85.春に風 5
薄桃色のドレスでフランチェスカは私を部屋の外まで送ってくれた。
「今日はそのドレスで過ごされないの?」
「惜しいけど着替えるよ――母上に笑われるのも癪だし」
私は小さく笑って王女たちに別れを告げた。王宮内を桃色のドレスでうろつくのは躊躇われるらしい。
私は王宮の廊下をシルヴィアと並んで歩きながら、北部の話をしてみた。――アレクサンデルの警告についてだ。
彼女は私の話を真面目に聞いてくれた。
「ではレミリアは水害がメルジェにあると思うわけね?」
「……かどうかはわからないけれど、アレクサンデル神官がわざわざ私に言うんだもの……備えておいても悪くないかな、って」
シルヴィアはいいわ協力しましょう、と請け負ってくれた。ついでに、と言う。
「ドミニクに頼んでみたら?北部の事なら彼も知りたいでしょうし」
「そうします」
私はそう答えてシルヴィアとも別れて、王宮を後にした。
シルヴィアは今もドミニクと親しくしているようだった。
ドミニク・キルヒナーは北部随一の商会の跡取りで次期男爵。伯爵家の娘とは言え寡婦のシルヴィア。
再婚にあまり身分は問われないカルディナでは釣り合いの取れる縁組で、噂ではカタジーナ伯母でさえドミニクを気に入って、悪くはないと仄めかしていたらしいのだけど。
「私は今後誰とも結婚するつもりはありません」
とシルヴィアは言ったとか言わないとかで、結局、ドミニクの求婚を断ってしまった。
勿体無いなぁと私も思ったし、誰より落胆したのはシルヴィアの妹でヘルトリング伯爵夫人のアデリナだった。
シルヴィアの死んだ夫――侯爵は暴力的で浮気性な人だったという。
不幸な結婚生活のせいですっかり家庭を持つことに憧れなくなった姉が、ドミニクと結婚して――今度こそ幸せになれるかも、とアデリナは期待していたらしい。
ドミニクと現ヘルトリング伯爵はウマがあって仲良くしているみたいだし、家族ぐるみの仲になれるのを期待もしていたんだろう。
シルヴィアは肩をすくめて結婚だけが幸せってわけでもないでしょう?家にいるのが問題なら、自立して自分の食い扶持は稼ぐわ、と令嬢らしからぬ事を言い放ち、女王陛下に請われるまま王宮づとめをはじめてしまった。
見た目に似合わず強情、とは父上のシルヴィア評だ。
……ドミニクは残念です、と潔くふられて、以来、親しい友人としてつきあっているみたい。
友人にしては二人でよく遊びに出かけているけれど、あくまで友人としての付き合い、だと本人たちは主張している。
シルヴィアとアレクサンデルの話をドミニクに手紙で報せると、ドミニクは至急調べて報告しますと返事をくれた。――仕事が早い。
ドミニクの返事も待って、父上に相談してみよう。
数日後、夜はお呼ばれだから昼のうちに色々やってしまおう、と書斎を片付けていると瞬く間に夕方になり――とんとんと扉が叩かれた。どうぞ、と私は応える。
「ねーね」
「どうしたのユーリ?」
ユリウスがひょっこり顔を出した。
背後には弟の侍従のトマシュ・ヘンデルが控えている。
トマシュに私が視線を向けると、彼は人の良さげな顔に苦笑を浮かべた。
「それが、お嬢様……今日のお出かけの事で」
「どうしたの?」
「ねーね、僕もおよばれ行きたいです、ねーねとおとうしゃまは、行くんでしょう?」
「ユーリ、今日は大人の会だから、だめだよ。また今度ね?」
「ユーリおとなだよ」
ユリウスは頑固に首を振った。トマシュが私にこっそり教えてくれる。
「お昼寝のお時間に、お二人がおよばれな事を思い出したらしくて――ご自分も行きたいと……申し訳ありません、まだお昼はお休みでは、ないのです」
寂しがりやだからなあ。私はペンを置いて弟を抱き上げた。ずっしりと重くなったね……!
「ユーリ、おひるねはしたの?」
「眠くなーい」
「駄目よ、お医者さまもちゃんとお昼寝しなさいって言われたでしょう?」
「やだあ」
仕方ないなぁと私は弟と一緒に彼の部屋へ戻った。枕元で本を広げて読んでやる。ここ数年、貴族の間で流行っている絵本だ。
ぐずっていたユーリはウトウトとしはじめて、私が寝具をかけてやると、やがてぐっすりと眠りについた。
「お忙しいところを――」
「いいの。国教会にひとりでいたから赤ちゃん返りしてるみたいね――トマシュからも離れないでしょう?」
トマシュは苦笑した。
トマシュ・ヘンデルは弟の警固も兼ねて侍従をしている。彼は弟の大のお気に入りで乳母や侍女をそっちのけでユリウスは彼に懐いているけれど、トマシュは少し過保護なので、セバスティアンは時折彼を叱責もしていた。
若君可愛さにわがままを許してはいけない、って。
「私達がいないときにユーリが目を覚まして泣いたら、あやしてね」
「承知いたしました。お忙しいところを申し訳ありませんでした」
弟に甘いのは私も同じだから――あまり言えないけどさ。
父上と私が招かれたのは、とある伯爵家の演奏会だった。王都近くに領地がある古い家柄の一族だ。
十八になるお嬢様のヴァイオリン演奏が見事だからと演奏会を開いていて――数人の楽団を引き連れての演奏だった……豪華だな!
ご令嬢はなかなかの腕前だったけれど、演奏を聞いてほしいと言うよりも、彼女も今年、社交界デビューだからとお披露目の意味もあるんだと思う。高位の貴族や若い男性が、そこそこ集まっていた。
演奏会の後は和やかなパーティーとなり、挨拶に来たご令嬢は品よく笑った。
見事な演奏の腕前だと父上が彼女を褒め、ご令嬢は赤くなる――。その様子に彼女の両親である伯爵夫妻が意味有りげに父上を見たので――私は少し気分が沈んだ。
父上は三十を過ぎたばかりで、独身だ。
再婚してもおかしくないし――むしろしないのが不自然だろうし……、私がいる前でも再婚の話を持ち出される事が無いでもない。娘にはよい相手がみつかると良いのですがと伯爵が微笑み――父上は軽く笑う。
「――素敵なご令嬢だ。すぐに相手がみつかるだろう。なんなら私が探してもいい」
「そっ、そのような。ですが公爵、一曲踊っていただけませんか、その、ダンスのご指導を……」
令嬢の申し出に父上は微笑んで辞退した。
「足を痛めてね。ダンスは踊らないんだ」
しおしおとご令嬢は引き下がり、私は悪いなぁと思いながらもほっとした。
――父上が、誰かと再婚かぁ。
そんな日が来たらどうしようかと思うだけで、心が沈む。
父上は母上が亡くなってから誰とも踊らなくなった。ヤドヴィカ以外とは、もう躍らないと言って。
その言葉に、駄目だと思いながらも私は喜んでしまっている。だめな娘だな……。
ほっと息をついた私を伯爵夫人がほほほと笑って見た。
「レミリア様と同じ年に社交界へデビューなどと、娘は運がありませんわ!レミリア様のことで話題がもちきりですもの」
「まだ決まったわけではありませんのよ?伯爵夫人。ダンスに自信がなくて」
「レミリア様はダンスがお上手だとうかがっておりますわ――お相手はどなたになるのか、楽しみにしておりますの」
父上からダンスを断られた伯爵令嬢ジャネタ様はあっさり立ち直って会話に加わった。伯爵家はヴァザの遠縁にあたるんだけど、一族とは全く似た気質のない朗らかないい人達だなあ……。伯爵が続けた。
「カタジーナ様もはりきっておられましたよ、準備をせねばと」
「カタジーナが?」
「ええ、今日も遅れていらっしゃると」
父上は一瞬浮かべた不快の色を瞬きひとつのあとには隠してみせた。この四年で父上は随分、笑顔の仮面が板についてきた気がする。
カタジーナ伯母か、と私が少し眉間に皺を寄せて居ると、人々の視線が私たちに集まり、ザワザワと声が聞こえた。
何事だろうと私が振り返ると背の高い中年の貴婦人が、若い娘を連れて広間の入り口に立っている。羽根の付いた髪飾りは一昔前の流行だ。
カタジーナ・ヤラ・ヘルトリング。
父上の長姉だった。彼女を人波が避け、カタジーナは伯爵の元へと迷いなく歩いて来た。
「これはこれは、カタジーナ様!おいでいただき、光栄です」
「お招きありがとう、伯爵。レシェクもレミリアも偶然ね」
「ごきげんよう伯母上」
「カタジーナ……。貴女がいるとは思わなかったな」
「私もよ」
父上の横顔に嘘をつけ、と書いてある。カタジーナは横にいる若い女性を、私達から聞かれてもいないのに紹介した。
「こちらはザビーネ・ハイデッカーよ」
「ハイデッカーというと?軍務卿の?」
「ええ、伯爵。ハイデッカーの姪なの」
気の強そうなご令嬢は伯爵にも私にも微笑みかけ、父上に挨拶した。この場で一番身分が上なのは父上だから間違いではないけれどあからさまな……。
「ザビーネと申します、閣下。お初にお目にかかります」
「初めまして、ザビーネ嬢。貴女も楽しまれると良い」
「伯父がいつも閣下の話をしてくれるので初めてお会いした気がしませんわ。お会い出来るのを心待ちにしておりましたのよ」
会話を打ち切ろうとした父上に、ザビーネは気付かないフリをして続け、伯爵が斜め方向に気を使い、広間の隅にあるテーブルを示した。
「閣下。カタジーナ様、飲み物をお持ちしますのであちらへどうぞ」
「いや……、そうだな」
断ろうとした父上は広間の奥へ視線を向けると、何故だか承知した。
不審がる私に向かって微笑むと、父上はテーブルへと移動した。テーブルを囲んで飲み物を受け取りながら、私は思い出した。
ハイデッカー卿の姪のザビーネ。
伯爵家の三女で……カタジーナの気に入りだったはずだ。度々カタジーナが父上に……後妻としてどうかと勧めている娘。
父上がばっさりと断っているので業を煮やして偶然を装って現れたのだろう。
喋るのはカタジーナとザビーネだけで私と父上は相槌を打つばかりだった。父上は微笑んでいるだけで……。
「ザビーネほど賢い娘はなかなかいませんよ。領地経営にも詳しいの。レミリアも教えてもらうとよいわ」
「レミリア様も大変でしょう?私、少しならお手伝いできると思いますわ」
……私は経営については、父上やセバスティアン、彼らの時間がないときは、北部一の商会であるキルヒナー商会のドミニクや男爵自身に教えを請うている。ザビーネなんか必要ない。絶対。
「レミリアは社交界デビューで忙しいのだから、少しは家の事は忘れなさいな……それに、貴女が嫁いだら、家には女主人が必要だわ?ザビーネを、というわけではないけれど、もう独身になって四年もたつのだし、そろそろ考えてはどう?」
「是非いちど、ゆっくりお話を」
四年も?まだ、四年だ。
私の目が吊り上がりそうになり、反論しないようにと引き結んだ口元がそろそろ限界になりかけたとき……、父上がふい、と顔をあげた。
「――よく来たな、姉上」
「……?あねうえ?」
ザビーネが振り返ると、そこには、シュタインブルク侯爵夫人、オルガ・バートリがいた。父上の三番目の姉。
四十も近いはずだがまったくそうは見えない若々しい美貌に彼女を案内して来ただろう侍従が思わず見惚れている。
透き通った肌の続きのような象牙色のドレス。年甲斐もなく花嫁衣裳のようだとは笑われないように黒い糸で花が刺繍してあり額縁のようにオルガを引き立てている。
「案内をありがとう」
「いぇっ」
濡れた瞳にじっと見つめられた侍従はたちまちに赤くなり、その場を去った。
「レシェク、レミリア、お久しぶりね?」
「オルガ伯母上」
三日前にも会った気がするけどな……。
「カタジーナもお久しぶりねぇ。ザビィも」
「…………おひさしぶりでございます、侯爵夫人」
ザビーネは何故か狼狽え、カタジーナは不機嫌に鼻を鳴らした。
「何をしに来たの、オルガ」
「あら?姉弟の親睦を深めたかったのよ、カタジーナ」
それに、とオルガは艶っぽく微笑んでザビーネを見た。硝子に盛られたベリーを指でつまみ舌の上に乗せる。
「ザビィにも会いたかったし。随分とご無沙汰ねぇ。以前はよく、我が屋敷にも訪れていたけれど。ひどいわ、私たちはもう、お見限り?あんなに楽しく遊んでいたのに」
「…………!」
カタジーナがザビーネを振り返ると、彼女は真っ青になっていた。オルガはふふ、と微笑んだ。父上の後ろに回ると椅子の上に頬杖をつく。弟に秘密を囁くように声を顰める。
「シモンが寂しがっていたのよ?――また、月のない夜に忍んで来てほしいって……」
固まった二人に、父上はそれはそれは、と微笑んだ。
「――今夜はちょうど新月だ。私のことはいい。侯爵の元へ行って来るといい、ザビーネ嬢。ああ、ハイデッカーには無論、秘密にしておこう」
ヴァザの姉弟に微笑まれザビーネは立ち上がった。
父上の婉曲な表現を訳すれば『ハイデッカーにバラされたくなければ、とっとと帰れ』である。
カタジーナから睨まれた令嬢は震え上がって「失礼いたします!」と小走りに去っていく。オルガ伯母上は無邪気に続けた。
「今日はシモンは別の所に所用があって――屋敷にはいないと思うけれど……残念ねぇ」
「オルガ!よくも」
怒りで震えるカタジーナの隣にオルガは優雅に座り、扇子を広げた。
「カタジーナは人がよいから。あんな小娘に煽てられて、騙されてしまうのよ。私は心配しているのよ姉上?」
「おだまり、売女」
低い声で口汚く罵るカタジーナに、私はギョッとしたけれどオルガはふわりとかわす。
「ありがとう、カタジーナ。女が売物になるよう、日々励んでいるの――ああ、カタジーナ、怒っては駄目よ?眉間の皺が深くなるわ。もう、手遅れかしら?」
カタジーナは憤然と立ち上がり、去っていった。
…………湯気が立ってそう。
「お見事」
「いやぁね、レシェク。楽しく世間話をしただけよ?」
父上の呆れ混じりの称賛に、オルガは紅い唇をニッと笑みの形にした。
 




