今のは忘れるから約束は忘れないで下さいね
梅雨の中休みなのかもう末期なのか。マンションの下では紫陽花が太陽の陽を浴びて気持ちよさそうにしている。
そんな朝、開け放れたドアの向こうから重低音の唸り声が聞こえてきてまるでこの世のモノではない者が現れそうで。
恐る恐るドアの隙間に近づいてみる。
「黒木さん、どうしたんですか? 魔物の唸り声が聞こえますが」
「ううう……」
いきなり目の前に赤墨色の物体が現れた。
「髪伸びた」
「野比のび太ですか? すいません。そう言えばグラデーションになってますね。少し前から気になっていましたが」
「やっぱり気になってたんだ」
「はい、一応ですが」
オヤジギャグとも取られかねない事を言うと訴えられそうな目で睨まれてしまった。
確かに少し前からプリンまでとは行かないが髪の毛が伸びた部分が少し黒ぽくなりあれが地毛なのかなと思ってはいた。
「カラーリングしていたんですね」
「うん、転校してくる前に染めたの。そろそろ切ろうかなって」
「良いんじゃないですか。蒸し暑くなってきましたからね」
何故か黒木さんはテンションが低いまま自室に戻りそのまま学校に行ってしまった。
僕も午前中の講義を受けるために少ししてからマンションを出た。
金曜日は午前中に講義に出て午後からは仕事を入れている。
ランチタイム後に出勤してランチの後片付けと夜の準備をしてからカウンターに向かう。
ほぼ満席状態で落ち着いてきたのでグラスを拭きあげているとノスタルジックを感じさせるようなドアベルが鳴った。
「いらっしゃ……いませ」
顔を上げてドアの方を見てから時計を見ると19時前を指している。この時間には珍しい制服姿の女の子が2人ドアの所に立っていて。
1人は俯き加減で1人はキョロキョロしている。
「こちらへどうぞ」
カウンターから声を掛けるとキョロキョロしていた女の子の表情が明るくなりカウンター傍のテーブルに俯いている女の子の手を引いて席についた。
他のスタッフが直ぐにハンディーになっているスマホを操作しながら対応してオーダーを取っている。
するとカウンター裏にあるプリンターからテーブル番号とアイスコーヒー・2とプリントアウトされた伝票が出てきた。
一拍置いてからハンディーに打ち込みキッチンに流しドリンクを作り始める。
大きめのタンブラーにロックアイスを入れて牛乳を注ぎ少量のガムシロップで甘みをつけてからバースプーンを使って濃い目のアイスコーヒーを静かに注ぐと綺麗な2層になった。
ホールスタッフに合図すると出来上がったドリンクをカウンターに取りに来たのでテーブルナンバーを告げ伝票はカウンターに持ってくるように指示を出した。
制服姿の女の子のテーブルにドリンクが運ばれると驚いた顔をしている。
少しするとキッチンから店自慢のふわふわパンケーキにベリーとホイップクリームがトッピングされたプレートが再び制服姿の女の子のテーブルに運ばれスタッフが何かを告げ驚いた顔をしてこちらを見ているので笑顔で応えた。
しばらくするとウインドーの外で待っているお客さんが現れゆっくりと出勤してきた沙和がカウンター内にやって来てカウンターにある伝票を見てテーブルを確認している。
「嫌というほど釘を差したのに高校生をナンパとは良い度胸しているな」
「天地神明に誓ってナンパなんかしていません」
数組が帰り待っていたお客さんをホールスタッフが案内しているがカップルが一組まだ待っているようだ。
ホールスタッフを呼び少しだけドリンクが残っている制服姿の女の子にカウンターに移動してもらえるように指示を出す。
「深月さん、パンケーキご馳走様でした。驚いちゃいました」
「百田さんはここをどうやって」
「えへへ、蒼空が教えてくれたパスタ屋さんの名前と深月さんが働いているお店のオーナーさんが経営していると言うことから推理しました。でも、前からこのお店が気になっていたということも有ります」
制服姿の女の子の1人はいつも元気な百田さんで。もう一人はと言えば黒木さん以外ありえないが俯いたままで顔を上げようとしない。
「ええっと、ですね。蒼空が髪を切りたいって言うから私がいつも行っている美容室に連れて行ったらカラーリングするか短く切るしか無いって言われてしまいまして」
「思った以上に短くなって凹んでいると言うことですか」
「はい、それで深月さんの所に行こうって強引に連れてきたんですけど」
百田さんが気を使っているのがよく分かる。
それは親友としてというより女同士だからだろう。
「それと深月さんとても素敵です。似合ってますね」
「ありがとうございます」
Re-BARの制服は基本的にギャルソンの格好になっている。
ホールスタッフは白いシャツに蝶ネクタイか普通の黒ネクタイで。黒ズボンか黒いスカートにサロン(黒エプロン)が長いタイプと短めのタイプが2種類用意されていて自由に組み合わせることが出来る。
ベストも渡されているが着なくても構わない。
正規のスタッフは白シャツに黒革のネクタイになっていて黒いベストを着て黒ズボンに長いサロンになっている。
髪色やヘアースタイルにも決まりはなくピアスも自由になっているが時計やブレスそれ結婚指輪以外の指輪はNGになっていて飲食店なので清潔感を第一に考え。
ネイルアートも控えめにと口頭で伝えてある。
「一応、紹介しておきます。彼女は京立大学附属の2年の百田結衣さんと黒木蒼空さんで黒木さんが僕の隣人です」
「はじめまして、オーナーの天ヶ崎沙和です。真白とは従姉弟にあたるのだけど保護者って感じかな。よろしくね」
二重人格かと思うほど沙和は朗らかに話しかけている。
別のスタッフに呼ばれ向かうとクラッシュアイスが無くなってしまいオーダーのドリンクが作れないらしい。
キッチンに行って作ってくるように言うとスタッフが直ぐにキッチンに向かう。
基本、クラッシュアイスはビニール袋に作って製氷機の片隅に入れてあり作り置きにしてある。
アイスクラッシャーはかなりの音が出るためとドリンクを早めに出すためだ。
オーダーを見ると2杯分だけなのでこの場で作ったほうが早いと判断し。
アームタオルやトーションタオルなどと呼ばれている真っ白い布でロックアイスを包み込み掌の上に乗せてアイスピックのヘッドの金属部分で叩く。
すると百田さんと黒木さんと話している沙和の声が聞こえてきた。
「へぇ、蒼空さんって言うんだ。真白には全くって言うほど女っ気がないから宜しくね。でも凄くボーイッシュで凛々しい顔をしているわね」
「そ、そうですか。ありがと……」
黒木さんの言葉が尻すぼみになっていき氷を掴んでいた手に思わず力が入り甲高い音とともに氷が砕けた。
カウンターに置いてあるグラスの上でトーションタオルを開くとクラッシュされた氷が心地良い音を立てながら落ちていく。
アイスピックで砕くのが面倒になりタオルで2個のロックアイスを包み込んでグラスの上で力任せに氷を砕くとカウンターの近くのテーブル席から歓声が上がる。
どうやら何かのショーだと思っているらしい。
横を伺うと百田さんは音が鳴らないように拍手していて黒木さんは目を真ん丸にし、沙和は顔を少し引き攣らせている。
しばらくして沙和に『高校生はそろそろ』と声を掛けられ百田さんは嬉しそうに手を振って。黒木さんは意気消沈して帰ってしまった。
店が終わり沙和に何を怒っているのか聞かれ。
黒木さんが美容院に行ってきた事と次第を話すと沙和が腕組みをして押し黙ってしまった。
「ボーイッシュまでは許せるが凛々しいは流石にまずいのでは」
「私はクールだと褒めたつもりなんだが女心は難しいな」
「女の沙和がそれを言いますか」
「それじゃ真白が慰めてやれば良いだろうが」
沙和だけには絶対に言われたくない事を言われて顔が引き攣っているのが自分でも分かる。
「散々、嫌って言うほど釘を差してきたのは誰なんですか?」
「わ、分かったから。きちんと謝るから非番の時にでも連れ来い」
一頻り沙和には文句を言ったが今日ほどマンションに帰るのが億劫になる。考えても答えなんか出ないのだから。
マンションのドアを開けると明かりが漏れてきてリビングダイニングに黒木さんが居ることが伺える。
ゆっくり中に入るとテーブルの前で女の子座りをして項垂れているようだ。重たい空気を振り払うかのようにバッグを置いてキッチンに入った。
「黒木さんもコーヒー飲みますか?」
「うん」
今にも消えそうな返事が微かに聞こえる。
フレンチバニラシュープリームのフレーバーコーヒーを落とし始めると上品なバニラの香りが立ち込め始めた。
いつもの様に黒木さんにはカフェオレにし僕は少しだけクリームを入れ。数滴だけブランデーを垂らし香りづけする。
「ここに置きますよ」
返事がないのでローソファーに座りマグカップをテーブルの上に置く。
「髪を切りすぎて落ち込んでいるんですか?」
「それもあるけど深月さんの従姉に凛々しいって」
「そのことに関しては僕からも謝ります。それと沙和にはきつく言っておきましたから」
「別に深月さんが悪い訳じゃないし」
かなりの重症のようだ。しかし今まで女の子を慰めたりする経験値すら高くないので困ってしまうというのが本音だ。
「また、少しすれば髪の毛だって伸びてくるでしょ。それに僕はとても似合っていると思いますよ」
「本当にそう思っていますか?」
「僕が黒木さんに嘘をついたことが有りますか?」
「でも、言わない事もあるんでしょ」
確かに言えないことはある。しかし、それは人間ならば誰にでもある事だと思うし黒木さんだって例外ではないと思うのだが。
「冷めてしまいますよ」
「隣に座って良い?」
「仕方がない、今日だけですからね」
少しだけ笑顔になって黒木さんがマグカップを持ってはにかみながら僕の横に座った。
厳密に言えば人一人分空けて。
「あ、美味しい。バニラの香りとお酒ですか?」
「少しだけブランデーを垂らしてみましたがいかがですか?」
「うん、大人の味がするけれど。素敵なハーモニーだと思います」
やっと機嫌が良くなってきたかと思ったのに黒木さんがため息を付いて沙和の言葉を思い出す。女心は難しいか。
僕にとっては究極の難題にしか思えない。
「溜息をつくと幸せが逃げますよ」
「はぁ~」
「何かの嫌がらせですか?」
横を見ると素知らぬ顔をしているが何を考えているのだろう。難解過ぎて僕がため息を付きたくなってきた。
「ショートカットにしたら合う服が」
「そうですね。どちらかと言うとガーリッシュな服が多かったですね」
「深月さんって見ていないようでちゃんと見てくれているんですね」
「見たくなくても目の前に現れるのは誰なんですか?」
今度は溜息ではなくブーイングを上げている。
確かにボーイッシュなショートヘアーだとガーリッシュな服を合わせるのが難しいかもしれない。
活動的なショートパンツなどでは幼く見えてしまう可能性も否定出来ないし最悪の場合は男の子と間違われてしまう可能性すらあるだろう。
「謝ると言ったのは僕ですからその髪型に合う服を買いに行くのに付き合いますよ」
「本当にですか?」
「おかしな日本語になってますよ」
僕の言葉なんて耳に届いていないのだろう。飛び上がるようにしてローソファーの上で正座をして僕の方を向いている。
「いつ行くんですか?」
「明日はシフトが入っていて仕事なので。日曜日でいいですか」
「うん、約束ですよ。絶対ですよ」
「分かりましたから。少し離れて下さい」
感激のあまり僕の両肩を掴んでいるので黒木さんの整った顔が間近にある。
前髪は少し長めでサイドの髪は輪郭に沿うように流れているので小顔が更に引きだっていて。
「えっちぃことする?」
「酔っ払うほどお酒は入って無いはずですよ」
「バレたか」
「「うわぁ」」
黒木さんが元の体勢になろうと身体を動かした時に顔が近づいて来たので仰け反ろうとしてバランスを崩し。
二人してソファーから落ちてしまい唇に柔らかいものを感じると同時に良い匂いが鼻をくすぐる。
「しちゃった」
「はぁ~ 忘れて下さい」
黒木さんがゆっくり離れ頬を薄紅色に染めている。
これを事故だとか言って片付けるのは簡単だがそうすることを何故か躊躇ってしまう自分がいて。
「分かった。今のは忘れるから約束は忘れないで下さいね」
「忘れませんよ」
「どっちを?」
「そんな事を言っていると両方忘れますよ」
おやすみなさいと言いながらあっかんべーをしてドアの向こうに黒木さんが消えていく。
じっとしていると色々なことを考えてしまいそうなので風呂にでも入ろう。
僕達が住んでいる所は乗り換えをすることなく都内まで出ることが出来て公園も多く緑豊かな場所になっていて。
高校や大学が多くそれ故の学園都市で学生に限らず人気がある沿線になっている。
マンションからひと駅先が学園都市の駅があり都内よりのひと駅目にRe-BARが営業していてかなりの時間的余裕が生まれている事は確かだ。
都内まで快速に乗れば20分ほどで着けるのでゆっくり眠れると思っていたのに予想以上に早く黒木さんが起こしに来た。
「僕の部屋に入って来なかったことは褒めますが早くないですか?」
「つい嬉しくて寝れなくて」
黒木さんの『つい』は本当に怖いので確認だけをしておく。
「寝ていないのなら出掛けませんからね」
「ちゃんと寝ました」
「それで今日は何処に行きたいのですか?」
「八ちゃんには会いに行ってるし、竹下さんの所は混んでるし。フクロウさんかな」
因みに八ちゃんはハチ公像で竹下さんは竹下通りの事らしい。それならば学生の街でもあるフクロウに会いに行こう。
あれだけ確認したのに電車に乗り座った瞬間に黒木さんが爆睡し始めてしまい。重くはない重みを肩に感じ電車に揺られている。
「随分と時間がかかりましたね」
「折角のデートなのに合う服がなかなか無くて」
「ただの買い物ですよ。似合ってますよ」
早めに起きたのに黒木さんの支度が思いの外に時間が掛かりコーヒーを落とそうか迷っているとドアが開いた。
生成りのTシャツのようなワンピースを着て萌黄色のスニーカーソックスを履いている。無難といえば無難だろう。
「因みに下にはデニムのショートパンツ穿いています」
「ワンピースは捲り上げるモノではないですよね」
「なんだか感想が薄いな」
「行きますよ」
僕の格好といえば普段と殆ど変わらない。紺色のスニーカーにジーンズを穿き灰青のTシャツに天色のシャツを羽織っている。
一応、青系では統一してみたが代り映えしないだろう。
出かける前にかなりのライフポイントを削られたような気がするな。
そんな事を考えていると乗り換えのターミナル駅に到着寸前になっていた。
「置いていきますよ」
「うわぁ~ イヂワル」
ドアが開いて立ち上がると黒木さんが慌てて飛び起きた。
ムッとして睨みつけているが寝不足気味な黒木さんが悪いんじゃないかと。
「もう、こんな所で置いて行かれたら行方不明美少女になっちゃうじゃない」
「何回も来ているんじゃないのですか?」
「来てるけど。広いしいつも結衣と一緒だから。って美少女はスルーですか」
「確かにJRだけでも16番線あってそれ以外に京王・小田急・東京メトロに都営まで有りますからね」
スルーなんですねなどと拗ねているが環状線に乗り換えかえてフクロウに会いに行く前に買いたい物を聞いておくほうが良いだろう。
都内の電車移動は便利だが時間を有意義に使うためだ。
「今日は何が欲しんですか?」
「特に考えてないけど……深月さんのジーンズって」
「僕はいつもリーバイスですが」
「それじゃ、見に行こう!」
環状線のホームに向かおうとしたので東口に足を向けると文句を言いながら追いかけてきた。
「深月さんはいつからそんなに意地悪になったんですか?」
「僕は最初から優しくないと言ったはずですが」
東口を出て新宿通を明治通りに向かっていると右手にリーバイス新宿店が見えてくる。
「こんなに沢山あるんですね」
「新宿店は国内最大級でリーバイスの全ブランドが取り揃えてありますからね」
「深月さんのはどんなやつなんですか?」
「僕はいつも501のオリジナルですね。履いているうちに良い色になってくるのが好きなんです」
レディースフロアーで黒木さんが溜息を量産している。初めて選ぶのには種類があり過ぎて難しいのと値段との兼ね合いだと思う。
黒木さんにどんな感じのものが欲しいのか聞いてスタッフにチョイスして貰うことにした。
すると直ぐに数点を持ってきてくれ黒木さんが品定めしている。
「気に入ったのがあれば履いてみたほうが良いですよ」
「う、うん」
気乗りしないのか取り敢えず選んでフィッティングルームに入っていきスタッフに見てもらっている。
「どうしたんですか?」
「少し値段が……叔父さんからは服は良い物を着なさいって言われているんだけど。私の中に決め事があって。凄く気に入ったんだけどこれを買うと他のものが」
気乗りしないのではなくて気後れしていたようだ。
確かに高校生にしては高い買い物になるのだろう。僕が失念していたと言うより予算を聞いておくべきだった。
予算を聞くとボトムスには出せて5000円と言っていたがブランドを気にしなければ十分な物が買えると思う。
「仕方がないですね」
「ワン!」
「そうじゃありません。本当に鈍いのか鋭いのか分かりませんね」
僕が手を差し出すと仔犬の様にお手をしてきた。予算を彼女から受け取りスタッフに声を掛けて会計を済ませる。
「本当に良いんですか? 今更ダメと言っても返しませんよ」
「良いんですよ。差額はオーナーに頂きますから。ベルトくらいならプレゼントしますし」
「ベルト?」
リーバイスの深緋色のロゴ入りの紙袋を黒木さんに渡し出入り口まで来て中身を確認している。
そして僕の姿と言うよりジーンズに目をやって上目遣いで何かを訴えていた。
「分かりました。そんな目で見ないで下さい。スタッフに聞いてみなさい」
「うん! 待っててね」
家の中では子猫の様なのだが外に出るとどうやら子犬になるらしい。ブンブンと尻尾を振りながらリーバイスのショップに駆け込んでいった。
「お待たせしました。どうですか?」
背後から声を掛けられ黒木さんの姿を見た瞬間に腰が砕け四つん這いになり項垂れてしまうところだった。
絵文字で言えばガクかオルズと言うやつだろうか。
それほど衝撃的だった。
「黒木さんは何て格好をしているのですか?」
「大きな声では言えないけどブラはしていますよ」
下はストレートのジーンズにスニーカーだから問題ないがトップスに問題があり過ぎた。
ゆったりとしたノースリーブなら問題はないが身体のラインがもろに出るタンクトップを着ていて膨らみが強調されている。
「君は無防備すぎるんです。少しは慎みなさい」
「深月さんに買ってもらったから。つい」
「ついね。これでも着ておきなさい」
どうやら黒木さんはつい暴走してしまうようだ。羽織っていた天色のシャツを脱いで黒木さんに渡すと素直に着て袖を捲っている。
そしてもう一つ気づいたことがあった。
スタンスミスのスニーカーと言えば白地に踵の部分が黒か緑が定番なのだが黒木さんのスタンスミスは白地で踵の部分がピンクになっている。
そして僕のスニーカーも鉄紺色のようなナイトインディゴ一色のスタンスミスだった。
「出来るだけ大人しくします」
「前向きに対処してみてください」
「外では慎ましく。お家では大胆にですね」
「家でも大胆にする必要性は微塵もありませんよ」
今日は知らない間に自分から蟻地獄に飛び込んでしまったらしい。鎌状の大顎に捕らえられてしまう前に何か考えたほうが良いだろう。
フクロウの街に来るといろいろな場所でフクロウに出会える。駅構内の通路や交番までフクロウに模してあったりするからだ。
確かこの街の名の由来になった袋池(丸池)があった場所に小さな見逃してしまいそうな史跡公園があったはずで。そこにもフクロウが居たと思う。
そしてこの街で買い物といえば駅の東西に隣接している百貨店か隣接するファッションビルと。
「シティーに行きたいです」
「まぁ、妥当なチョイスだと思いますね」
最近では百貨店でも若者向けのブランドを取り扱うようになったがシティーの方が若者向けという点では優っていると僕も思う。
因みに黒木さんがジーンズを購入したリーバイスショップの近くにユニクロやジーユーがあったが見事に却下されてしまった。
シティーに向かう為に駅の地下通路を歩いていると人の密度が上がってきて出入り口に向かうエスカレーターには長蛇の列ができている。
「日本人って何であんなにマナーを大切にするのかな?」
「そうですね。外国の方から見てもびっくりするらしいですから。もっと臨機応変にと僕は思いますし。マナーを守るのかルールを守るのかだと思うんですが」
「それってどう言うことなの?」
「エスカレーターでは右側を空けて急ぐ人に譲ると言うのがいつの間にか浸透してしまった暗黙のマナーなのですが。エスカレーターはそもそも歩いたり駆け上がったりしてはいけないものなのです。僕は急ぐのであれば階段を使えと言いたいですね」
鉄道各社などがあの手この手で注意を呼びかけているしエスカレーターの降り口などに必ず注意書きのステッカーなどが貼られている事が多い。
黒木さんには真面目だなんて言われてしまうが日本人は安全に慣れてしまっているのだと思う。
ニュースなどを見ても大きな事故が起きてから意識が変わることが多いのでこの問題も甚大な事が起きなければ変わらないとは思いたくないが。
そんな事を考えていると黒木さんに腕を引っ張られて階段で地上にでると週末ということも有りそこに飛び込むのを躊躇うような人の流れができていた。
「深月さんに一つ確認です。万が一に迷子になった場合はどうしたら良いですか?」
「そうですね。街中なら交番か施設内でしたら案内所で……どうしました?」
いつになく険しい表情でコンクーリートハンマーのブルポイントの様に唇を尖らせ今にもコンクリートを砕きそうな勢いで僕を見ていて。
携帯番号やアドレスを交換していないことに今更ながら気づいたがこの場で交換するような行為は行うべきではないだろう。
「仕方ないですね。手でも繋ぎますか」
「うん!」
僕の提案に黒木さんは差し出した手を掴むのではなく腕に抱きついてきて柔らかいものを感じるが口にだすことが出来ない。
「あの、手を」
「私は誰に見られても気にしないから。それに深月さんだってあんな悪い噂というか誤解を解こうともしなかったんだから人の目なんて気にしないでしょ」
そこまで言われてしまえばぐうの音も出ないと言うか正論過ぎて嫌ですとは言えない。
痛いところを突かれたが立ち止まっていても仕方がないので歩き出す。
60階通りは歩行者天国になっていて献血に始まり旅行会社・漫画喫茶やラーメン屋等のお店の看板を持った看板持ちが立っていて。
至る場所にティシュ配りがいてメイドカフェの店員さんが呼びこみをしていたりする。
道沿いの店舗からは結構な音が鳴り響いていて。それ以上に色々な人種が…… 外国人も多数だがなかでも中国系の人が目立ち。
ゴスロリの格好やアイドルアニメの缶バッチをカバンが見えないくらいに付けている男子と言わず女子も。
日によってはコスプレした人が闊歩している時さえある。
「黒木さんは乙女ロードに何か用事が?」
「あそこに行きたがるのは結衣です。BLに腐女子や同人誌に百合まで網羅してますよ」
女の花園・乙女ロード恐るべしだ。百田さんとのつきあい方を少し考えたほうが良いかもしれない。
ハンズの脇から長いエスカレーターで地下に降り為に取り敢えず列に加わり並ぶことにする。
「深月さんはルールを守る派ですか?」
「そうですね。ルールは遵守したいですね。でも、それ以上に後ろから黒木さんに抱きつかれるなんて事態は極力回避したいです」
「確かに目の前に深月さんの後ろ姿があれば我慢できないかも」
「色々と大変な目に遭いそうなんで横に並んでいるわけです」
駅ではなく色々なお店に行こうとしている人たちが急ぐ必要性はなく無駄に片側だけ空いているエスカレーターが運行されていて僕は黒木さんの横に立っている。
横と言っても一段下なので黒木さんと目線がほぼ一緒になっているが。
「ブルーシールアイスクリームだって」
「沖縄ではメジャーなアイスクリームですね。僕はクッキーでサンドされているポーラベアーが好きですね」
「ふ~ん、そうなんだ」
あまり黒木さんは興味が無いようで動く歩道には乗らずに専門店街の方に歩き出した。
「お昼を先にしますか?」
時間が時間だけに先に黒木さんに聞いてみた。
専門店街の中には日本食・洋食・中華・エスニックにカフェやファーストフードにヒードショップを入れると90店舗ほどあるらしい。
その中には東京の街が眼下に広がるスカイレストランまで含まれチョコレートで有名なゴディバや美味しいパンのメゾンカイザーもある。
「うわぁ、美味しそう」
「そうですね?」
「なぜ疑問形なの?」
黒木さんが選んだのは専門店街の入り口付近のパティオにあるカフェダイニングで。
ふわふわサクサクのドイツ風パンケーキのダッチベイビーパンケーキ専門店らしい。外のショーケースにもスキレットに乗せられ焼かれたパンケーキらしきものがあり。
そして彼女のチョイスがジャーマニーと言う不思議なプレートだった。
ふわサクのパンケーキの上にはイチゴ・ラズベリー・ブルーベリーにカスタードクリームとアイスクリームが乗せられ。
その横にはフライドポテトとそこそこな大きさのウインナーにサラダが盛られマスタードが添えられている。
僕は無難にBLTサンドを注文した。
「パンケーキは縁がサクサクで中はもちもちしてて。ウインナーはパリッとしてジューシーで。パンケーキとサラダも良く合うし。言う事無しです」
「取り敢えず甘いのもしょっぱいのも食べられて女の子は欲張りなんだなと言うことがよく分かりました」
少しだけ味見させてもらったが生地が甘く無いので何にでも合うのだろう。
お腹も満たされ少し運動と言った所だろうか。
専門店街の地下一階は入口付近に飲食店がありその奥は殆どがレディスを扱うお店で女の子が好きそうな雑貨やインテリアの店などで黒木さんが目についたお店に立ち寄りながら周っている。
僕には女の子にアドバイスするほどファッションに長けていないので黒木さんにどっちが良いか聞かれ似合っていると思う方を指差すくらいしか出来ない。
「上には行かなくて良いんですか?」
「深月さんが見たいのなら行くけど。あんまり気になるお店はないし」
「今日は黒木さんが主役ですから僕のことは気にしないでください」
確かに1階は少し大人っぽい感じのお店が多いし2階はギャップやロフトにアメリカンカジュアルやスポーティーなお店もあり3階は飲食街になっていて。
コールド・ストーン・クリーマリーなどのアイスクリーム屋さんもあるがお昼にパンケーキを食べたので甘いものには興味がなさそうだ。
「ポケモンセンターかナンジャタウンにでも行ってみますか?」
「どうしてポケモンセンターなのですか? それにナンジャタウンに行くくらいなら水族館に行きたいです。高校生には敷居が高いというか」
「まぁ、高校生のお小遣いではちょっとと言うやつですね」
「うん」
猛然と抗議してきたのに大人しくなってしまった。
確かに高校生なら水族館に入るより買い物をしたほうが有意義に小遣いを使えるだろう。
まるで海の中にいるような気分にさせてくれるエレベーターで屋上まで上がりドアが開くと目の前に滝のような噴水が見える。
黒木さんを少しだけ待たせてチケットを購入した。
「はい、チケット」
「良いんですか? ジーンズやベルトまで買ってもらったのに」
「良いんですよ」
僕が年間パスポートを持っていて提示すると同伴者が割引料金で入場出来ることを告げると遠慮気味だった表情が明るくなった。
珊瑚礁の海や生命の躍動と名付けられたイワシの大群が回遊している中でゆっくり泳ぐコブダイなどを見ながら進む。
深海に住むタカアシガニがゆっくりと動いている水槽の後ろには大人気の大水槽のラグーンがある。
色とりどりの魚の中を数匹のマダラトビエイが悠然と泳いでいるけど。
大水槽とは言え水量が控えめで小さな方らしいが視覚トリックが使われていて見た目以上に大きく感じるらしい。
「凄く綺麗……」
黒木さんが感動して見惚れているのでここは何も言うべきではないだろう。
しばらく黙っていると黒木さんが気づいたらしい。
「あっ、ごめんなさい。つい」
「言いましたよね。今日は黒木さんが主役だと。それでは参りましょうかお姫様」
「うん!」
一気に表情が明るくなったのに僕の後ろの水槽を見て首を傾げて不思議そうな顔をした。
「ああ、あの上半分が隠されている様な水槽ですか。あそこにはラッコのペアが展示されていたんです。少し前になりますがメスのほうが亡くなってしまい。オスは他の施設に移されたんです・元々、ラッコは繁殖させるために飼育されていたものですからね」
「ふうん、そうだったんだ」
ふわりうむと言うトンネル型の水槽には無数のミズクラゲが浮遊していて黒木さんがスマホで一生懸命に写真を撮っていてトンネルの向こうにも色々なクラゲが展示されていた。
円柱水槽ではカラージェリーフィッシュがライトアップされているし。天井や壁から飛び出している半球状の水槽にも色々なクラゲがゆっくり浮遊している。
マンボウの隣には海の忍者と名付けられたイカを見て階段をあがり上に向かう。
階段ですら手すりが波状になっていたり階段の踊場の天井には七色にひかるリュウグウノツカイがいたりして飽きさせない。
上の階に行くと青い世界から緑の世界に変わりアマゾン川に生息する淡水魚がまるで河の断面を見ているかのように展示され。
東南アジアの水辺やアフリカの川が再現されている。
「す、凄い色のカエル……」
「ヤドクガエルですね。先住民が毒を抽出して吹き矢に塗り毒矢として狩猟をしたのが名前の由来ですね。毒々しい色は警戒色だと言われてます」
「深月さんって詳しんですね」
「僕は水族館が好きですからね。都内の水族館は殆ど行ってますよ。葛西にある水族館は安いですし見どころが沢山あるのでお薦めです」
ここの水族館は爬虫類や両生類の展示にも力を入れていてトカゲや亀もかなりの数を見ることが出来る。
因みにヤドクガエルの仲間には0.1ミリグラムで致死量に至るという自然界最強の猛毒を持ち1匹から取れる量は160人分で触るだけでアウトのカエルもいるらしい。
マングローブの森と言う水槽の先にはアザラシがいて愛嬌を振りまいている。
沖縄やカリブ海にグレートバリアリーフのサンゴ礁を見て日本の清流と名付けられた水槽に向かうと先が明るくなっていて館内は終わりのようだ。
「これなんかどうですか?」
黒木さんがアクアポケットと言うショップで僕に向かってストラップを差し出している。
「何で水族館なのにアリクイなのですか?」
「特に理由は無いけど」
「まぁ、マリンガーデンに行けばいますけど」
「い、いるんだ。アリクイ。そうだ、お互いにストラップを交換しましょ」
そう言い切って黒木さんはストラップを真剣な眼差しで選び始めてしまった。また強引なと思ったが流されておくべきトコロなのだろう。
ショップの中には可愛いぬいぐるみや微妙なぬいぐるみもありチンアナゴのお菓子なども売られている。
僕的には透明骨格標本に惹かれてしまう。
透明骨格標本は薬品で筋肉を透明にしてカルシュウムが主な成分の硬骨は赤紫に軟骨はコンドロイチンに反応して青色に染まっている標本のことだ。
ここにあるのは魚がほとんどだがイカやタツノオトシゴなどがあり大きさも色々で値段もそれなりにする。
部屋に飾ってもいいがシェアーしている黒木さんの気分を害するかもしれないので購入は控えておこう。
マリンガーデンの目玉といえばアクアリングで宙に浮いているかのように設置された大きなドーナツ状の水槽ではアシカが泳ぎ回っていて椰子の木が生えている異空間になっている。
カフェも併設されていてアシカのショーもやっているらしいが時間が合わなかった。
ペンギンビーチには岩場が再現されケープペンギンが沢山いて少し臭うが可愛らしさでフォローと言う所だろうか。
そのペンギンの反対側には水の中ではスッポンモドキが泳ぎ水面にはカモがいてその周りにはアルマジロやワオキツネザルにアルマジロまでいるカオスになっていて。
救いとしてはコツメカワウソが子ども達に大人気だと言う所だろうか。
「どうしてペリカンがいるの?」
「僕に聞かれても困りますね。係員さんに聞いてみてはどうですか?」
「そんな事恥ずかしすぎて出来ません」
何故こんなに大きく成長するのか分からないピラルクーや巨大なナマズを見ると出口になった。
「あっちにエスカレーターがあるので」
「何でエレベーターじゃないんですか? これでさっきの所に降りましょう」
エスカレーターに向かって歩き出そうとすると黒木さんに腕を捕まれエレベーターに引き摺り込まれてしまう。
そして熱帯魚にも負けないようなカラフルな世界に連れてこられている。
「何で逃げ出そうとするんですか?」
「水族館に行く時に黒木さんの目が光ったのを見逃すわけが無いじゃないですか」
「分かっていて逃げ出そうとしたんですね」
「当然です。男としてこの場に長居はしたくありませんから」
理由を伝えたのにも関わらず黒木さんは楽しそうにしている。
「これなんかどうですか?」
「知りませんよ」
「フレアトップとオフショルダーとどっちが深月さんの好みですか? バンドゥも可愛いですよね。私的にはビスチェはあまり好きじゃないんです。高校生にTバックは無理かな」
一刻も早く脱出を試みたいがガッチリと腕をホールドされて思うように動けないでいる。
水族館にと言ったのは僕だが、まさかこんな場所で水着の楽園が開催されていただなんて思いもよらなかった。
「深月さんは泳ぎに行ったりしないんですか?」
「そうですね。能登島と澤井で行くかもしれませんが。あくまでも予定が合えばの話です。去年は確か行かなかったですね」
「夏は何をしていたんですか?」
「仕事とか仕事とかですが。今年も多分同じでしょう」
盛大に却下と言われてしまうが彼女がいれば別の話だがナンパ目的で海やプールに繰り出す大学生は多いと思うが純粋に泳ぎに行く大学生はまずいないだろう。
時間を理由に何とか開放され駅に向かうことになった。
乗り換えをして運良く二人共座れたので電車の揺れに身を任せていると睡魔に襲われてしまい。
降りますよと黒木さんの声が聞こえて降りた駅はマンションの最寄り駅よりひとつ前の駅で。
「お腹がすいたからご飯を食べてから帰りましょ」
「そうですね」
了承をしてみたがこの駅で降りた理由を一応聞いてみたほうが良いのだろうか。
「行きたいお店でもあるんですか?」
「この前、オーナーさんに心配を掛けてしまったし。気を使わせてしまったみたいなので」
「そうですか。オーナーも非番の時に黒木さんを連れて来いと行っていたので行きますか」
「うん!」
黒木さんは腕を組むこともなく後ろに腕を回して上機嫌で歩いている。彼女が行きたいと言うのであれば断る理由もない。
Re-BARの窓から中を伺うと時間が時間だけに店内は混み合っている。
ドアを開けるとカウンターに居た沙和が気づき怪訝そうな顔をしたが目配せしているので奥のテーブルに座った。
「何が良いかな、深月さんのオススメで」
「黒木さんは自分の意志というものが稀薄な気がしますが」
「だってスタッフさんがオススメするものが美味しいと思うけど」
「休みだったのですっかり失念していました」
正規スタッフと言う心構えが稀薄だと言われてしまうがこの店ではオンとオフの境が曖昧なので。
スタッフとしての僕のオススメをチョイスしてみた。
「少し変わってるタコライスとお肉のプレートですか?」
「プレートの方は三枚肉のポークシチューですね。タコライスもプレートもライスは雑穀米になっています」
タコライスは木製のラウンドプレートに雑穀米が盛られその上にタコスミートが乗せられチーズが掛けられ。
グリーンサラダが横に盛られてアボカドのスライスと柔らか目のゆで卵が添えられサルサソースが別に用意されている。
四角いプレートの半分にグリーンサラダが盛られその手前に雑穀米と三枚肉のシチューがスープは日替わりで今日はミネストローネのようだ。
「タコライスも気になるしお肉も」
「取り皿をもらってシェアーしますか」
「賛成!」
取り皿を受け取り黒木さんに渡すと直ぐに取り分け始めた。
「このサルサソースが凄く美味しい」
「基本的に全て手作りで既成品はなるべく使わないようにしていますし。既成品であっても一手間加えています。ポークシチューのデミグラスソースは手間が掛かり過ぎるので既成品ですが沖縄のお味噌を加えて深みを出しています」
「それでこんなに人気があるんだ」
何度も頷きながら黒木さんが食事を味わい楽しんでいる。
少ししてカウンターに目をやると沙和がリザーブの札をカウンターに置いているので食事が済んだら移動しろと言うことなのだろう。
「ふわトロで。んっま!」
黒木さんは沙和が出してくれたチーズタルトに舌鼓を打っていいて僕はブレンドを味わっている。
カウンターに立っている沙和は腕組みをして半眼で2人を見ているというか。
「沙和は悟りでも開くつもりですか」
「どうしてペアルックなんだ。真白」
「偶然の賜物ですよ。黒木さんは出かける時は違う服装ですから。靴が同じだったというのは後で気付きましたが」
「どう見てもカップルにしか見えないが」
「男と女の組み合わせをカップルと言うのでは無いですか? 因みに男と女が一緒に出かけるのをデートとも言いますが疚しいことは皆無です」
反論すればするほど沙和の顔が引き攣っていくのが分かり。
限界が来た時点で沙和は大きく息を付いて肩の力を抜いた。
「蒼空さんが元気になったのならそれで良しとしよう」
「そうだ沙和さんこの間はすいませんでした。落ち込んではいたんだけど深月さんがこの髪型が好きだと言ってくれたから」
「似合っていると言いましたが。好きだとは言っていませんし、そこに僕の嗜好は全く含まれていません」
黒木さんは爆弾を投げ込みたくて仕方がないようだが勘弁して欲しいのが本音だ。
ペアルックに見えるような服をチョイスしたのも偶然ではないだろう。
そんな黒木さんはタンクトップの上に買ったばかりのゆったりとした淡い翡翠色のシャツを着ている。
有意義な言うべきか長い休日が終わろうとしていて。
リビングダイニングでアールグレイレモンと言うフレーバーティーをアイスにして飲んでいる。
「深月さん、いつ行こうか」
「百田さんや友だちを誘って行ってくれば良いんじゃないですか」
「沙和さんだって」
「遊んできなとは言ってましたけどね」
黒木さんの前には数枚のプールの前売りチケットが置かれている。
このチケットは沙和がお詫びの印だと言い黒木さんに贈ったもので僕には主導権はない。
沙和が黒木さんに渡した際に僕が沙和を見ると何かに気づいたようで一瞬だけ身体が強張ったがその理由は他のところにある。
「それじゃ、もう一つだけ」
そう切り出したきり黒木さんは押し黙ってしまいテーブルの上を凝視していて。
その視線の先にはダンゴムシの親玉みたいなダイオウグソクムシのマスコットが付いたストラップが付けられたスマホが。
黒木さんが飲んでいたグラスにはまだ半分以上フレーバーティーが残っていてカランと氷が音を立てた。
「そんなに睨みつけても動きませんよ。黒木さんは超能力者ですか? 緊急を要する時にだけですからね」
「うん!」
ダイオウグソクムシ付きのスマホを手に取りロックを解除して黒木さんに渡すとクラゲのマスコットが付いたスマホを取り出してアドレスの設定をしている。
黒木さんからスマホを受け取りアドレスを見るときちんと登録されていた。
「深月さんは沖縄に住んでいたんですね」
「子どもの頃ですよ。母が沖縄生まれなので毎年とは行きませんが沖縄には何度も言っています」
「1人でですか?」
「基本的に僕は1人でいる事が好きなんです。だからといって集団行動が苦手ということではありませんが好きではないのは確かです」
プールと言い沖縄と言い数々の爆弾を投げ込んだのは沙和で。
全粒粉のパンにポークハンバーグとゴーヤの卵とじをサンドしたバーガーをメニューの中に見つけた黒木さんが沙和に聞いたのが始まりだ。
「沖縄の食材を沢山使っているんですね」
「真白のアイデアでね」
「深月さんは沖縄のことにも詳しんですね」
「沖縄生まれと言っても良いくらいだよ。真白は」
確かに母は生まれ故郷である沖縄で僕を産んだので出身地は沖縄ということになる。
しかし祖父は関西人で僕の父は関東出身なのでクォーターと言えば良いのだろうか。沖縄の濃い目の血はあまり受け継いでいないというのが本当の所だろう。
月曜日に大学に向かうとテロリストも真っ青なくらいの早業で能登島と澤井に両腕をホールドされて連れ去られた。
「深月に尋問したいことがあるのだが」
「尋問とは穏やかではないですね」
能登島の目は真剣そのもので言葉通り冗談ではないのが受け取れる。
「黒木さんというモノがありながらショートヘアーの麗人とデートとは」
「深月君、噂が本当だったなんて落ち。僕は嫌ですよ」
「能登島も澤井も何を言っているんですか。話の続きはランチタイムにしましょう。講義に遅れますよ」
黒木さんとはただの隣人だと釈明しても聞き入れてくれず。午前中の講義は殆どが3人一緒だったが2人の時も能登島か澤井の監視つきで。
スマホを操作しようものなら手首を掴まれて阻止されてしまった。例えそれが天気予報の確認だけでも。
講義が終わりいつもの様にカフェに向かい監視つきで日替わりプレートを美味しく頂き。
耐熱紙を使用したコップに入ったコーヒーを味わっているとそれはやって来た。
「深月さん、おはようございます」
「おはようというかこんにちはではないかと思いますが」
僕の隣に早足で向かってきた黒木さんを見て、僕の前に座っていた能登島と澤井が驚いて立ち上がり椅子が大きな音を立てた。
それ以上にカフェの中がざわついているのは気のせいではないだろう。
「黒木さん、髪が」
「えへへ、バッサリ切っちゃいました」
「ええ、色が……」
「前まではヘアカラーで染めていて。これが地毛なんです。変ですか?」
能登島は今にも魂が抜け出しそうな顔をして澤井に至っては挙動不審の様相を呈していて。周りからはどよめきとも感嘆とも取れる声が上がり。
百田さんの事を聞くと委員会でと返事が返って来た。
「日曜日に深月君と一緒に居たのは黒木さんだったんですね」
「やっぱり澤井には見られていましたか」
「深月君には気付かれないように細心の注意を払っていたつもりなんですが」
「ええ、深月さんは澤井さんが居たことを知っていたんですか?」
フクロウの駅を出た時には少し後ろを歩いていた澤井に気づいていた事を告げると黒木さんが驚いていて。
能登島に隣人に夢中だったんですねと言われ黒木さんは頬を染めて俯いてしまった。
日曜日に集中砲撃を受けているのに2日連続は勘弁して欲しい。
「澤井さんも買い物していたんですか?」
「僕は違う用事でして」
「もしかしてロケハンですか?」
「ちょっと行き詰まってしまって気分転換に行ったら」
澤井に聞くと苦笑いをしていて黒木さんが僕にロケハンの意味を求めている。
「黒木さんはタンジェリンと言うコミックを知っていますか?」
「うん、伊澤 葉さんのタンジェリンでしょ。大好きだし毎週読んでるよ」
「ここからは最高機密事項になり万が一にでも漏れてしまった場合にはその大好きなタンジェリンが読めなくなりますが聞きますか?」
黒木さんがゴクリと息を呑み小さく頷いて僕の方に耳を近づけた。
「実は伊澤 葉は澤井のペンネームです。この意味が分かりますよね」
「…………」
周りに聞かれないように小さな声で伝えるとゴトリと音がして黒木さんがテーブルに落ちてしまった。
「落ちましたね」
「まぁ、俺等も初めて聞いた時は似たようなモノだっただろ」
澤井は中学の頃にはデビューしていて高校になってから書き始めたのがタンジェリンだ。
流石に作者が男だと言う事を公にすることは出来ずに極秘情報になっていて友人である僕と能登島以外に知っているのは出版社だけで。
表に出れば大騒ぎになるのは確実だろう。
立ち直りの早い黒木さんがむくっと起き上がった。
「ああ、びっくりした。自筆のサインで手打ちにしたいです。それとここにチケットがあるんですけど」
「水上公園の前売りチケットですか。6枚綴なんですね。黒木さんさえ良ければ皆で行きますか。澤井はどう思います」
「僕も賛成ですね。久しぶりに皆で遊びに行くのも気分転換になりますから」
大坂の陣の様に外堀まで埋められてしまい前向きに考えるしかなさそうだ。
「チケットは6枚ありますが」
「深月さんに私に能登島さんと澤井さんでしょ。結衣は誘わないなんて有り得ないから」
「1枚余りますね。天堂くん、君も一緒に行きましょう」
突然、僕達のテーブルの後ろで立ち上がりロボットのような動きをしているのは天堂くんだった。
おそらく黒木さんが髪を切った理由が僕にあると思い探っていたのだろう。
「なんで僕が深月先輩達とプールに行かないといけないんですか?」
「ああ、そうですか。天堂君はショートヘアーになって磨きがかかった黒木さんとは一緒にプールに行きたくないと言うんですね」
「なんで態々プールを強調するんだよ。絶対に確信犯だろう。本当に嫌だ」
「それじゃ天堂君、百田さんに日程などを確認しておいてくださいね」
改めて返事を聞くまでもなく同意してくれたみたいだ。
少しして黒木さんが僕の部屋に飛び込んできた。
「そんなに慌ててどうしたんですか?」
「こ、これ。大変。騒ぎに」
「いつから片言の外国人になったのですか?」
黒木さんが手にしているのは月二回刊行される少女コミック誌で表紙にタンジェリンの文字が見え。
片言の黒木さんが開いた見開きには見覚えのある街で高校生のカップルが手を繋いでいる後ろ姿が描かれている。
「流石、伊澤先生ですね。女の子の気持ちを鷲掴みですか」
「どうしよう」
「少し落ち着きなさい。僕と黒木さん以外でこれが誰か分かる人がいるんですか?」
良かったとフェードアウトしながら黒木さんが崩れ落ちた。
青春群像を描いたコミックなのだがそれぞれの主人公にはモデルがいるらしいが僕が含まれていないことを祈るだけだ。
「そうだ、澤井から黒木さんに渡しておいてくれと頼まれてまして」
「澤井さんからですか?」
「ええ、そうです。確かに渡しましたからね」
僕が渡した色紙を見た瞬間に黒木さんは成層圏を離脱しそうな勢いで天に昇っている。
落ちたり上がったり、忙しそうなのでしばらく黙っておこう。