76. 空色の瞳 16 ※ヘンリク視点
カミンスキの訃報は、カリシュ公爵レシェクの同母姉ヨアンナの元にも届けられた。
珍しく夫であるジュダル伯爵と共に葬儀に参列したヨアンナは屋敷に戻り喪服を脱ぎ捨てるとすぐに着替えてヴァザに戻ると言う。
「ヤドヴィカが心配だわ――すぐに戻ると約束したの」
「ヨアンナ――私達は部外者だ。そう、頻繁にお邪魔しては」
「――約束したんです、貴方。そう長くは滞在しませんから」
邪魔をしないで頂戴。
母が飲み込んだ言葉が、ヘンリクには音を伴って聞こえた。
ヨアンナが決然として言えば父であるピアスト・ヴァレフスキは沈黙するしかない。
幼い時の事だったが、ヘンリクは父の長年に渡る浮気が発覚した夜の翌朝を覚えている。ヨアンナは滅多に引かない真紅の口紅を引いて、口元だけで笑うと、夫に慈悲を持って宣言した。
「――お互い、好きにしましょう私達」
「よ、ヨアンナ。許してくれ、彼女とは関係をたつから! 私が愛しているのはきみ――」
「触らないで」
「ヨアンナ」
「――彼女とは、私と結婚する前からのお付き合いだそうね? 愛した人がいるなら、その方と結婚すればよかったのに! そうすれば――誰も不幸にならずにすんだわ」
母は、不幸なのだ、と。
ヘンリクはその日に知った。
意に添わぬ男と結婚し、その男から裏切られ。――ひょっとしたらヘンリクの事も不幸の一つなのかもしれない。ヘンリクがいなければ離婚も容易かっただろうから。
そんな不安が、よぎる。
無茶をしても悪さをしても、母は悲しくヘンリクを見るだけで、諌めようとはしなかった。父は元からヘンリクには甘い。エスカレートするヘンリクの悪戯を怒るのは、ヴァザ家の面々か、カミンスキ位のものだった。
『伯爵が、僕のお尻をたたいたんだ!』
『じゃあ、私からは拳骨をあげましょうかね、ヘンリク様』
度を過ぎた悪戯に伯爵から雷を落とされ、ベソをかきながらスタニスの元へ走ると、竜族混じりの侍従は軽くヘンリクの頭をはたき、次いでヨシヨシ、とヘンリクを抱きかかえた。
『なんだって、悪さをしたんです?』
『だって、つまんないんだ! 皆、僕の知らない話ばっかりしてて! ……でも、どうしよう。伯爵に嫌われちゃったかなぁ』
か、構ってちゃん……かよ! と空を仰いだスタニスにヘンリクがキョトンとすると、侍従は薄茶の瞳を細めた。
『今すぐ謝りに行ったら、許してくださいますよ』
『うん……スタニスもついてきていいよ』
『ハイハイ、喜んでついて行きますから、ちゃんとごめんなさい言いましょうね』
萎れたヘンリクが謝りに行くと、伯爵は笑って許してくれた。
カミンスキは祖父母のいないヘンリクには、祖父のようなものだった。カードゲームや、ボードゲーム、賢い馬の見分け方。従え方。いろんなことを教えてくれた。
「伯爵を殺したのは、軍部だったらしい――カナンの交渉は、西国に有利だったからな。軍の面目が丸つぶれだ」
「恨みを買ったんだろうよ。――ま、調子のいい方だったからな」
嘲りを口にした衛兵たちの名前を、ヘンリクは覚える事にした。いつか、きっとこいつらには思い知らせてやる。カミンスキは、僕のお祖父様の判断は正しかったのだと。きっと。
ヨアンナがヴァザの屋敷に行くのに、今回、ヘンリクは連れて行かれなかった。父が渋ったからで――、母は父と交渉するのが面倒になるとすぐに折れた。
ヘンリクは、両親の間で物のようにやりとりされる。
「ヘンリク、私は別宅に行くが、一緒にどうかね?」
「旦那様……!」
執事が驚いた顔で主人を仰ぐ。
父はうんざりとした顔でタイを緩めた。
「――気難しいヨアンナがいないんだ羽を伸ばさせてくれ。ヘンリク? どうするね」
別宅には父の妾とその娘二人がいる。ヘンリクは奇妙な物を見る目つきで父親を見た。ヘンリクとそっくりの、色違いの容貌。
父と慕う伯爵が死んで、ヨアンナは傷付いている。その傷心の間に夫が妾の家にいたと知れば――。
「いきません」
首を振るヘンリクに父は甘い声を出した。
「そう言うな。帰りにお前の欲しがっていたものを何でも買ってやるから。妹たちもお兄様の訪れを楽しみにして――」
「行かない!」
叫んで、ヘンリクは走り出した。妹なんか、いない。
父と妾の間の二人はヘンリクと少しも似たところがない。媚びたように父に甘え、ヘンリクを憐れみの目で見るあの女のミニチュアだった。あんな女より、母のほうがずっと美しかった。それなのに、何故、父は母を裏切ったのか。
それに、妹たちなんかより、ずっと従妹の方が可愛らしかった。
あの泣き虫は、葬儀の間ずっと声を押し殺して泣いていた。いつもぎゃんぎゃんうるさいくらいに泣くのに!
気がつくと、屋敷の広間にいた。玄関がざわつくのに気付き、階段を降りる。侍従の一人がヘンリクに気付いて止めようとするのを睨んでとどめ外にでる――――。
そこに居たのは、一人の男と二頭のドラゴンだった。青い、青い――ヘンリクと同じ目の色をした、大きなドラゴンの横に、小さな、ドラゴンがいる。男は困ったように頭をかいた。
「ドラゴン? どうして?」
男は、小さなドラゴンを抱き上げた。
「――先日お亡くなりになった伯爵に、頼まれまして。ここの坊っちゃんにドラゴンを贈ってくれないか、と。貴方がヘンリク坊っちゃんですか?」
「……! 伯爵が?」
男はほとほと困った顔で首をひねった。
「青い目のドラゴンをご所望で……伯爵がお亡くなりになったから、ご不要とは思ったんですが、お代もいただいておりますし、お坊ちゃんに、って言われてたので……」
「馬鹿げた事を言うな! ドラゴンなど不要だ!」
ヘンリクにやっと追いついた父が、息を切らしながら喚き立てる。
その声を遠くに聞きながら、ヘンリクはうつむいた。
『西国土産は何がいいか』と聞いたカミンスキにヘンリクは馬がいいなと答えた。――だけど、その後にそっと付け加えたのだ。
『ほんとは、ドラゴンがいいなぁ。僕と同じ目の色の、ちっちゃな、ドラゴン』
カミンスキは笑ってヘンリクの頭をなでた。
約束を、守ってくれたのだ。
ぱたり、となみだが溢れて、目の奥が痛くなる。
「父上、僕も別宅に行きます」
「おお、そうか! ……ヘンリク?」
「欲しいもの、なんでも買ってくださるんでしょう、父上?」
息子の言葉に喜色を浮かべた父親は、泣きながら笑っている息子に動揺して言葉を失った。
ヘンリクは涙を拭わぬまま、男の手の中で大人しくしているドラゴンを撫でた。ドラゴンは訝しげに少年を見上げ、キュと鳴く。
「僕は、このドラゴンが欲しいです。――飼うことを許して下さるなら、別宅にでも、どこにでも行きます」
「ヘンリク、ドラゴンは危険だ。お前は一度怪我をしただろう! そんなものは」
「――僕のお祖父様が、遺してくれたものです。許可して下さらないのなら、二度と別宅には、行かない。妹たちにも二度と会わない――」
動揺する父親を振り返りもせず、ドラゴンをヘンリクは抱き上げた。仔龍はヘンリクの耳をぺろりと舐めた。
「お前は、僕のドラゴンだよ――お祖父様が、僕のためにくれたんだ――」
仔龍は嬉しいのか少年の首に頭を擦り付けながら、キュ、と鳴いた。




