74. 空色の瞳 14 ※3人称
訃報を聞いたその足で、レシェクとスタニスは帰路についた。
襲われた状況と遺体が伯爵と判断された証拠――彼が幼少時に遭遇した火事で負った火傷がそれだが――について、ユンカーは淡々と話した。また、遺体が現在国教会に安置され、引受人を待っていることも、告げる。
スタニスはレシェクに問うた。
「……まずは、屋敷に戻られてから、国教会に向かいますか公爵」
「ああ」
「――馬を」
呼ぼうとしたユンカーを、スタニスが止める。
「いえ、いつも通り馬車で。私はともかく公爵が馬では……何事かと騒がれるでしょう。――訃報を知っているのはどなたです?」
「私と陛下……軍部の上層部には耳に入っているだろう」
そうですか、と至極冷静に答えて……スタニスはちらと主を見た。
ユンカーの報告を言葉少なに聞いていたレシェクはいつも通り無表情だった。彼をよく知らない者から見れば、義父の不幸にも心を動かさない、噂通りの心根の冷たい男だと思うだろう……。
馬車の準備が整うまでの間、三人は無言だった。戻ってきた衛兵が準備が整ったことを告げ、公爵は音もなく立ち上がる。
「……戻るぞ」
「はい」
掌にわずかに走る震えを、握りしめて押し殺し、ユンカーの横をレシェクが通り過ぎる。それを悲しく見て、スタニスが宰相の前を横切り、礼をしたとき、ユンカーは顔をあげ、苦く呟いた。
「……酷く残念だ」
「……」
「彼のように物事を冷静に……私欲なく見られる貴族は少ない……個人としても、……楽しい方だった」
「……宰相閣下。伯爵を襲った犯人に目処はついているのですか」
ユンカーは首を振る。
軍人時代はユンカーの指示に従って動いたこともないではない。あの頃はまだ彼も宰相ではなく、表情豊かな実直な青年だったが時を経て宰相となったユンカーの表情には、ほとんど感情と言うものが見受けられない。
「まだ、わからない……少なくとも、私の知るところではない。陛下も、彼の死を悼んでおられる」
「公爵はともかく、世間は疑うかもしれませんね」
「私達が伯爵を害したと?君にしてはおろかなことを言う、サウレ。カミンスキは常に私達に中立だった。彼を排除する理由がない……」
「信じろと?」
「我等なら……いや、私ならばもっと上手くやる」
スタニスは溜息をついた。
そうだろう、とは思う……レシェクも理性ではわかってはいるだろうが、納得は出来ないだろう。彼の母も、祖父母も、王家の不興を買った直後に事故で亡くなっているのだ。
「……誰の仕業か、すぐに突き止めよう。公爵のご懸念をはらすよう全力を尽くす」
「……ご無礼な事を言いました、閣下」
「いいや」
スタニスは黙って頭を下げ、主を追う。
抜け目ない……しかし、どこか剽軽な老人の顔を思い出し、苦く言う。
「……孫守、するんじゃなかったのかよ、あんた」
唇を引き結び、奥歯を噛みしめた。
屋敷に戻り、二人を迎えたのは、公爵家の一人娘のレミリアだった。彼女は二人より早くについていた軍からの使者――ユンカーは屋敷には報せをやらないと言っていたにもかかわらず――から祖父の訃報を聞いていた。
悲嘆にくれ、小さな身体を震わせていたレミリアをなんとか宥め、カミラとヒルダに託してスタニスは、レシェクの元に戻る。
レシェクはタウシクと共に、軍部からの使者を送っていたところだった。
「使者は、なんと?」
「宰相が私達に話した事と相違はない」
「……先程の使者は誰の部下です?」
「ユゼフの部下だが……同時に軍務卿の部下でもあるな……ユンカーは軍部からの使者はやらないと言ったがな……掌握出来ていないということか」
レシェクは額に手を添えて、呻いた。義父の訃報を己の口からではなく、余人に伝えられた事に腹が立つ。……軍部を掌握出来ていないユンカーに、ではない。軍部に軽んじられている自分自身に、だ。
「……レミリアはどうしている?」
「今はヒルダが傍におります」
「ヴィカは?」
「お部屋に……今日もお具合がよろしくなく……、まだ報せてはおりません」
滅多に笑顔以外の表情を浮かべないセバスティアンが俯く。そうか、と呟いて天を仰げば、己の瞳と同じ色の空は忌々しいほどに晴れている。レシェクを嘲笑うかのように。
ヤドヴィカの部屋に向かう足取りは、鉛のように重かった。セバスディアンが開いた扉を開けて妻の寝室に立ち入る。妊娠してから体調の思わしくない――レミリアのときもそうだった――妻の部屋は近頃調度品の色を変えた。柔らかい落ち着いた色。
――二人の間に束の間訪れた平穏を象徴するかのように優しい、色。
妻は身を起こしていた。手元には編み棒があり、小さな靴下を編んでいる。レシェクはその場所に縫いとめられたかのように立ち止まった。
カルディナに生まれてくる赤子は最初の冬を、母親の編んだ防寒具で過ごすのが慣例だった。冬の悪魔から魂を、母親が守れるようにという呪いなのだ。
レシェクの母は、それらをレシェクには作ってくれなかった。彼女はいつも不安げで、虚ろで――夢の中に逃げたまま、若くして、死んだ。
だからその風習をレシェクが知ったのはカミンスキの屋敷に引き取られてからで、はじめての冬に呆れるほどの編物を貰った。
亡きカミンスキ伯爵夫人に、お姉さんぶったヤドヴィカに、婚約者で伯爵家の末の妹のアグニエシュカに。
レシェクの婚約者は、初めアグニエシュカだった。ひとつ年上の、春のように朗らかで心優しいアグニ。気難しい少年の心に彼女の全てが降り注いだ。枯れかけた若木が恵みの雨を求めて空に手を伸ばすように、レシェクは彼女を求めた。アグニエシュカが好きだった、とても。彼女がいれば他には何も要らないと思っていた。
けれど、アグニは流行病に罹患して、呆気なく死んだ。
ヤドヴィカの代わりに慰問に訪れた先での事だった。家族を亡くして悲しむヤドヴィカに、あろう事かレシェクは言い放ったのだ。
「……ヴィカが行けばよかった。そうしたらアグニエシュカは死なずに済んだのに」
その時の、ヤドヴィカの表情を今でも覚えている。凍りついたように色を喪って、――ヤドヴィカは葬儀の間一粒も涙を零さなかった。冷たい女だと、これで公爵夫人になれるからかと参列者が揶揄する中、本当はレシェクも気付いていた。ヤドヴィカは泣かなかったのだ……妹を間接的にでも殺した姉が泣くわけにはいかないと。
お互いの溝が埋まらぬまま、「レシェクはカミンスキの娘を娶らせる」というマテウシュと国王の取決めのせいで二人は夫婦になった。
「レシェク?早いお帰りでしたのね?」
暗い思考からレシェクを戻らせたのは妻の声だった。頷いて彼女のベッドサイドに腰かけ、彼女の作品に目をやった。
「……冬の準備は出来たのか」
「大体は。でもレミリアがお揃いのものを欲しいと言うので、もう少しかしら」
楽しげにあれこれと語る姿は昔と変わらない。
ヤドヴィカは小さなレシェクにも優しくしてくれた。たまに理不尽に怒ることはあったけれど、「私の弟になるんだから、仲良くしましょう」と笑って。
沈黙を破ろうと妻の手をとるとヤドヴィカは訝しげにレシェクを見た。彼女の手は、いつものように温かかい。
レシェクの常ならぬ様子に、笑顔だった妻が、みるみる顔をこわばらせていく。
「ヤドヴィカ」
声を振り絞ったレシェクにヤドヴィカの手が震えた。
「……悪いことが、あったのね」
「…………ヴィカ」
「だって貴方、アグニエシュカの時と同じ表情をしてるわ……」
公爵はかつては義姉のように慕っていた幼馴染を――妻の手を握りしめた。ゆっくりと瞬きをし、口を開く。短い言葉が毒のように重く舌を湿らせる。
「悲しい報せだ。ヤドヴィカ。君のお父様が……カミンスキ伯爵が亡くなった」
「…………嘘でしょう」
「馬車の、事故だ、今から迎えに行ってくる」
レシェクの言葉にヤドヴィカは呆然と繰り返した。
「嘘、でしょう」