第一章(四)コロッケを売ろう
鶴ヶ島市内にある鶴ヶ島駅は東武東上線にあり、線路の上を跨いだ橋上駅だ。構内はせまく、東と西に出口が別れており、フレンズ鶴ヶ島駅前店は東口の正面にある。
翌日の土曜日、元気とるいは昼の1時からシフトに入っていた。
パートスタッフは土日を家族と過ごしたいので基本休みだ。なので現在唯一の学生である元気とるいには無理を言って、土日は十三時から二十二時までシフトに入ってもらった。この長時間シフトには大会を視野に入れた努の打算もある。
当然、当の本人達は嫌々だ。
「信じられないわ。皆、私と遊ぶの楽しみにしてくれてるのよ?」
元気は携帯電話を握り締めながら眉を顰めた。
「ほかの誰よりも俺が今一番元気を必要としているんだ!」
「え?」
努が土下座する勢いで訴えると、元気は目を閉じて熟考の末に承知してくれた。
「ボク空手の稽古できないじゃん」
るいは来て早々、廃棄のパンを頬張った。
「バイト終わってからやればいいじゃん。過酷な環境に自分を追い込むのも修行だぞ? 大丈夫だって、お前は健康で若いんだから余裕だよ。廃棄のフライドフードも持って帰っていいからさ」
「本当に!? うん、じゃあいいよ! ボク頑張るっ!」
るいは食べ物で釣れば拒否しない。
そういうわけで、二人の初の長時間勤務が始まった。だが、土日のフレンズ鶴ヶ島駅前店は暇だ。平日と比べて利用者はがくんと落ちる。
都内に遊びに出かける人の数だってたかが知れている。電車で四〇分かかるから、わざわざ行こうとしないのだろう。あるいは、土日は家で過ごしたい人が多い時代の流れなのかもしれない。
平日のピーク時は一時間で100人ほどお客が来るが、土日の昼間は一時間で平均3〜40人しかこない。
フレンズ鶴ヶ島駅前店は中型の一般的な大きさの店だ。駅前という立地から広い駐車スペースはないが、店の前にはゴミ箱や灰皿が用意できるだけのスペースはある。
店内中央に三列のゴンドラと呼ばれる商品棚が並び、それを囲む四方は各エリアに分かれる。
入り口付近にレジカウンター、ATM、コピー機、チケットなどが買える通信機があり、窓側には一面に本・雑誌棚がある。
レジカウンターむ向かって奥の壁側には、おにぎりやサンドイッチ、弁当、冷蔵惣菜があり、入り口の真向かいの壁側に面して缶ジュースやお酒などのドリンクが入ったウォークイン冷蔵庫、さらにアイスが入ったボックスが置かれている。
ウォークイン冷蔵庫の真横に、スナック菓子などの商品を保存しておくバックヤードや事務所に通じるドアがある。
夜十時以降はスーパーが開いていないので、一人暮らしのお客をターゲットにして、扉がない上向きの平台冷凍庫を置いて冷凍食品を増やしている。
努は事務所でおにぎりや弁当の発注をしながら、監視カメラを通じてモニターに映し出される元気とるいの仕事ぶりを見ていた。
店が暇だから元気だけでなくるいまで眠たそうだ。
元気はいつも通り、レジの前にパイプイスを置いて座って本を読んでいる。
るいは努が渡した時間ごとのタスク表通りにさっきまで仕事をやっていたが、次の仕事までに間が空いているのでレジカウンター内にいた。元気の真似をしてイスに座ることはないが、レジ台よりかかって肘を突きながら、携帯電話をいじっている。
お客がレジにやって来ると、るいは自分がいる入り口側のレジ呼ぶ。その時のるいの必死な顔つきに、元気によく躾けられているなと感心する。
「元気はともかく、るいはワークタイムスケジュール以外では動く気ないのか?」
二人が勤務を始めてもう三週間が経っていた。研修期間は終えている。努は一通りの仕事は教えたし、手前が売れて後ろが残ってしまった商品を前に出す「前出し」や、商品のラベルがお客に見えるように前に向ける「顔出し」、商品棚にバックヤードから商品を補充する「品出し」を徹底するように伝えたはずだ。
元気はゆっくりと文庫本のページをめくった。るいは携帯画面を見ながら大きくあくびをする。それから、「あ」っと声をあげて、レジカウンター端に置かれたフライドフードの入った保温ショーケースに向かった。
「やった! コロッケ廃棄だ!」
販売管理表に書かれた時刻を過ぎたのを確認して、るいは声を弾ませた。
コロッケは二つも売れ残っている。
「元気ちゃん!」
「私は要らないわ」
元気は聞かれるまでもなく即答した。るいは、「よーし」とトングで二つのコロッケを紙袋に入れてその場で食べ始める。
「おいおい……お客さんがレジに向かってるぞ?」
さすがに元気がフォローするのかと思えば、元気のいるレジに並ぶ女性客に気づいたるいが、食べかけのコロッケを呑み込んで走った。
「うう、こっち、こっち!」
胸元を叩きながら入り口側のレジを指差するい。女性客はむせたるいに困惑し、落ち着いて読書中の元気と交互に視線をやる。
「こっち!」
叫びにも似たるいの呼びかけに女性客はやっとるいのレジに向かった。
「元気がそこまで恐いのか?」
というか仕事中に食うなよ。二人共クレームいつ来てもおかしくないぞ。
二人の勤務態度の悪さは当初から変わらずだが、それでも最低限の職務だけ抑えてくれれば良しとしている。若い二人の成長を長い目で見守ろうというスタンスだ。
「だけどさすがにこの仕事ぶりは新人の中でもワースト過ぎる」
努は頭を抱えた。
お客の会計を終えて、ホット飲料のショーケース内で温めていたパック牛乳を飲んだるいはやっと一息吐く。
「コロッケ揚げなきゃ」
るいはレジカウンター内にある小型冷凍庫を開けて、冷凍されたコロッケを一袋取り出した。これを「フライヤー」と呼ばれる油で調理する機械で規定時間だけ揚げればいい。
るいは10個入りの袋を開封し、フライヤーの二つの網カゴにコロッケを5個ずつ置く。
「おい、ちょっと待て!」
努はたまらずレジカウンター内に通じるドアを開けて事務所を飛び出るが、るいはすでにスイッチを押していた。
「10個は揚げすぎだ!」
るいはキョトンとしている。
「朝に3個揚げて、2個売れ残ったのに、どうして10個も揚げる判断になるんだ!?」
「そんなのボク知らないよ。朝いなかったもん」
唇をすぼめたるいに努は販売管理表を取って見せる。
「ここに何個揚げて何個廃棄になったか、その都度書いてあるだろ。売れ残ったら無駄になるじゃないか」
「大丈夫だよ。ボクが食べるから」
るいは誇らしげに胸を張って見せる。
そういうことを言ってんじゃねえよ!
売れ残ったら店の損になるという仕組みをるいは理解していない。どうせ袋に10個入ってたから、考え無しにそのまま全部揚げたんだろう。
「コンビニ店長は廃棄なんか出したくないんだよ!」
努は大きく深呼吸した。るいもついこの間まで中学生だったんだ。一度に詰め込むように教えても吸収できない。ここで叱りつけても良くない。長い目で見るんだ。
努は今度から揚げる時は自分に個数を聞くように言って、再び事務所に戻った。
「店長って変なこと心配するよね?」
るいの声が事務所に聞こえてきて、努は顔を引きつらせる。
落ち着け、まだ新人なんだ。
自分に言い聞かせることで努は必死に怒りを抑え込んだ。
ピンポーン
コロッケが揚がって間もなく、入店音が鳴って入り口から男性客が入ってきた。一直線に元気の元に向かった男性客は、服装からして駅前に停車しているタクシーの運転手だった。
るいが自分のレジに来るように伝えるより早く、タクシーの運転手は元気に注文した。
「コロッケくれ」
元気は文庫本からゆっくり顔を上げる。
「10個でいいかしら? るい、袋詰めしてあげて」
瞬間、努は予想される男性客の怒りに身構えて固まった。
押し売りかよっ!
「10個? 本気で言ってんのか?」
男性客は顔色を変えた。当たり前のことだ。先手必勝で謝ろうと努は事務所のドアに手をかける。
「きっと皆で食べれば美味しいわ」
満面の笑みを浮かべる元気。
すると男性客はポカンとする。
「う〜ん、そっかぁ。たまにはお裾分けしてやるかな。分かった。10個くれ」
は?
努の腕の力が抜ける。
驚くほどあっさり、男性客はコロッケ10個を買う決意をした。努は呆然と立ち尽くしたまま動けない。
「ありがとうよ。お嬢ちゃんは新入りか? また来るからコロッケ用意しておいてくれよ。じゃあな」
「ありがとう。またね」
コロッケを受け取って元気に手を振られ、上機嫌で帰って行く男性客。
「すごいよ元気ちゃん! 10個も売るなんて! よーし、ボクもチャレンジするぞ!」
予想外の事態に、努はるいが再びコロッケを10個揚げるのに気づくのが遅れた。
え? あいつマジで何やってんの?
元気のフォローを無駄にしたるいに、さっきとは別の意味で声が出てこない。
いや、これをきっかけにコロッケを売るための「声かけ」のきっかけになるなら、安い投資ではないか? 商品を一つお客に買ってもらうまでの大変さが身に染みることで、売れた時に得る喜びが飛躍的な成長に繋がるはずだ。
努は事務所のドアを開けてるいに声をかける。
「るい、頑張れ! 売れ残るのを怖がるな!」
るいは急に応援されて面食らう。
「さっきと言ってること違うけど、まー任しといて!」
元気は努とるいのやり取りに我関せず、ただ本を読みふけっていた。
ピンポーン
るいの出番は思いの外、早くやって来る。見るからに主婦の女性客が店に入って来て、まっすぐるいの元に向かった。
「あ、あったわ。コロッケちょうだい。すぐにお弁当を作らなくちゃいけないのよ!」
るいは目を輝かせた。女性客はありがたいことに、自ら情報を提供してくれた。お弁当を作るなら大量に買ってもらえそうだ。このチャンスを逃さない。
「今ちょうど揚げてるよ! 10個詰めるね! お買い上げありがとうございます!」
その一言が女性客の逆鱗に触れた。
「は? あんた何言ってんのよ!」
るいは予想外の反応に表情を失ってしまう。
「え……えっと、み、皆でたくさん食べた方が美味しい……かなぁって」
元気の真似をするが、それは火に油を注ぐ結果にしかならなかった。
「バカにしないでよ! それがお客様に物を売る態度なの? 誰が10個も食べるのよ!」
努はモニターを見ながら、どうして10個セットにこだわったんだあいつ? と他人事のように思っていた。
「店長呼びなさい!」
え? 俺も? いや、そりゃそうだよな。
努はハッとしてすぐにレジカウンターに出て、女性客に頭を下げに行く。
「本当に申し訳ありません!」
「どういう教育しているのよあんた! 失礼じゃないの!」
それから10分間、努は女性客の罵声をひたすら浴び続けた。いつの間にかレジカウンターから逃げ出したるいに女性客も気づいて、さらに五分間延長した。お詫びにコロッケを1個差し上げますと提案してからも、「そういうことじゃないのよ!」と3分間ロスタイムに入った。しまいにコロッケを10個差し上げたいですと提案したところで、やっと許してもらえた。
「ありがとうございました。またお越し下さいませ!」
お客を見送ってから精神的疲労でグッタリした努に、傍にいたるいはピースサインをして見せた。
「イェイ、コロッケ10個完売!」
「売れてないだろ!」
努がレジの元気を見ると、元気は座ったまま、お客に商品のバーコードスキャンをやらせて袋詰めまでさせている。
あまりに堂々と命じている元気も、オドオドしながら従うお客も間違ってる。
ここは俺が知っているコンビニなのか?
努は頭を抱えた。まだ二人の今日の勤務は一時間ちょっとしか経っていないのに、この疲労は何なんだろう?
外を見ると良い天気だった。それに比べて自分の心は曇っているなと努は鼻で笑う。
「ん?」
店の前の敷地内に、あまりに違和感を覚える姿が見られた。
努は思わずレジカウンターから飛び出す。
赤を基調とした黒いラインの入った制服、ギリシャ文字のようなロゴ、そこにはコンビニ業界2位オリンポスのスタッフが立っていた。
お店の入り口の真ん前に立ったスタッフは、店の前を通り過ぎたり、駅から下りてくるお客に声をかけている。
「ふざけんなよ!」
努の怒りが急速に高まっていく。その視線はスタッフが手に持つチラシに注がれていた。
オリンポスのスタッフは堂々と、うちの店の前で自分達の店の販促チラシを配っていた。
これほどまでにあからさまな挑発は他にない。
コンビニ戦争、まさしく生き残るために手段を選ばないのだ。
スタッフは努の凝視に気がついて振り返る。
サラサラの髪に、高い鼻、切れ長の瞳、美しい色の唇、線の細さを感じさせながらも引き締まった体格、それでいて手足はスラッと細長い。
誰が見ても一目で美少年だと分かる。
まるでおとぎ話の世界から出てきたような王子様だ。
少年は努と目を合わせると、白い歯を見せて笑う。
光に反射してキラキラと輝いて見えた。
努は眉間に皺を寄せて、目を血走らせる。
「あいつら、性懲りもなく……」
それはオリンポス鶴ヶ島東商店街店からの挑戦状だった。