くらい見過ごすお前が好きなんだよ俺は!
努の中で焦燥感が広がっていく。
「俺は市民を愛しているんだって!」
だから、それがあいつらをしょっぴかないのとどう関係あるんだ? 愛しているからこそ厳しく指導してやれよ!
「努君かしら?」
電話の声が変わった。聞き覚えのある声だ。ねっとりと甘い、やや鼻につく声の主が誰だかすぐに分かった。
「一色オーナー……あなたですか。どうしてそこに!?」
相手はオリンポス鶴ヶ島東商店街店を始め4店舗を経営する30代前半の女性オーナーだった。
「偶然かしら?」
偶然なわけがあるか。
「私、お茶のお誘いに来たのよ」
「おい、まさか……」
頭の中に顔の前に手を合わせて謝るカンちゃんが浮かんだ。
「というわけで、これからお茶に行くから邪魔しちゃイヤよ」
カンちゃんは魔の手に落ちた。友情より愛を取ったようだ。
「フェアにやりましょうね。それじゃ、ま・た・ね」
チュッと唇の当たる音がして電話が切れる。
「あんの野郎!」
親友と色魔への同時に向けた言葉だった。
「フェアにやりましょうだぁ? 人の店の前に立ち塞がってチラシ配ってるくせに、どの口が言ってやがる! 完全に営業妨害じゃないか!」
努はガチャンッと受話器を戻すと、事務所から出て店の外へ向かう。
こちらだって穏便にすませようとしていたんだ。こうなったら直接言って追い払うのみ。
「おいっ! 完全にうちの敷地入ってるじゃないか!」
努が電話している間に、少年が集まった女性達を誘導して店の入り口を塞いでいた。
強い意志の下、努は熱いまなざしと黄色い声援を一心に浴びた王子様の前に立った。
「君達が僕の見せに来てくれるなら僕は君達を愛そう」
耳元で囁くような甘い声が広がって女性達の心を打つ。
初対面のはずの女性達の王子を見る目は恋する乙女そのもの。
女性達に抗う術はない。そのつもりもない。
女性として生まれたのなら誰もが憧れる白馬の王子様。
彼女達は確信している。今目の前にいる少年が王子だと。
少年が放つ魅力が場を異空間へと変えている。それを感じ取った努は、慌てて空気を振り払うように叫んだ。
「おいっ! 今すぐここでチラシを配るのはやめるんだ!」
努の言葉に少年が振り返る。自分達から背けられた瞳の輝きに、女性達は敵意を持って邪魔者を睨む。
努は少年の胸元にあるネームプレートを見た。「王子」と書いてある。
本物かよ。それよりも初顔だな。見た所、大学生か?
女性達の敵意の視線に居心地の悪さを覚えながらも、努は自分よりも背の高い長身の王子を観察した。
オリンポス鶴ヶ島東商店街店の妨害は一度や二度じゃない。あちらの構成スタッフも把握している。一色オーナーは鶴ヶ島市内にある五つのエリアの内、四つのエリアで店を経営している。この王子は新人もしくは他店舗のスタッフか。
「なんだい?」
王子はスマイルを絶やさず尋ね返した。
「なんだ? じゃない。ここはうちの敷地だから出てってくれ」
すると王子は困ったように肩を竦めた。
「道路に出たら彼女達が危ないじゃないか」
女性達から悲鳴にも似た歓声が沸き上がる。フレンズ鶴ヶ島駅前店と鶴ヶ島駅の間は道路だ。車の通りは少ないが、30人以上もの女性で道を塞ぐのは危険だ。
「いや、だからここで配るなって言っているんだ!」
「欲子に頼まれてるからそうもいかないよ」
欲子は一色オーナーの下の名前だ。馴れ馴れしく呼びつけた王子に努は嫌悪感を抱く。
これは努のイケメンへの嫉妬も多々あるが、顔が良いだけで強気でいられる男性は割と多い。とくに上司が女性だと若いツバメをはべらかす意味で甘やかすからたちが悪くなる。
努はすぐに王子が嫌いになった。
「お店の前にこんなに人だかりを作られちゃ他のお客様も入れない。営業妨害だから止めて欲しいんだよ!」
「なるほど。でも男性には諦めて欲しい」
「は?」
「男性ならレディーファーストは義務だよ」
王子が両手を広げながら踵を返して女性達を見ると、さらに大きな歓声が上がった。
「そして君達は王子である僕に愛されるといい!」
こいつ、本気で言ってんのか。え? こんな妄言が女性達に響いているのか?
こうしている間にも興味を惹かれた女性がどんどん集まって来る。彼女達の好奇の顔が陶酔に変わるのに時間はそうかからない。一人一人がまるで夢遊病者のように目が定かでない。一体どうしたというのか。いくらイケメンでもこれほど溺れるものなのか。
男性達は憎々しげに遠巻きで見ているだけで誰も近づこうとしなかった。敵わないと認めているのか。確かにこれだけの数の女性を敵に回したくないだろう。けれど、努は一歩も退かない。頭に血が上って冷静ではいられない。
「トークショーでもライブパフォーマンスでもいいから自分の店の前でやれよ! ここは俺の店の敷地だ! 完全にアウトだろ! けいさ……」
警察を呼びたくても色香にやられたカンちゃんは来ない。あいつは私利私欲でいくらでも一方の肩を持つのだ。努は言いかけた言葉を呑み込む。
「うるさいわよあんた!」
「さっきからキモイ」
「ゾンビみたいな顔して臭そう。臭い! あんた腐ってる!」
とうとう堰を切ったように、女性達の心ない罵詈雑言が努に浴びせられる。
「なっ!?」
そこまで言うか。見れば中には日頃うちの店を利用してくれる女性もいた。こんなに簡単に手の平返すものか。正しいのはこちらのはずなのに、それほど王子が良いのか。
「お、俺はーー」
「帰れ! 帰れ! 帰れ!」
「臭い! 臭い! 臭い!」
一糸乱れぬ大合唱。王子はスマイルを浮かべながら指揮者のように両手を広げている。
女性による顔や生理的な悪口ほど堪えるものはない。どんな勇者であっても戦意喪失する。努も例外じゃない。
「そ、そこまで言わなくてたっていいじゃないかーっ!」
努は背を向けて店内に逃げ出した。目には大粒の涙を浮かべている。
「何やってるのよ」
入ってすぐ正面に立った元気にぶつかりそうになって努は急ブレーキする。
「げ、元気!?」
両腕を組んだ元気は眠たそうな顔でため息を吐いた。
「泣かないでよ。情けないわね」
「で、でも! あいつら容赦ないんだ!」
あんな数の女性に一斉に悪口言われたら男が勝てるわけがない。
元気はゆっくりと髪の毛を掻き上げる。
「分かったわよ」
そう言って店の外に向かう。背中が大きく見えた。ああ、と努は頷いた。
女性に勝てるのは同じく女性しかいない。王子と戦えるのも姫だけだ。
元気は「鶴ヶ島公女」なのだから。
元気の登場に女性達は目を奪われる。王子から強制的に視線を引っ張られた存在感に、頭の中で警報が鳴る。
王子も振り向く前から背中越しに感じていた。待ち望んだ相手がすぐ後ろにいる。
ずっと探していた。そして、今日やっと会えたのだ。
王子。今年21歳になる大学三年生。物心ついてすぐに自分が王子だと自覚したからこそ、王子として正しい振る舞いに努めてきた。
世の全ての女性の想い人として生まれたからには、世の全ての女性を愛して癒やしてあげないといけない。それと同時に王子の本能は伴侶となる女性を求めていた。
王子がコンビニでアルバイトしているのも、ここが貧富の差に関係なく多くの女性が利用する最も出会いに恵まれた職場だからだ。
そう、王子が探していたのはお姫様だ。
少し前から噂だけは聞いていた。四騎士に守られた鶴姫がこの鶴ヶ島にいると。通り名が「鶴ヶ島公女」と呼ばれる女の子。名前は今日元気。高校生になるのを待っていた。この店で働き出したとも聞いていた。だから欲子にお願いしてこのエリアに移って来た。
王子は高鳴る心音を抑えて振り返る。
胸がぶち抜かれる衝撃が走る。強烈な光に目が潰れたような錯覚。王子はその場に崩れ落ちそうになるのを、王子としての自負でかろうじて踏み留まった。
「君が……」
女性を前にして声が震えたのは初めてだった。緊張しているのが自分でも分かった。
王子の本能が告げている。目の前の少女こそがお姫様だと告げている。
王子は元気の前に跪いて手の甲にキスをした。
「元気。僕のお姫様。どうか僕を愛してくれ」
「お断りよ」
眠たそうな顔のまま、元気は王子の手を払いのけた。
払いのけられた王子は驚きながらも口元が緩む。
女性に拒絶されたのは初めての経験だった。だがそれ以上に元気の流れるように自然な応対に魅入ってしまう。初【ルビ:うぶ】な女性のような動揺は見られない。そこには凛とした佇まいがあった。
噂に違わぬ鶴ヶ島公女。王子の心が高揚していく。
「人の敷地で騒がれるのは迷惑なの。お帰り願えないかしら?」
元気は片手を腰に添えながら、差し出すように手の平を向ける。
「私達は誰にも迷惑かけてないじゃない!」
「お店に用があったら勝手に入るでしょ?」
一挙手一投足に華がある元気に、王子よりも先に周囲の女性陣が吠えた。敵わないと見える同性に対して、徒党を組んで排除する防衛本能だ。
「ははは、彼女達の言う通りだ。僕達は店の前で喫煙している人達と大差ないと思うよ」
王子に言われて元気はチラッと店の前のゴミ箱や灰皿を見た。王子達に気圧されてとっくに退散していたが、普段はここでは喫煙者達がたむろしている。
「全然違うでしょ」
元気はため息を吐く。全くもって筋が通っていない。
店の入り口を塞いで通行止めにして、入りたかったら彼女達をかき分けていけと要求する状況が迷惑でないはずがない。だが、これが感情的に判断しがちな女性の論理だということも元気は同性として理解していた。
彼女達は王子に魅入られている。それだけの魅力を放つ目の前の少年はすごいが、これは王子様願望を持つ女性の抗えない性に依るものだ。
なら、理性を思い出させてあげればいい。
元気はポケットから携帯電話を取り出すと、女性達を撮影し出した。
不意に自分の顔を撮られて戸惑う女性達。反応するより早く元気が口にした言葉で目が醒めた。
「男に群がってる姿。早く帰らないとネットに晒すわ。好きな人に見られたら困るんじゃない? 大人しく帰ってくれるなら消去するけど」
透き通るような明朗な声だった。表情を失う女性達。脳裏に瞬時浮かぶのは、意中の相手、恋人、仲が良い男友達。王子という夢想から一気に現実に引き戻される。
決断から行動までが早かった。端から一人、また一人とその場を後にしていく。誰もがそれ以上の口論を望まなかった。いくら王子と言っても、出会ってそんなに思い入れがあるわけじゃない。夢に溺れるのも早ければ、夢から覚めるのも早かった。本来、女性は男性よりも現実的だ。お姫様としか結婚しない王子よりも、将来の結婚相手になる男性を選ぶだろう。王子の能力が一種の催眠術だと元気はすぐに見抜けた。
女性達があっという間にいなくなったのを見て王子は口笛を吹く。
「残念だな。これからたくさん愛してあげられたのに」
王子はそう言って肩を竦めた。
「不幸になるのが目に見えてるのに?」
元気がつまらなさそうに王子を見る。それは女性達に向けた言葉だった。束の間、夢に溺れても必ず醒める。醒めた時には後悔しか残らない。
「刹那の救いを求めるのが女性だろう?」
王子が優しく微笑む。彼は全て分かってやっている。この王子は女性にとっては麻薬だ。
元気は気持ち悪さを覚え、これ以上顔を見たくなくて背を向ける。
「あなたも帰りなさいよ」
前置きもなく元気の肩に王子の手が回される。驚いた元気が振り向くと自分を見つめる王子の顔があった。
「離しなさい」
「僕は女性の苦しみを見ていられないんだ」
元気が動きを止める。半開きの目がゆっくりと開かれていく。
「君も苦しんでいるように見える。安心して欲しい。僕は王子だ。お姫様を幸せにするためにいるのだから」
大きく見開かれた元気の瞳が微笑を崩さない王子を睨みつける。
「おい、お前な!」
店のドアが開いて、努の手が元気の腕を掴んで引っ張った。元気と入れ違いに努が王子の前に立つ。
「うちのスタッフに手を出すんじゃねえよ! これ以上は一線を越えてるだろ?」
努の手が固く握りしめられている。店の前でのチラシ配りも、敷地侵入も、まだ許せる範囲だが、スタッフに手を出すのはコンビニ店員の本分を超えている。
王子が嘲笑って努を見た。
「そう言えばコンビニバトルが近いよね」
「ああ。市予選のルールは指名制だ。初戦の相手はうちがしてやるよ。あと一週間を切っている。首を洗って待ってろ」
始めからこっち(、、、)が狙いだったか。努はオリンポス鶴ヶ島商店の挑発の真意を理解する。だけどスタッフに手を出されてまで黙っていられない。
「店の代表は僕ともう一人だ。勝負に勝ったらそちらの元気をもらい受ける」
「はぁ!? 何を言いやがる?」
「前断りさ。こちらが引き抜いても後から文句を言われないようにね。僕は本気だ。欲子にもすでに話を通してある」
その言葉で努が逆に冷静になる。一色オーナーが元気を引き抜く? この超問題児を?
「そうか。鶴ヶ島を制覇しようとしているあの人らしいな」
地主の娘を味方につけることは鶴ヶ島に根を広げるのに大きく有利になるだろう。
「欲子は難しいことを考えてるみたいだけど、僕はもっと単純さ。苦しんでいる女の子を放っておけない」
「何ぃ?」
努はそれこそ言っている意味が分からなかった。
「今日は挨拶だけが目的だったからもう帰るよ。それじゃ一週間後にまた」
爽やかな笑顔を残して王子は駆け足で去っていく。
努は親指を地面に向けて、地獄に堕ちろのポーズをとった。
「初戦はめんどくさい所が相手になったな。ん?」
振り返ったそこに元気の姿はなかった。元気はレジカウンターで何事もなかったように本を読んでいる。努が見ると、ジトーッと見返して来た。
「出ないって言ったでしょう? しつこいわ」
「あはは……」
そんなに甘くないか。
気まずいあまり、愛想笑いをする努だった。