75. 空色の瞳 15 ※3人称
カミンスキの葬儀は、速やかに行われた。伯爵家の領地ではなく、ヴァザ家の領地で。
カミンスキへに対する公爵の敬意の現れであるとか、あるいは体調の優れない公爵夫人の移動を慮ったからだと、周囲からは噂された。
葬儀を終え、屋敷に戻った公爵夫人ヤドヴィカは疲労もあったのか、そのまま数日寝付いた。
少女時代は人一倍活発で健康だった彼女が寝付くのはひどく恐ろしいことにレシェクには思える。
「レミリア、編み物は進んだの?」
ヤドヴィカがベッドの上に身を起こして娘に尋ねる。レミリアは泣いたのだろうとすぐにわかる顔で微笑んだ。
「すぐにできます。あとでお見せしますねお母様」
「……貴女は編み物が上手ね、レミリア。まるで……」
「……?」
「いいえ、なんでもないわ。本当に上手」
レミリアはこの数日ずっとヤドヴィカの側にいる。
母が編んだ帽子や靴下とお揃い柄で、自分の防寒具を作っている。編み物は口実で――母親を気づかい、そばに居るのだろう。
「レシェク、貴方の物もせっかくだからお揃いにしましょうか?」
「……私に? それより先に君の分を作るといい」
「みんなお揃いにしましょう! それだと楽しいですね。父上」
「ああ、そうだな」
微笑みあう母娘の光景に、レシェクは胸を痛めた。人は突然の悲しみの後に不自然に明るく振る舞う。そうでもしなければ、悲しみの沼に引きずりこまれてしまうからだ。
レシェクには覚えがあった。何度も。初めは母だった。それから祖父母、乳母、婚約者だったアグニエシュカ――。
「あ、私、毛糸をひとつ部屋に置いてきてしまいました」
レミリアが立ち上がり、侍女と供に部屋を出て行く。
残された夫妻にわけもなく沈黙が落ちる。
何かと忙しいスタニスに代わって夫妻の護衛をしているトマシュが気を使って扉の前まで移動した。
レシェクは娘が編んだ靴下を手に取った。
「……レミリアは、編物が上手だ」
「何かと細かい作業が好きなのよ――まるで……アグニみたいね」
言葉と共に妻の視線が落ちる。
レシェクは、妻の側に座り、手を伸ばした。カミンスキの兄妹に共通の柔らかな茶色の髪。アグニエシュカも同じ髪色だった。
「――今でも夢に見るわ。真っ青な顔で帰って来たあの子を。具合が悪いと寝付いて――十日後には、あんなに呆気なく……」
レシェクはヤドヴィカの震える手を掴んだ。何度も触れた手なのに、こんなに温もりがある事をつい最近まで、気づかないふりをしていた。
「――アグニエシュカが亡くなった時、私は君に酷い事を言った」
「……本当の事だわ……」
アグニエシュカは慰問先の施療院で病を得て、死んだ。
慰問するのはヤドヴィカのはずだった。ヤドヴィカは、ほんの気まぐれで施療院へ行くのを嫌がって――。妹はその代役だった。
「君のせいじゃない。アグニエシュカが亡くなったのは、ヴィカのせいじゃない――仕方のない事だったんだ。誰のせいでもない」
「レシェク……」
ぽたり、とヤドヴィカの瞳から雫が落ちる。
「私が、愚かだった……。君のせいにして、アグニエシュカの死から逃げた。君を傷つけて――そして、安心したんだ。アグニエシュカの死は私のせいじゃない、と……そう、思いたかった……。本当は、私の、せいだったのに」
レシェクの周囲には常に死の匂いがつきまとう。
彼が愛した者達は、皆、死んでいく。
項垂れた夫をヤドヴィカは悲しく見た。
出会った頃、彼は寂しい少年だった。別離と裏切りに傷付いて、硝子のような目をして。
心を閉ざしたレシェクを最初に癒やしたのは、アグニエシュカだった。
「ウカシュも」
悲しみをたたえて空色の瞳が曇る。
「――私が殺したようなものだ。あらゆる事に背を向けて、責任を彼に押し付けた――彼を矢面に立たせて――彼が負うべきでない恨みを向けさせた――」
ヤドヴィカは、レシェクを抱きしめた。
昔、幼かった彼をそうしたように。
「ヴィカ――私が、愚かで卑怯だった。――庭にこもって、嵐が過ぎるのを怯えながら待てばいいのだと――」
そうすれば、不幸は通り過ぎるのだと――。
「……今まで目を背けていた事に向き合おうと、思う」
「あなた」
「私はヴァザの復権など望んでいない。ベアトリスが敷いたこの国の平和な未来を、進めて行くほうがいいと思っている……」
体を離した二人はじっと見つめ合った。
「軍部の急進派を抑え、この国の政情を安んじたい」
「……レシェク」
「君は、落胆するかもしれないが、時はもとに戻せない。私は玉座に座る気は無い。ヴァザ王家は――もはや過去の、遺物だ。それに縋る姉や、軍部の望みは絶ちたいと思っている」
ヤドヴィカは苦笑して、目尻を拭った。父が、と言う。
「父が言うでしょう。何故それを私が生きているうちにおっしゃってくれないのですか! と」
「ヴィカ」
「――はじめて、貴方の考えを聞いた気がいたします――愚かなのは、私の方ね……ずっと貴方の望みと真逆の事をしていた――」
レシェクは妻の手を握った。臨月だと言うのに具合が悪く、あまり食べられず、痩せてしまった。
「ベアトリスから内々に打診があった。公務に、復帰しようと思う。彼女の治世を盤石にする手助けをするつもりだ。レミリアや生まれて来る子供の為にも、ヴァザにまとわりつく禍根を失くしておきたい……」
「レシェク」
「頼りない夫ですまない……、もう、遅いかもしれないが、君達を守りたいんだ。――隠れるのは、止めにする」
ヤドヴィカは首を振った。自分の左手を握る夫の手を、更に右の掌で包む。
「遅くなんて、ないわ。――嬉しい」
「ヴィカ」
「約束してくださいね、レシェク。きっと、子供達を守ってくれるって」
「……ああ」
「きっと、ですよ」
「……きっとだ」
夫妻はそっと、よりそった。
悲しみもあけぬカミンスキの葬儀の半月後に、犯人は捕らえられた。
正確には、その遺体が。
ウカシュ・カミンスキを殺害したのは――若い軍人。それが、軍と王宮が出した結論だった。
まだ軍学校を卒業して間もないカナン出身の若者で、現場に残された徽章から疑われ――捕獲するために、小隊の上司が彼の部屋を訪れた時には、息絶えて居たという。
自死したらしき遺体の側には遺書があり、こう記されてあったという。
「西国との和平に抗議し、売国奴を誅す」
と。
「出来すぎている――! 暗殺をしようという者が徽章など落とすものか」
ヴァザ家の警護を担う騎士のタウシクが、苛立たしげに吐き捨てた。その横でクレフ子爵が難しい顔で腕を組む。タウシクの自室で、三人は軍部からの報せを聞いた。
「軍部だろうが宰相の子飼いだろうが、必ず見つけ出して同じ目に遭わせてやる」
いきり立つタウシクを横目に真偽はわからないが、とスタニスは呟く。
「……少なくとも三人はいただろうな。切り傷が一人にしては多かった――」
遺体を引き取ったのはレシェクとスタニス、そしてユゼフ・カミンスキの三人だが、伯爵の息子達が席を外した際にスタニスは遺体の首から下を確かめた。
少なくとも十はある傷のうち、浅いものがいくつか。
そして、致命傷と思われるものが二つ。――どちらも鮮やかな切り口で振り下ろされていた。
「死んだ犯人は左利きだっていうしな――傷はどれも左から振り降ろされてた」
「同一人物だと?」
クレフが片眉をあげた。ああ、とスタニスは肯定した。周囲に余人がいないので、口調は気安いものになっている。
「……に、見せかけたのかな。……上手い奴の斬り口は、綺麗に切れてる割に浅い……。利き手じゃないから力が上手く伝わらなかったのか。隠す気があったかどうかは知らないが――何故カミンスキは殺された? 誰が彼を邪魔に思ったんだ」
スタニスは深く、息を吐く。クレフは遠くに視線をやった。亡き人を悼むかのように。
「わからぬ。心当たりが多すぎる。カミンスキ伯爵は、公爵ご夫妻がつづがなくお暮らしになるよう腐心しておられた。閣下がお立場を利用されることがないように、王家との架け橋になり、軍部の仲立ちとなって――公爵は公務に戻られるとしても――軍部に影響力をもっていらした伯爵がおられないのは、辛いな」
「ユゼフ様は?」
「――ユゼフ様は、良い方だ。だが、伯爵のような柔軟さには――かけるだろう。ベアトリス陛下の軍部へのお考えに反発があるようだ」
スタニスが、そうか、と頷いた時、廊下から慌ただしい靴音が幾つも聞こえた。
不安に駆られて外に出ると、見知った顔の女が青褪めて廊下を走っていた。
「ナターリア、どうした?」
「スタニスさん!」
ヤドヴィカ付きの侍女は、しがみつくようにスタニスに近寄った。
「どうした、そんなに走ってどこに行く」
「離れに、――サピア医師を呼びに行かなくちゃならないんです!」
「どうした」
「奥様が! ヤドヴィカ様がお苦しみになられて……!」
「……! 先生は私が呼びに行く。お前は戻って、奥様についていてくれるか」
「はい……!」
スタニスは部屋を出ると、侍女と反対方向に駆け出した。




