第一章(二)鶴ヶ島高校
鶴ヶ島高校は鶴ヶ島市内唯一の高校である。
埼玉県鶴ヶ島市の中央に位置する市役所の左隣、一本松駅のあるエリアに属している。
駅から徒歩20分ほどの距離でバスは通っていない。生徒のほとんどが自転車で通学している。広大な駐輪場があるのはそのためだ。生徒の半分が市内で、半分が市外在住者だ。
校内の敷地は広く、校舎が二つあり、他にも体育館や武道場、食堂や部室棟などが独立している。その周辺には、グラウンドやテニスコートがある。
午前中、グラウンドには一年生を示す赤いラインの入った白い半袖と紺の短パンの体操着姿の女生徒らが見られた。彼女達は二クラス合同でサッカーをしていた。十一人に分かれた試合中の生徒を、グラウンドの周りに腰を下ろした生徒達が見守っている。
センターラインに元気は立っていた。大勢の生徒の中でも真っ先に目につく美貌の持ち主は、今日も眠たそうな顔をしている。体育の時間でありながら、黒いリボンのカチューシャはこんな時でも外すことはない。艶やかな長髪を束ねることもしない。肌の色白さに、丸みのある胸や尻の曲線美、露わになった手足のか細さ、ボールの取り合いとは無縁な、高貴さを感じさせる出で立ちだ。
チームは自陣深く攻め込まれ、フォワードまでが下がって守備をしているのに、元気だけはコートの中心にポツンと立ったままだ。一見するとやる気がなさそうに見える。
青空の下、風が運んでくる茶畑の匂いを元気は微かに嗅いだ。
鶴ヶ島市は茶の生産量が多く、鶴ヶ島高校の周辺には茶畑が多くあった。
元気はなんだかお茶が飲みたくなった。グラウンドの端に置いてある水筒の中身は、母親が淹れてくれた鶴ヶ島茶だ。
顔を上げて校舎を見た元気にチームメイトから声が届いた。
「元気、ボール行ったよ!」
振り返った元気は飛んでくるボールを見た。クリアされたボールはバウンドして転がって元気の足下まで届く。
元気がボールを持つと見学の生徒達が歓声を上げた。元気と同じA組の生徒だけでなく、一緒に体育をしている2組の生徒も目を輝かせて声を張り上げる。
元気はゆっくりと前を向いた。後ろや横から相手チームのプレスが迫る。
ゴールまでのディフェンダーの人数は二人だ。元気は髪をなび立たせて走り始める。
けれど良く手入れされた髪は乱雑に散らず、まとまって後ろに吹き抜けていく。
中学まで陸上をやっていた元気の走る姿勢は美しい。
敵選手の多くが戻りきる前に、元気は敵陣深くまで切り込む。
眠たそうな顔になのに、咄嗟の判断と反応は素早い。
横からボールめがけたスライディングを飛んで躱し、目の前に迫った二人のディフェンダーを視界に捉える。身構えた二人の一瞬の体の硬直を見逃さず、元気はその間を通り抜ける。反応が遅れた二人が振り返った時には、元気はペナルティーエリア内に入って、キーパーと一対一になろうとしていた。
「元気ちゃんっ!」
突然、短髪の少女が立ち塞がったーーるいだ。健康そうな肌色に筋肉のある引き締まった体はスポーツマンそのもの。相手ゴールエリア最深部から猛ダッシュでここまで戻った彼女は息一つ乱していない。無駄な動きを排除する元気と違って単に体力バカなのだ。
「今度こそ行かせないから!」
元気とるいの視線が交わる。口を真一文字に閉じたるいの顔を見た元気は鼻で笑った。二人の身長は同じくらいだが、体力測定では筋力や体力、反射神経など全てるいが上回っている。
絶対に食らいつく気概で腰を落とするいに、元気は眠たそうな顔で横をチラッと見てから目線をボールに落とした。
その動きでるいは元気のチームメイトが追いついてきたと判断して、目で元気の足下のボールを追う。元気が左足を軸に右足の内側で横に蹴った瞬間、るいはボールより早く横に飛んだ。
分かりやす過ぎるほどの仲間へのパスの動きだった。とっさに右足を伸ばしたるいは、ボールをカットできると思った。しかし、チラッと見たパスの先には誰もいない。
フェイントだった。元気はボールが体を離れる前に軸足にした左でボールを正面に蹴る。ボールは宙に飛んだ。蹴った勢いで前傾になった体はすぐにボールを追える。元気の身体コントロール術だった。
「まだだよっ!」
元気に抜き去られたるいだがすぐに後を追いかける。
持ち前のダッシュ力で隣に並んだるいに、元気は目をパチパチさせた。
るいはボールがキーパーの正面に飛んでいくのを見て、キーパーに指示を出す。
「前に出て! すぐにクリアッ!」
「できるかしら?」
叫んだるいは元気の落ち着いた声を聞いた。
徐々に軌道が沈んでいくボールは、キャッチしようと前に飛び出したキーパーの目の前でバウンドする。
「ああっ!?」
バウンドしたボールは回転を緩めることなく、元気とるいの方に転がってくる。バックスピンだった。
元気とるいは全く同時にボールとの間合いを詰める。元気の左側にいたるいは、ボールめがけてスライディングの体勢に入る。
「させるもんかっ!」
「お願いするわ」
ボールに向かうるいの左足の前に、元気は飛んで自分の左足を差し出した。
「えっ!?」
るいにかかとを蹴飛ばされた元気は、足を滑らせたみたいに前に滑り出る。勢いでるいの上に仰向けに倒れる前に、元気は空いた右足のつま先でボールの底を蹴った。ループシュートだ。
「そんなっ!?」
高く浮かび上がるボールを見てるいは悲痛な声を上げる。
ボールは放物線を描きながら、ゴールに戻ろうとしたキーパーの上を通り過ぎていく。
「うぶっ!」
るいが悲鳴をあげる。ボールを蹴った元気の下敷きになっていた。後ろで聞こえるうめき声をよそに、元気はボールがゴールに入るのを確認してほんのわずか頬を緩めた。
「ゴールッ!! 6ー0! ここで試合終了!」
体育の先生のが大きく笛を鳴らす
「ダブルハットトリックだっ!」
見学者達から拍手と歓声が巻き起こる。この試合の全ての得点を叩き出した元気への称賛は興奮の輪となって広がっていく。
「うう……げ、元気ちゃん?」
体に受けた衝撃に苦しみながら、るいは恐る恐る元気を見た。「重い」とも「どいて」とも言えないので元気の体にそっと触れるだけだ。
元気はゆっくりと立ち上がって髪を掻き上げた。それからるいを見下ろす。るいは体をビクッと震わせた。元気に対してすっかり召し使い根性が染みついているため、自分がクッションになりきれなくてどこか怪我をさせたのかと心配する。
「ど、どこも痛くない?
」
そんなるいを元気はクスッと笑うと手を差し出した。
「ありがとう。助かったわ」
「あ〜あ、また止められなかった……」
手を取って立ち上がったるいはしょんぼりする。
「元気〜!」
元気のチームメイトがやってきて元気に飛びついた。
「すごーい!」
「上手すぎだって!」
「もう愛してるっ!」
それぞれに手を握られたり、抱きつかれたり、感極まって泣かれたり……この時ばかりは元気も過剰なスキンシップを受け入れる。
それを見て、るいのチームメイトや見学していた者までが元気に駆け寄っていく。
るいは輪の中から追い出されてしまった。
肩を落としたるいは足取りも弱々しい。
この試合、最後まで元気をマークしたのはるいだった。毎回、最後に抜かれてゴールを決められてしまう。6連敗だ。るいの完全敗北に他ならない。
「るいっ!」
落ち込んだるいを心配した友達の少女が声をかける。
「純」
朗らかなセミロングの少女は落ち込むるいに笑顔を向けた。この試合を見ていた彼女も元気を応援していた一人だ。
「背中、土がついてるよ」
純はるいの背中の土を手で払っていく。中学からの親友が落ち込んでいるのを放っておけない。そう感じていた。
るいは背中をはたかれながら首だけで振り返って、皆の輪の中心にいる元気を見た。
体操着はキレイなままだし、汗もほとんどかかず、息切れもない。
るいは額の汗を手で拭う。体力も筋力も運動神経も自分の方が上なのに、元気に及ばなかった。その差が何かは分かっている。元気は身体コントロールが上手い。そして洞察力が高いから動きを見切られてまう。
「いいようにあしらわれちゃった」
見るからに落ち込むるいに、純は気にしちゃダメだよと声をかける。
「だって元気ちゃんだもん」
るいは大きなため息を吐く。
入学してまだ三週間しか経たないのに、その言葉で納得できるだけの説得力を元気は持っていた。
元気は「鶴ヶ島公女」と呼ばれる地元の有名人だ。父親は鶴ヶ島の旧家の生まれで有名な作家。母親は元オリンピック選手で、今は売れっ子のデザイナーとして事務所を開いている。文武が合わさった二人の間に生まれた元気は、中学時代に陸上の全国大会で優勝し、読書感想文で総理大臣賞を、全国模試で一位も取っている。容姿の美しさと育ちの良さと類希な能力。天に愛された少女は鶴ヶ島高校に入学してからというもの、学年問わず学校中の人気者だ。生徒の多くが元気とお近づきになりたいと思っている。
けれど本人は部活動をやらず、放課後もまっすぐ帰ってバイトに行くので、生徒の多くは昼食の誘いにチャンスを見出すしかなかった。元気は愛想が良いわけではないが、社交的なので友好的な誘いは断らない。仲の良い友達とはバイトのない日や休日に遊ぶので、昼食はそれ以外の人と一緒にとる。とは言え、男女問わずあまりに応募者が多くて、2〜3人まとめて食事をしても一年以上先が埋まっている状況だ。
この日はるいと純の番だった。
四時間目の体育の授業が終わり、紺のブレザーの制服に着替えたるいと純は、元気のいる1年A組の教室に向かった。二人はB組なのですぐ隣だ。
教室の一番前の窓際の席に座る元気を二人は発見する。
元気の周りには四人の少年達が集まっていた。
「あ、四騎士だね」
純がるいに耳打ちする。元気の小学校からの友人達だ。
「本当だ」
彼らが元気を追いかけてこの学校に来たというのは、るいの耳にも入っている。
四人と話す元気の表情はいつもより柔らかくて、割って入るのが躊躇われた。るいと純は教室の入り口で立ち尽くしてしまう。
「おう、元気。バイトどうだ? 慣れたか?」
日焼けが健康的な快活な少年が元気に尋ねた。
馴れ馴れしい口調に元気は嫌な顔ひとつせず、机に頬杖ついたまま薄笑いを浮かべる。
「退屈だわ、快人」
「へ〜そういえば、そのバイトってどんな仕事があるんだい?」
もう一人の優男風の少年の質問に、元気は少し考え込む。
「店内を掃除したり、商品を補充したり、揚げ物を揚げたり、レジ会計したり、お客さんの質問に答えたり……してるわね」
「え? 元気が!?」
「私じゃないわ、優人。相方の子よ」
元気が答えると、四人とも顔を引きつらせて固まった。
「そっか……それで元気ちゃんは?」
気を取り直して優人が聞き直す。
「レジでお会計をしてるわ」
「あれだろう? バーコード読み取り、袋詰めをし、箸やストローといった用度品をつけるのだったな」
目が前髪で隠れた少年が言うと元気は頷く。
「お客さんがね」
またしても四人は言葉を失う。ここまでの元気の受け答えでどんな勤務態度か想像がついた。
「そ、それにしても元気ちゃんがアルバイトだなんて意外だよね」
髪を後ろで結いだ小柄な少年の発言に元気は表情を曇らせる。
「私もアルバイトするつもりなかったのよね……あ、来たみたいだわ」
元気はるいと純に気がついて手を振った。
少年達は気を遣って元気から離れる。
それを見て、るいと純ははいそいそと近づいていく。
「元気ちゃんお待たせっ!」
二人はそれぞれ机を借りて元気の机にくっつけ、顔を向き合わせる。
準備が終われば、お弁当を広げて昼食タイムだ。
「わ〜元気ちゃんのお弁当美味しそう! お母さんが作ったの?」
元気の二段重ねの円形の小型弁当は、玄米と春の山菜、魚、豆などが見栄えよく盛りつけられていた。栄養バランスを考えて厳選した素材は当然ながら、色合いまで計算づくされている。このセンスはまるでプロの料理人のようだ。
「ええ。ママが毎日作ってくれているわ。日本全国から新鮮な食材を取り寄せるぐらいこだわってるのよ」
「え? 玄米だなんて健康的すぎるよ! すごーい! いいなぁ」
純は自分のハンバーグ弁当と元気のお弁当を見比べて体をくねらせた。純の弁当は装飾に凝ってないので、元気の華やかなお弁当と比べると味気なく映る。
「あなたのだってお母さんが作ってくれたんでしょ?」
元気は半開きの目を純に向けた。
「そうだけど、元気ちゃんのに敵わないからさぁ」
「稀少さや派手さなんて価値はないわ。親の料理はずっと食べられるわけじゃない。あなたのためだけに作ってくれた料理は他とは比べられないでしょう?」
無愛想な元気の言葉に純は俯いてシュンと黙り込んでしまう。
「でも」
すると元気は自分のお弁当のおかずの入った器を手に持って純に差し出した。
顔を上げた純は驚いて声を詰まらせる。
「せっかくだからママの料理を自慢するわ。美味しいからぜひ味見してちょうだい。そしてあなたのも私に自慢して」
口元を綻ばせる元気を見た純の顔はみるみる明るくなっていく。
「うん!」
目の前でお弁当のおかずを交換する二人を見てるいは微笑んだ。
元気が男女問わずに好かれるのは、生い立ちや能力、容姿だけじゃない。こんな風にしっかりとした芯があるからだ。純だって入学してすぐ元気のファンになってしまった。
「元気ちゃん、純、ボクのも良かったら食べてっ!」
親友の嬉しそうな顔を見て自分も嬉しくなったるいは、サンドイッチやおにぎりを差し出した。
元気と純はそれを一瞥すると、何も見なかったように目線を切る。
「ん? たくさんあるから大丈夫だよ」
二人の動作を見たるいは遠慮しているのだと思った。るいの家は貧しくて生活が厳しい。食事は慎ましやかな量で、育ち盛りのるいはいつもお腹を空かしていた。なので自分のごはんを人にあげる余裕はないし、どちらかと言えば周りに恵んでもらっていた。
けれど、コンビニでアルバイトを始めてからは、食料確保の手段を得てひもじい思いをしなくなった。憧れのおかずのとりかえっこもできる。友達にお裾分けするのは友情の証だ。
るいは元気の手を掴むと、手に持っていたおにぎりを握らせる。
「えへへ。食べて」
元気は眉間に皺を寄せた。目線をおにぎりに落とすと、パッケージにある消費期限を確認する。三日前に切れていた。分かっていた事だった。
るいはキラキラした目で元気を見つめている。
「ちょ、ちょっと……」
見ていられなくて身を乗り出した純を元気は手で制した。るいの手元にある山のようなパッケージ入りのおにぎりやサンドイッチ、パックジュースを見て元気はため息を漏らす。それらは全て消費期限切れだ。
元気は貰ったおにぎりのパッケージを剥がしていく。コンビニでアルバイトを開始して初めてこんな包装があるのだと知った。簡易包装の手巻きおにぎりは別だが、おにぎりは海苔と米の間が透明なビニールで仕切られている。おまけに開封口を引っ張るだけでスルスル開けられる。パリパリの海苔を食べられるのは、手作りでも再現するのは難しい。海苔一つに妥協せずに追求するのだ。一つ一つの技術力の高さと競争は、さすが時代の最先端を行っているだけある。
ただし、さすがに消費期限を大きく過ぎたおにぎりをケアする技術は施されていない。
「るい、口を開けなさい」
召使い根性が染み付いたるいは、言われるがままに口を大きく開ける。すぐに以前バイト先で牛乳を鼻に突っ込まれたことが頭を過って身構えるが、もう遅い。
元気は流れるようなスムーズさで手首だけを動かして、るいの口の中におにぎりを勢い良く放り投げ込んだ。
「あうっ!?」
歯と舌を通り過ぎて喉に当たった強烈な衝撃に、るいは苦悶の声をあげる。
体を丸めて口を抑える姿を尻目に、元気は純に向き直る。
「私そう言えば、アルバイトの面接の日に消費期限切れ数日後の冷やしうどんを食べさせられる所だったわ」
「え? そうなの? 廃棄ってどれくらい大丈夫なのかな?」
コンビニで廃棄食品と呼ばれるものは、消費期限切れ二時間前に下げる。安全のために日取りに余裕を持たせているが、安全かどうかは食品によりけりで、本人の体質も大きく影響する。
安全で健康に良くて美味しい食材だけを与えられて来た元気は、言ってみればコンビニスタッフとしてはシロウトで、耐性がほとんどない。食べればお腹を壊すのは目に見えている。
「二人とも同じコンビニで働いてるんだよね? いいなぁ。私今度行っても良い?」
純の問いかけに元気は周りの気配を感知しながら、慎重に頷いて見せる。元気は信頼できる取り巻きの四騎士にしかアルバイト先を教えていない。他の生徒にアルバイト先まで追いかけられるのを避けるためだ。るいの口の軽さに釘を刺しておく必要を感じて、泣きながら口をもぐもぐ動かするいを見た。
「ひどいよ……元気ちゃん」
るいは鼻水を垂らしながら泣いている。先日の牛乳を鼻に突っ込まれたことも重なって、元気に対する防御力は落ちていた。
「鼻から出てるじゃないの」
元気はポケットからフェルトケースに入ったティッシュを取り出し、るいの鼻をかんであげる。
「ほら、しっかり出しなさい」
「う、うん」
二人の様子を見て今度は純が微笑む。
「元気ちゃん優しい。るいは一緒に働けていいなぁ」
るいは激しく首を振るので、鼻が元気の手からすり抜けてしまう。
「動かないの」
元気はすかさず鼻を掴んでキツく握りしめる。
「痛い! 鼻かめないよ!」
るいは耐えかねて手をジタバタさせる。この間も口だけはもぐもぐ動かしていた。
突然、元気の携帯電話が震える。元気はティッシュを丸めて、携帯電話を取り出す。メールの内容を見て、同じように携帯電話でメールを確認したるいと目を合わせた。
「努からだわ」
「店長からだ」
メールは二人宛に送られて来たものだった。
放課後、校門の前でゾンビみたいにやつれた顔の努に元気とるいは出迎えられる。
帰路につく他の生徒は努に不審な目を向けながら、避けて自転車で通り過ぎて行く。
警察か自衛隊を呼ばれなかった努の幸運に元気は軽い感動を覚えた。
ホラー映画のプロローグの感染拡大シーンみたいにるいは感じた。
「おお! 二人とも来たか! 急ぐぞ、時間がないんだ」
切羽詰まっている努をるいはきょとんとした顔で見た。
元気は努の隣にある自転車に視線を向ける。
「ねぇ、努」
元気は眠たそうな顔で努を呼んだ。消費期限を大きく過ぎた冷やしうどんを食べさせられそうになってから、敬称で呼ぶ気は失われている。
「何だ?」
努は身を乗り出した。
「迎えに来るって言ってたけど、それで来たわけ?」
元気は努の自転車を指差した。
「ああ、そうだよ」
躊躇なく頷く努に元気は下唇を噛んだ。
生徒は基本的に自転車通いだが、元気はいつも父親の車で送り迎えだ。先ほど努からのメールで、「今日は二人ともシフト入ってるけど、重要な身体測定と性格診断をやらないといけない。シフトはパートの方が延長してくれたから急いでエリア営業所に行こう。俺が迎えに行くから校門で待っててくれ」とあったので、元気もるいも努が車で来ると思っていた。だから元気は父親に迎えにこなくていいと連絡したのだ。
年季の入った自転車を見て固まっている二人に、努は急ぐように煽る。
「るいは自転車だろ? 早く取って来こい! 元気! 後ろに乗れ!」
そう言って自転車に跨がった努は、後ろの荷台を親指で指した。
元気の肩が小刻みに震える。
「おい、急げって!」
元気のいつもの眠たそうな顔が引き締まり、半開きの目が完全に開かれる。
「まじで時間ないんだって!」
二人のとんでもない仕事ぶりを見て、丁寧語を使わなくなった努の決断が元気の怒りを加速させて行く。
「私、自転車に乗った事ないし、ましてや荷台に乗らされた事なんてないの!」
両親に大事に育てられ、周りに大切にされた鶴ヶ島公女な元気からすれば、努のは侮辱に等しい言動だった。
「何だって!? 乗ったこと無くても乗れって! あ……えっと……」
唇をすぼめてまっすぐ自分を見る元気を見て、努は言葉が続かなかった。
頬が微かに紅潮し、目が潤んでる様はまるで今にも泣きそうではないか。
俺はプライドを傷つけてしまったのか?
「じゃ、じゃあどうしろって言うんだよ?」
「タクシーを呼んでよ!」
言われるままに自転車を取って戻って来たるいが見たのは、そっぽを向いた元気と、彼女のオーダーメイドの高級革の手提げ鞄を代わりに持って傍に控えている努の姿だった。努はバツが悪そうに頭を掻きながら、元気に何か声をかけている。
「あーあ」
聞かずとも状況を察したるいは、自分達のお姫様の気難しさに苦笑いを浮かべた。