序章
「え?」
平均的な大きさのフレンズ鶴ヶ島駅前店のドアをくぐった中年男性は、いきなり飛び込んで来た目の前の光景に自分の目を疑った。
スタッフの少女がイスに座ってレジカウンターに突っ伏しているのだ。
おまけに彼女の前には「レジ休止中」の看板が置いてある。
黒リボンのカチューシャをつけた長髪の少女は微動だにしない。
恐る恐る近づくと、微かな寝息が聞こえて来た。
「バカな!」
日曜日の昼間で、この店が駅前の立地的に来客が少ないとは言っても、寝ていいはずがない。
挽き立てコーヒーを注文しようとした男性客は、困ったように眉を顰めた。
「こんなことが……?」
男性客はこの店に入るのは初めてだったが抵抗は一切無かった。基本的にコンビニに長居なんてしない。欲しいものだけ買って一分くらいで出る。コンビニは置いてある商品も働くスタッフもどこも同じだ。ある程度クオリティが担保された商品とマニュアル通りの接客をしてくれるスタッフ以上のことは求めていない。
しょせんコンビニ。誰だって働く事が出来る簡単な仕事だ。
コンビニにドライなイメージを持っていた男性客は、それでもこの事態を予想できなかった。
「くそっ」
男性客は寝ている少女を叩き起こそうかと頭に思い浮かべる。
だが、目の前で寝ている少女には触れてはいけないオーラのようなものが感じられた。
男性客は店内を見渡す。コンビニの勤務は深夜を除けば基本二人体制なので、もう一人スタッフがいるはずだった。
すぐにダスターモップを片手に持つショートカットの少女の背中が見えた。
黒地にオレンジのストライプが入ったフレンズの制服を着ていることからスタッフで間違いない。
「おい、君! アイスコーヒーのMサイズが欲しいんだが。え!?」
呼ばれて振り返った少女を見て男性客は目を丸くする。
あどけない顔の少女は紙パックの牛乳を持ってストローで飲んでいた。
「あ、今いくね」
モップを近くの商品棚に立てかけ、少女はレジにやってくる。
男性客が名札を見ると「明るい」とあった。胸には研修中のバッジがある。新入りだ。
寝ている少女を気にする事なく、るいはもう一つの入り口手前のレジに男性客を誘導する。手には牛乳を持ったままだ。
「お待たせっ!」
るいは棚からMサイズの紙コップを取って満面の笑みで手渡す。
「ちょっとこれって……」
男性は受け取った紙コップに目を落として固まった。
紙コップはホット用で、アイス用は氷が入ったプラスチックのカップだ。
何の迷いもなくるいが手渡したことに男性客は腹が立つ。
ホットかアイスか、サイズはどうするか、普通なら聞くべきじゃないか。
男性客は文句を言おうと、るいを見上げ、「何っ!?」と言葉を詰まらせた。
るいはフライドフードのチキンを頬張り、もぐもぐと口を動かしながら幸せそうに頬を緩めている。
いつの間に? いや、どうして?
男性客の思考が現状の理解に追いつかない。
るいは大きく口を開けて残りの切れ端を放り込み、牛乳を飲んで一息ついた。
その間に男性客の混乱がおさまる。
「な、何で食べているんだ?」
「これ廃棄だから食べて良いんだよ?」
「そうじゃなくてだな!」
「え? なになに?」
るいは身を乗り出して赤ん坊のように無垢な瞳を男性客に向ける。
「くっ!」
男性客の気が削がれた。何だ? 俺が間違っているのか? 細かい事を気にしすぎな器の小さい男なのか? 確かに、こんな10代の娘に怒るのは大人げない。
「分かったよ」
男性客は諦めてサイフから150円を取り出した。
「あ、180円だよ!」
「は? って、何ぃ!?」
るいは今度はコロッケを頬張っていた。
いつの間に!?
驚くべき身のこなし。貪欲な食い気。レジ端のフライドフードが入った保温ショーケースとの往復の早さに男性客は感動すら覚えた。
「いや、そうじゃなくて。これはホットコーヒーだぞ? 間違えてないか?」
フレンズではアイスのMサイズは180円だが、ホットのMサイズは150円だ。
「え?」
るいがまっすぐ男性客を見つめる。
「うっ」
その瞳に困惑の色を見て取って、男性客は仰け反った。
「これアイスだよね? コーヒーマシンでアイスコーヒーのボタンを押せばいいんだよ?」
ニッコリ笑うるいを見て、男性客は全てを悟った。
るいは男性客の注文がアイスコーヒーだと判断した上で、ホット用の紙コップを出していた。コーヒーマシンはアイス用とホット用の豆が分かれていてボタンも違うが、当然ながら高温で抽出されるのは変わらない。アイスコーヒーなら氷で冷やさなければいけない。
るいはアイス用のボタンを押すだけでアイスコーヒーになると勘違いしているのだ。
さすがにこれは大きな間違いなので、男性客はホットの値段分しか払わないと意を決してーー捨てられた子犬のような瞳のるいにーー気がつけば180円を渡してしまった。
「ありがとう! またね!」
「あ、ああ」
レジを立ち去って脇のコーヒーマシンに向かう男性客の背中は哀愁が漂っていた。
男性客は言えなかった。あの無邪気さを見せられてはどうしようもなかった。店長がちゃんと教えてあったのか疑問が頭を過ったが、教えられていたとしても理解してない可能性は高い。この子はバカなのだ。短いやり取りの中でそれを理解した男性客は、本当のバカにバカだと言うのはあまりに罪深い気がして身を退いたわけだ。
男性客は温かいコーヒーを持ちながら店を出る。
暑い日差しを見上げながら、ホットコーヒーなんて欲しくなかったと心底思った。
男性客が店を出て行ってすぐ、レジカウンターの空気が変わる。
さっきまで寝ていた少女が目を覚ましたのだ。
まだ眠たそうな瞼を降ろしている少女を見た多くの人が「深窓の令嬢」を頭に思い浮かべるだろう。無邪気さが愛らしいるいとはまた違うタイプで、彫像のように整った顔に温かさが仄かに灯り、絶妙な塩梅だった。
名札を見ると、「今日元気」とある。驚いたことに本来、ズボンが原則のはずのコンビニ勤務のはずが、スカートを履いていた。彼女もまた高校一年生で、るいと同じ研修中のバッジをつけていた。今この時間は研修中のスタッフしかいないということになる。
「元気ちゃん、おはよう!」
元気の目覚めに気がついたるいは、急いで飲みかけの牛乳を放り出してペットボトルの水をマグカップについで持っていく。寝ていたことを非難するどころか、召使いのような献身さだ。
「おはよう」
「レジ休止中」の看板を取り、マグカップを受け取った元気は優雅な手つきで口に運ぶ。
元気の傍に控えたるいはどこか緊張した面持ちで見守った。
そこに買い物かごを持った若い女性客がレジにやって来る。
女性客は座っている元気を見てレジを利用することに躊躇を見せる。
あまりに堂々と座っている元気はこれが当たり前だと言わんばかり。
「あ、こっちへどうぞ!」
るいは自分が担当するレジに誘導するが、女性客は先に元気の担当するレジの前に買い物かごを置いてしまう。常識に当てはめて自分が間違っていないと自信を取り戻したらしい。ここはあえて元気に接客させようと女性客は強気だった。
「いらっしゃい」
元気は座ったまま、バーコードリーダーを女性客に差し向けた。
女性客はその真意が分からずに固まる。
「スキャンしてくれないと」
元気は眠たそうな顔で女性客を見上げる。
ここはコンビニよね?
女性客はあたりを見回してから、目を合わせないように元気の隣に立つるいを見て、元気をもう一度見た。
ヒステリーな傾向がある女性客は元気をキッと睨む。
「ふざけないで! どうして私がスキャンしなきゃいけないのよ!」
店内に女性客の怒声が響き渡る。
「じゃあ、いらないってことね」
元気は短くそう言って買い物かごを取り上げた。
「ま、待ちなさい! どういうこと!?」
女性客が奪われまいと買い物かごを両手で押さえつける。
すると、元気はもう一度バーコードリーダーを差し向けた。
「じゃあ、どうぞ」
その全く悪びれのない態度に女性客がおののく。
「ここは……」
「私はスキャンをお願いしているんだけど?」
もう一度何かを確認しようとした女性客を元気は遮った。
怒りで体を震わせる女性を前に、泰然と座っている元気。
人と人のコミュニケーションは場の空気を読むことである。風向きが自分の背中を押していると判断すれば強気でいけるが、そうでないと身を引くしかない。
「ひっ……」
女性客は悲鳴を漏らす。
元気からは嵐が吹いていた。目に見えない空気の圧力に女性は言葉を失う。
女性客は震える手でバーコードリーダーを受け取り、自分で商品をスキャンしていく。
「1842円ね」
レジ画面に映った代金を元気が読み上げると、女性客は乱暴にサイフからお金を取り出して渡した。通常の倍の大きさはある半円のサイフで開くと一つの円の形になる。内も外もエナメル革の赤一色で、外には官能的な女性のイラストが描かれている。ぱっと見てドギツイ。
元気はサイフに目をやってからお釣りを手渡し、買い物かごの中に袋を入れる。
女性客は買い物かごを引ったくって、逃げ出すようにレジを後にした。年下の少女に気圧された事実は女性客のプライドを傷つけた。一刻も早くここを立ち去ってなかったことにする。それが女性客の精神安定方法だった。
「待って」
買い物袋に詰める時間も惜しくて、商品を両腕で抱えて店を出ようとした女性客は呼ばれて体を硬直させる。
恐る恐る振り返った女性客に元気が初めて微笑む。
「そのサイフはあなたの手作り?」
その一言で女性客の顔から恐怖が消えた。
「よ、よく分かったわね」
「あなたらしさが出てるから」
それは決して褒め言葉ではなく、ヒステリーさがサイフのデザインにも表れているので判断は良し悪しなのだが、女性客は喜んだ様子で元気のもとまで戻る。
「あなた手作りに興味あるの?」
プライドを傷つけられた逆襲の機会を見つけて、女性客はここぞとばかりに攻め込んだ。
「私、革の手芸品を作って販売してるの! すごくいいと思わない? あ、声をかけたんだからそう思ったってことよね? ああ、今度ハンドメイドのイベントがあるから良かったらおいで!」
女性客はバッグからくしゃくしゃになったチラシを取り出して、嬉々としながら元気に手渡した。やり込められた悔しさから自分のすごさを思い知らせたい一心だった。
「分かったわ」
元気は短く答える。言いたい事が伝わっているだけの意味で了承したわけではないが、女性客は何度も頷く。
「そうだ! あなたみたいに可愛い子が使ってくれれば宣伝になるからプレゼントするね!」
自分の作品を身につけさせることが勝利に違いないと思い、良いモデルを見つけた満足感で女性客は嬉しそうに帰っていく。
女性客がいなくなって、元気はレジカウンターの下に置いておいた文庫本の続きを読み進める。コンビニに限らず勝手に自己完結する人は珍しくない。元気は何事もなかったように意に介さない。
様子を見ていたるいはホッと一息ついて、牛乳を片手に掃除に戻っていく。
これが春からバイトを始めてまだ一ヶ月経たない元気とるいの普段通りの接客だった。
店の入り口ドアが開く。
マスクをつけた金髪の少女が駆け込んで来た。少女は赤いコンビニの制服を着ていた。ユートピアという駅ナカコンビニのものだ。胸のネームプレートには「広島子」とある。鶴ヶ島駅の売店もとい、「ユートピア鶴ヶ島駅店」で働くただ一人のスタッフだ。一応肩書きは店長になっている。左遷されて来て売店を押しつけられたのが実態である。
「あ、元気! アイスコーヒーくれッス。店を抜け出してきたから早く欲しいッス!」
まっすぐレジに向かった島子は元気を急かした。
元気は来客に文庫本から顔を上げて、座ったまま後ろの棚に手を伸ばして紙コップを取って差し出す。
「Sサイズでいいかしら?」
島子は首を横に激しく振った。
「アイスコーヒーッス! これはホットッス!」
「これにアイスコーヒーを入れればいいじゃない」
何でも無い事のように言って退けた元気に島子は身を乗り出した。
「お客さんを待たせてるッス! お客さんが飲みたがってるッス! アイスカップを取るのめんどくさがらないで欲しいッス」
その通り。元気は立ち上がってアイスカップを取るのがめんどくさいだけだ。店内の冷凍ケースにもアイスカップはあるのだが、元気はいつもレジから離れないので店内を熟知しておらず、この金髪の少女も店内を見回る余裕が無い。
「うちは挽き立てコーヒー置いてないッス。ここでしか買えないッス。お客さんに頼まれてるから急いで戻らないと怒られるッス」
コンビニの店員に他のコンビニにお使いを頼むお客もお客だが、それを引き受ける店員も店員だ。
「島子」
元気はゆっくりと島子に、本来ホットコーヒーを入れるはず紙コップを握らせる。
「私はこれしか売る気がないわ。これにアイスコーヒーを入れれば誰が何と言ってもアイスコーヒーよ」
最早、暴論だった。
元気もるいも認識は違えど、アイスコーヒーをホットコーヒーでしか売ってくれない。
「お客さん待たせてるんでしょ? お店にはあなたしかいないんだし、急いだ方がいいわよ」
島子は言葉を失って大きく目を見開く。この町にやってきてまだ一ヶ月も経ってないが、この元気という少女が一度言い出したことは変えないのを知っている。お客に煽られて、元気に言いくるめられて、余裕が無い島子は冷静な判断が出来ずに受け入れた。
これで分かってもらうしかないッス。
島子は自分にそう言い聞かせる。
「ほら、100円ちょうだい」
涙を浮かべる島子にお金を要求する元気の姿はまるでかつあげだ。
「うう……」
島子は元気に代金を渡し、急いでコーヒーマシンでアイスコーヒーを入れる。注がれたコーヒーは温かいままだ。島子はそこは諦めて早く戻る事だけを考える。
あのおばちゃんは怖いッス。
「ちょっとあんた! いつまで待たせるのよ!」
その時、店内に声を響かせながらおばちゃんが店に入って来た。ドスの利いた声色に島子は危うくコーヒーを落としかける。
「も、申し訳ないッス! こちらがアイスコーヒーッス!」
島子は慌ててコーヒーを渡すが、湯気が立ち上るコーヒーを見たおばちゃんは勢いよく払いのけた。
「ああっ!」
島子の手からコーヒーが滑り落ちて床にぶちまけられる。
「あたしゃあ、アイスコーヒーを頼んだのよ!?」
「ち、ちゃんとアイスコーヒーを入れてるッス」
「バカにしないでよ! これのどこが冷たいコーヒーなの!? 早く入れ直して来なさい!」
島子は振り返って元気を見た。元気は文庫本に視線を落としていて、こちらを見向きもしない。
「こ、これしかないッス!」
「だったらいらないわよ! あんた使えないわね!」
おばちゃんは見向きもせず、ノッシノッシと重量音を響かせながら店を出て行った。
「そ、そんな……」
遠ざかるおばちゃんの背中を見る島子は涙ぐんでいる。
「はい、これ」
振り返った島子はモップを差し出するいを見た。自分で掃除しろということだ。
慰めるでも励ますでもなく、自分はお客なのに「代わりをお持ちします」も「掃除は任せて下さい」も言わない。
島子は諦めてうな垂れながらモップを受け取った。
「鶴ヶ島、怖いッス」
かと言って今さら他に行くあてはない。島子は涙で濁る視界の中で、せっせとモップで床をこすった。
「今戻った! お店大丈夫だったか?」
店の入り口から口調に覇気はあるが顔が青白くやつれた青年が入って来る。
胸には店長の肩書きと「努」の名前が入ったネームプレートをつけていた。
先ほどまで店長会議に出かけていた努は、レジで本を読む元気と廃棄のプリンに夢中なるいを見つめ、大きく頷いた。
「平常運転か」
そんなことを呟きながら努は事務所に向かった。
コンビニは働くのが大変な職場だ。
曰く、コンビニ戦争。スタッフも客も混沌とした、まさしく戦国時代。
コンビニ業務の一寸先は闇ばかりだ。
マニュアル通りに対応できることなんて全体のごくわずかしかない。
求められるのは人間力。個の力。だとすれば、先の元気、るい、島子を見て、強さを見比べることができる。
コンビニスタッフとしての正解はさておき、個の強さは生き残る大きな要因だ。
このフレンズ鶴ヶ島駅前店。
仕事ができないるいと、やる気がなさそうな元気。
二人の新人がこれからどう成長していくのか楽しみである。